月間アーカイブ: 2016年6月

  2016-06-29 6月29日(水) 全校礼拝

6月29日(水)全校礼拝が実施されました。
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讃美歌 18番(1,2番)

聖書:ローマの信徒への手紙5章1-5節   

「希望に生きる」

 皆さんは、何か困ったことや苦しいことに遭遇した場合どうされますか。普段信仰心がない人でも、そういう時には神や仏に祈ったりと言うことはないでしょうか。 「困った時の神だのみ」という言葉があります。普通宗教を求めるという場合、何か困った事が起こった時、苦しいことが起こった時に、それを取り除いて貰おうとして求める、ということが多いのではないでしょうか。普段は宗教には無関心であっても、苦しい事が起こった時に、神や仏に頼ろうとする人がいます。そして普通の宗教は、信仰すればこういう悩みを取り除きます、ということを言うのではないでしょうか。そういうものからは、聖書の言葉は少し理解出来にくい所があるかも知れません。
 先程読んだローマの信徒への手紙5章3節で、パウロは「苦難をも誇りとします」と言っています。しかい、苦難は、私達にとっては、決して歓迎すべきものではないでしょう。少なくとも、それを誇りにしたりするものではないでしょう。そういう事態は出来るだけ避けたいし、もし起こっても出来るだけ早く取り除いて欲しい、と思うものではないでしょうか。そして、そのために神仏に願ったりするのです。苦難を誇れという宗教は余りないと思います。
 しかしここでパウロは、「苦難をも誇りとします」と言っています。しかし、パウロは、この苦難を成功することの手段と考えているのではありません。苦難をステップにして何か成功しようというのではありません。かと言って、苦難それ自体を喜んでいるのでもありません。そうではなく、その苦難はそれに終わらず、希望へと通じていることを信じているからです。それは、神を信じ神に委ねることから与えられる希望です。人間、希望に生きることが、いかに大きな力を与えてくれるか、ということが分かります。
 希望を持って生きた一人の人のことを話します。それは、『夜と霧』という本を書いた心理学者のフランクルという人です。彼はユダヤ人ということで、第二次世界大戦の時、ドイツのナチスに捕らえられ、強制収容所に送られました。そこに於いては、過酷な条件のもとに多くのユダヤ人が死んでいきました。しかし、そのような過酷な条件の中にあっても死なずに生きていた人(自分もその一人でしたが)は、必ずしも肉体的に頑強な人ではなく、何かの希望を持っていた人であった、と言います。例えば、「今晩の食事には何が与えられるだろうか」というようなささいなことを連想するのです。ほんの些細な希望ですが、極限状況の中でそのようなことを考えることが生きる力になった、というのです。何の希望も持てなかった人は死んでいった、というのです。1944年のクリスマスが済んだ時に大勢の人が死んでいった、と言います。それは、彼らはクリスマスに家に帰れるという当てもない期待を抱いていたのですが、それが実現しなかったので、希望が挫かれ、気力も失われてしまった、と言うのです。フランクルは、心理学者として、それを冷静に観察し、希望を持っている時は病気に対する抵抗力を高めたが、それが失望になると抵抗力を低下させ、ついには死に至らせた、と言います。
 このローマの信徒への手紙を書いたパウロという人も、実にいろいろな苦難に遭遇しましたが、その苦難自体を見て絶望的な思いを抱くのでなく、その苦難は忍耐を通して、希望へとつながっていることを確信したがゆえに、大きな働きをなすことが出来たのです。苦難を経験しない人はいないと思います。私たちも長い人生の中に置いて、多かれ少なかれ何らかの苦難に遭遇します。あるいは皆さんの中にも、現在何らかの苦難を抱いている人もいるかも知れません。その時に、絶望に打ちひしがれてしまうのでなく、忍耐をしつつ、その中になんらかの希望を見いだすなら、それは大きな力となります。どんなときにも希望を抱くことが大切です。希望に生きる者でありたいと思います。

 

  2016-06-27 赤ちゃん先生プロジェクト 開催

6月27日(月)赤ちゃん先生が中学生全員対象に行なわれました。

赤ちゃん先生とは『親への感謝』をテーマに、赤ちゃんのありのままの姿からママ講師と赤ちゃんの関わりを見て触れること、またママ講師からの話を聞くことで「自分もこんな頃があり、今ここにいるのも周りの人にたくさんの愛情を注いでくれたからなのだ」と感じていただくことを趣旨としています。

初回の今回は『赤ちゃんと仲良くなろう』を目的に、今年度1年を通じて関わる赤ちゃんとのふれあいを中心に過ごしていただきました。

 


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昨年度も開催されていた赤ちゃん先生。
今年度第1回目の赤ちゃん先生も生徒たちに大盛況でした。


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今回参加してくれた赤ちゃん先生は7名。先生は最初緊張していましたが、次第に生徒たちと触れ合いながらいろんな顔を見せてくれました。

 

今後は、9月と12月に先生として来てもらえる予定なので、生徒たちも心待ちにしています。

 

   高校2年生対象 進路講話

オープンキャンパス事前指導ガイダンスが実施されました。

6月27日(月)の総合の時間を使って高校2年生対象にガイダンスが実施されました。

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本学院に入学してからもう1年が経ち、学校生活にも大分慣れてきた2年生ですが、少しずつ自分の進路について考えていかなければなりません。
そこで今回は、講師の方をお招きし、大学のオープンキャンパスに行くことの重要性を話してもらいました。


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生徒は大学の募集パンフレットだけでは分からないことや、大学の設備、取得できる資格など様々なことを耳にすることができ、真剣に聞いていました。

 

  2016-06-24 6月22日(水)全校礼拝

6月22日(水)全校礼拝が実施されました。

讃美歌 60番 (1、2番)
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聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12節~26節  
題名:「違いを大切に」  
夙川学院宗教主事 樋口 進 牧師

私たちは自分たちとは違った者に対して偏見を持つと言うことはないでしょうか。例えば、外国人に対してとか。今、ヨーロッパでは、シリアからの難民が大勢移動しています。これに対して、ドイツは難民を喜んで受け入れていますが、他の国ではそうではなく、むしろ排除しています。一方では、違いを排除する、一方では違いを受け入れるという態度です。今のイギリスでEUから離脱するか、残留するかで、国民投票をするということで話題になっていますが、それも移民の問題が大きいといわれています。
 さて、人間はいろんな違いがあります。そのとき大切なのは、そういう違いのある人々をよく理解し、そして尊重しなければならないということです。いろいろな国々や、いろいろな人種や、いろいろな宗教には、それぞれ違いがあります。人間、違いがある時には、違和感を覚えるのではないでしょうか。ある場合は、理解できない、ということが起こるのではないでしょうか。違和感を覚え、そして理解できない、ということになると、それを排除しようとするのではないでしょうか。そういう所から、民族間の紛争が起こったり、国と国との戦争が起こったり、それが極端になれば、ジェノサイド(大量殺りく)ということも起こります。その極端な例は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺でしょう。アンティ・セミティズムといって、ユダヤ民族は優秀なゲルマン民族とは違うのだ、と言って排除したのです。それで、600万人ものユダヤ人を虐殺していったのです。これは、極端な例ですが、しかし人間、違う人間に対しては、それを排除しようとする傾向があります。違いを理解し、それを尊重するということは、難しいことかも知れません。しかし、今のドイツは、過去の民族差別の反省から、差別のない世界になっているという印象を受けます。わたしは、6年ほど前に、ドイツで1年間在外研究をしました。ハイデルベルクという中世のお城で有名な所で、人気の観光地でもあります。ドイツでは、多くの人は、ナチスの時代の排外主義の反省から、外国人に対しては非常に寛容である、と言う印象を受けました。わたしのようなアジア人に対しても、何ら偏見なく接してくれました。
 先ほど、読んだのは、コリントの信徒への手紙で、これはパウロという人が、ギリシャのコリントという町の教会に送った手紙です。リントという町は、港町で、当時はいろんな人が出入りする国際的な町でした。そこで、コリントの教会に集まっていた人もいろんな人がいたようです。そして、この手紙から察する所、違った人には、違和感を持ったり、偏見を持ったり、排除しようとすることもあったようです。そういう人に対して、パウロは体の部分という比喩でもって、お互い理解し合い、また尊重し合うように勧めています。人間の体は、実にいろいろな部分からなっています。一つ一つはそれぞれ違いがあります。しかし、それらが合わさって、一つの調和の取れた体となる訳です。そしてそれらは、違いはありますが、不必要な物はないのです。また、優劣もないと思います。優劣となると、それは排除の論理になります。ここで、パウロは、「目が手に向かって、『お前は要らない』とはいえず、また頭が足に向かって『お前は要らない』とも言えません。」と言っています。違いにのみ目を向けると、また優劣ということになると、『お前は要らない』ということになります。かつてのナチス・ドイツは、そういう論理で「ユダヤ人はいらない」として虐殺したのです。また、かつての日本も、大和民族は優秀だということで、東南アジアに侵略した歴史があります。さらにパウロは、22節で、「それどころか、体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」と言っています。これは、優劣の考え、排除の論理とは逆です。さらにパウロは、26節で、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と言っています。このような精神が、「違いを大切にする」という精神が大切ではないでしょうか。スマップの「世界に一つだけの花」は、店先に並んだ花はみんな違うけれども、みな素晴らしいんだ、という趣旨で、このパウロの「違いを大切にする」の精神とよく似ていると思います。

 

  2016-06-23 高校1年 遠足

6月17日(金)に高校1年生が遠足に行きました。

 

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エキスポシティ内の大阪イングリッシュビレッジで、様々な体験学習をしました。

 

 

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みんな真剣に取り組んでいました。外国人のインストラクターと話す様子がとても印象的でした!

 

 

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昼食後にニフレルへ移動し、動物や魚たちを見ました。

 

 

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自由時間を使って、いろいろな所を回ったようです。目新しいものばかりで、楽しそうでした。
どの場所でも、生徒達は常に笑顔でした!

 

  2016-06-22 高校2・3年美術科 遠足

6月17日(金)に高校2・3年美術科が遠足に行きました。

今回は美術科2・3年生合同の遠足となりました。
行き先は、『あべのハルカス展望台』と『あべのハルカス美術館』

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展望台は迫力満点です!


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美術科の生徒たちは、日々絵画に触れているため、この美術館での鑑賞は今後役に立つ経験になるでしょう。

 

   高校2・3年体育科 遠足

6月17日(金)高校2・3年体育科が遠足に行きました。

行き先はフォレストアドベンチャー朝来
アドベンチャーというだけあってパーク内で生徒たちは体を動かし楽しんでいました。
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日ごろの部活動が活きたのか、皆元気に活動していたのが印象的でした。

 

   中1・中2 遠足

6月17日(金)に中学1・2年生神埼農村公園ヨーデルの森に行っていました!

 

 

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自然がいっぱいのヨーデルの森!魚つかみをしました!

 

 

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掴むのに一苦労。捕った魚は、おいしくいただきました!

 

 

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パン作りをしました。自分の好きな形のパンを考えて作りました。

 

 

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出来上がりに、みんな興奮!おいしかったです!

 

 

  2016-06-21 6月20日(月)花の日礼拝

6月20日(月)5限目に花の日礼拝が実施されました。
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聖書:ルカによる福音書12章22-31節    

讃美歌:60番、575番、27番

題名:「野原の花」

 今日は、「花の日」です。
そこで前に飾られている美しい花を見ながら礼拝をします。私達は、花を見る時、何を感じるでしょうか。ただ奇麗だ、素晴らしい、というだけではありません。それは、神から私達に与えられたプレゼントであります。そこで、この花の日の礼拝において、私達は神の私達に対する愛に思いを馳せたいもと思います。花は、神が私達に下さった、素晴らしいプレゼントのひとつです。もし、この世に花がなければ、と言うことを想像してみてください。それは何と寂しいことでしょう。病気で入院している人にとって、花は大きな慰めとなります。職場における花は、仕事の疲れを癒してくれます。食卓に一輪の花があると、食事を一層おいしくさせます。道路に花が植えられていると、楽しい気分になります。また、礼拝においても、花は欠かすことの出来ない重要な要素です。結婚式における花は、新しいカップルを祝福するのにふさわしいものです。また、お葬式の時の花は、悲しみにある人を慰めます。私達は、生活のあらゆるところで、花によって喜びが与えられ、慰めが与えられ、力が与えられ、夢が与えられます。
 しかし、花の最も重要な働きは、私達に神の愛を教えてくれることです。星野富弘は、『風の旅』という本の中で、次のような詩を作っています。

  「花が上を向いて咲いている私は上を向いてねているあたりまえのことだけれど神様の深い愛を感じる」
この短い詩の中に、実に深い真理が言われていると思います。この星野富弘という人は、皆さんよくご存じだと思いますが、高校の体育の教師になって2か月後に、宙返りに失敗して、首の骨を負傷し、首から下がすべて麻痺してしまい、以来、寝たきりの生活になりました。この星野さんが、たったひとつ動く口を使って、病床で花を描いたのです。そして、先程引用した詩のように、花を見ることによって、神の深い愛を知った、というのです。そして彼は、後に洗礼を受けて、クリスチャンになりました。これは、まさに、神が花を通して、星野さんに神の愛を知らせたように思われます。
 さて、今日お読み頂いた所は、イエスが話をされた記事です。周りには、奇麗な花が沢山咲いていたことでしょう。イエスは、その花を見ながら、神の愛、神がいかに私達を養って下さるかを教えられました。今日の所に、「思い悩むな」という事が繰り返し言われています。25ー34節の間に、4回も出てきます。それだけ、私達は常日頃思い悩むことが多い、ということでしょう。「思い悩む」と訳されているギリシア語は、メリムナという語で、これは人間の奥深く抱いている心配、懸念、悩みを意味しています。私達は、常日頃、生活上のことで、色々思い悩みます。皆さんもきっと、いろいろなことに思い悩む時があると思います。もしも、この思い悩むということから解放されたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。
 しかし、現実は、というと、私達は、常に思い悩んでいるのです。職場での仕事のこと、人間関係、子供の教育のこと、病気に対する不安、老後の不安、皆さんだったら学校の成績、受験、就職、異性の問題、家庭のこと、友達との関係など、数えあげればきりがありません。私達は、絶えず、このような問題に思い悩んでいるのです。
 そして、この思い悩むというのは、昔からそうでした。ただ、現代は、思い悩ませる原因が実に多い、ということは言えるでしょう。
 古代においては、ここにあるように何と言っても食べること、着ることなど、明日をどう生きるか、という生活のことが多かったでしょう。
 釈迦は、生老病死ということを言いました。すなわち、生きていくことにおいても、老けていくことにおいても、病気になること、死ぬこと、これらは人生における苦しみだ、と言うのです。
 イエスは、ここで、食べ物とか着物のことで思い悩むな、と言っています。衣、食、住は、人間の生活において最も重要なことです。イエスは、ここで、食べ物とか着物はどうでもいいのだ、断食して、裸で暮らせ、と言っているのではありません。31節には、次のようにあります。
  ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。最優先するのは、神の国である、ということです。すると、私達に必要な物はすべて加えて与えられる、と言っています。私達がまず求めなければならないのは、神であって、食べ物や着物は、神の恵みとして与えられるものです。与え賜う神を忘れ、与えられる物にのみ目を向けるのは、本末転倒です。
 22-23節には次のようにあります。
  だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着よう  かと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。食べるのは、自分の命を保つためです。ところが、食物と自分の命とでは、命の方が大切です。そして、この命は、神に与えられたものです。旧約聖書の創世記2章のところには、神は土のちりで人を造り、それに命の息を吹き入れられた、ということが言われています。即ち、私達は、神によって命が与えられたのです。そして、神は私達を気まぐれに造られたのではありません。一人ひとりをかけがえのない者として、造られたのです。そうであるならば、この命を保つために食物も与えてくれないはずはありません。
 また、衣服は体を保護するものです。ところが衣服と体とでは、体の方が大切です。そしてこの体は、神から与えられたものです。神が大切な体を与えて下さったのです。そうであるならば、この体を保護するための衣服も与えて下さらないはずはありません。最初の人アダムとエバが「禁断の木の実」を食べて、楽園を追放された時にも、神はこの二人に皮の着物を造って着せられた、とあります。神に反逆した者にも、神は着物を与えて、守って下さったのです。そのように、神は私達を豊かに養って下さっているのです。私達は、心が鈍いために、あるいは本質的なことを考えないために、その神の保護に気付かないでいるだけです。
 イエスは、ここで、烏と野原の花で、そのことを教えようとされたのです。イエスは、ここで、自然を通して、神の愛を教えようとされたのです。実にイエスは、偉大な教師であったことが分かります。イエスは、この教えを大自然の中で語られました。周りには、鳥が飛びかっていたでしょうし、また奇麗な花が一面に咲いていたことでしょう。このような、だれにでも身近なものによって、神の深い愛を教えられたのです。烏も、野原の花も、神の創造されたものです。しかし、人間は、それらの被造物のなかで、最も大切なものとして造られました。神は、烏さえ養っているのだから、最も大切なものとして造られた、人間をそれ以上養って下さらないはずはない、と主イエスは言うのです。
 27-28節には、次のようにあります。
  野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。  しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに  も着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草  でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさ  らのことである。信仰の薄い者たちよ。
ここで「野原の花」と訳されているのは、クリノンというギリシア語です。かつては、「野の百合」と訳されていました。「百合」だとか、「アネモネ」だとか「グラジオラス」のことだ、と言われていますが、主イエスは、恐らくここでは、特定の花をさして言っているのでなく、ガリラヤの野に自然に咲いていた美しい花を総称して言っているのでしょう。しかしこれは、非常に美しく咲きますが、すぐに枯れてしまいます。しかし、ソロモンの衣服さえ、これほど美しくはなかった、と言います。ソロモンは、紀元前10世紀のイスラエルの王で、この時代がイスラエルは最も栄えました。「ソロモンの栄華」と言われているように、ソロモンは贅沢の限りを尽くした王でした。その宮殿は、絢爛豪華であり、アラビア(今のイエメンですが)から訪ねて来たシバの女王は、その豪華さに、全く気を奪われてしまった、と言われています。しかし、ソロモンの華麗な衣でさえ、このガリラヤの野原の花よりも美しくなかった、とイエスは言います。権力と財力の限りをつくして誇示したものには限界があります。神がこのように野原の花に与えてくれる美しさを考える時、同じ神が、神のかたちにかたどって創造された人間をより大切に養って下さらないはずはありません。私達は、神がこのように私達を大切に養って下さっていることに気づかない時、思い悩み、不平を抱き、不満を持つのです。そういう私達に、イエスは、「ああ、信仰の薄い者たちよ」と言われます。
 29-30節には、次のようにあります。
  あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである生活についての思い悩みは、現状の不満から来ます。しかし、不満を並べたてたところで何になるでしょうか。それは、新たな思い悩みにしかならなりません。
 25節には、次のようにあります。
  あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも  延ばすことができようか。
ここでイエスの言っているのは、思い悩みは、全く無益である、ということです。不満が起こるのは、状況が、境遇が、そうさせるのでしょうか。そういう場合もあるかも知れません。何ひとつ不満のないようの状況の人でも不平ばかり言っている人もいます。また逆に、本当に不幸な状況に置かれた人でも、感謝の生活を送っている人もいます。先程の星野富弘は、不治の病になってかえって神の愛を知るようになった、もし自分が健康で普通の生活をしていれば、一生神の愛を知らずに過ごしたかも知れない、と言っています。しかし、同じ状況に置かれても、神の愛を知らない者にとっては、それは不満に思い、神の愛を知る者には、それが感謝となります。同じ人生を歩むのであれば、不平、不満の人生よりは、喜びと感謝の人生の方がいいでしょう。デンマークの哲学者キエルケゴールは、「すべてこの世的な思い煩いは、人間が他の者との比較に悩みつつ、何とかして、自分が特別な者になろうともがき努めることに原因を持つ」と言っています。
 私達が、野原の花を見て教えられるのは、そのような他人と比較して自分がどうこうと思い悩むのでなく、創造者なる神が、常に私達を愛し、豊かに養って下さっている、ということです。私達は、ちょっとしたことにすぐに思い悩んだり、不平を述べたりするのでなく、神の養いを思い、自分に与えられた道を喜び、感謝出来る者になりたいと思います。この花の日礼拝において、わたしたちは、野原の花を美しく咲かせて下さる神の配慮に心を馳せると共に、それ以上に配慮して下さる神の愛に目を向け、感謝をしたいと思います。

 

   沖縄県修学旅行(中学3年)~4日目~

修学旅行最終日です!

最終日は那覇市内の国際通りで自由散策し、お昼ごろには那覇空港で荷物の整理をしました。
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沖縄の別れを惜しみながらクラス全員で帰っていきました。

 

   沖縄県修学旅行(中学3年)~3日目~

中学3年生修学旅行3日目の様子をお送りします。

3日目も朝からマリンスポーツ体験へ、船で出発~!!
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・マリンスポーツ体験

シュノーケル
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バナナボート
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良い天気でした!

 

・美ら海水族館
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お土産もたくさん買って大満足のようでした。

 

   沖縄県修学旅行(中学3年)~2日目~

中学3年生修学旅行2日目の様子をお送りします。

 

・首里城公園
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世界文化遺産見学を行いました。

 

・沖縄文化体験
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三線や琉球舞踊を教わり、沖縄の民族衣装を着たりしました。
昼食ではジューシー・ゴーヤチャンプルー・サーターアンダギーの作り方を教わり楽しい1日となりました。

 

   沖縄県修学旅行(中学3年)~1日目~

中学3年生が修学旅行(沖縄県)に行きました。

6月14日(火)~17日(金)の期間で沖縄県に行ってきたので、写真で振り返ります!

 

・ひめゆり平和記念資料館/摩文仁の丘
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平和学習を行い、沖縄の戦争の悲惨さと今の平和の大切さを学びました。

 

・おきなわワールド
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エイサーを踊ったりもしました。


雨が降っていましたが楽しんでいました。

 

   香川県1泊旅行(高校2年・普通科)~2日目~

1泊旅行最終日です!

最終日は金比羅山を登り、中野うどん学校でうどんを作りました。

 

・金比羅山
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初っ端から走って元気に登っていく生徒もいました。
1368段の奥社(厳魂神社)まで登りきった生徒もいました!!!

 

・中野うどん学校
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自分たちでこねたり切ったり踏んだりして作ったうどんを美味しく頂きました。


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絆の深まった濃い2日間となりました!

 

   香川県1泊旅行(高校2年・普通科)~1日目~

高校2年生普通科が1泊旅行(香川県)に行きました。

6月16日(木)~17日(金)の期間で香川県に行ってきたので、写真で振り返ります!

 

・クラスごとのバス内
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行きしのバスから盛り上がっていました!


・ニューレオマワールド
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雨の中、思いっきり楽しんでいました!

 

・夕食
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好きなものをたくさん食べていました!

 

・オリエンタルトリップ
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3分かかる長いエスカレーターを上って自由時間の後、プロジェクションマッピングを見ました。

 

  2016-06-20 北海道修学旅行(高校3年・普通科)~4日目~

修学旅行最終日です!

 

最終日は富良野から小樽まで移動し、小樽市内を班別研修しました。
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小樽はガラス細工が有名で、市内には多くのガラス屋が軒を連ねていました。
体験もでき楽しそうでした。

 

この修学旅行では、生徒の笑顔が多く見られたことが一番の印象でした。
全員無事に帰宅し、保護者の方にいいお土産話をしてくれていると思います。

 

   北海道修学旅行(高校3年・普通科)~3日目~

高校3年生修学旅行3日目の様子をお送りします。

3日目も朝からサイクリングとアクティブな活動です。

 

・美瑛散策サイクリング
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大自然の中を走り、とても気持ちの良い体験でした。

 

・昼食(ラーメン村)
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旭川でも有名なラーメン村!皆おいしそうでした。

 

・旭山動物園
この修学旅行の中で、生徒からもっとも人気だった体験です!
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動物の活き活きとした姿が印象的でした。

 

長いと思っていた修学旅行も残り1日です。

 

   北海道修学旅行(高校3年・普通科)~2日目~

高校3年生修学旅行2日目の様子をお送りします。

 

・ラフティング
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この日はとても水温が低かったそうですが、皆元気です!

 

・体験学習

レイクカヌー
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ホーストレッキング
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安政火口ハイキング
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マウンテンバイク
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ベリージャム&アイス作り
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野菜パン&バター作り

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体験学習は北海道ゆかりの自然ふれたり、食べ物を作ったりと生徒にとっていつもとは違う貴重な体験となりました。

 

 

 

   北海道修学旅行(高校3年・普通科)~1日目~

高校3年生普通科が修学旅行(北海道)に行きました。

6月14日(火)~17日(金)の期間で北海道に修学旅行に行きましたので、写真で振り返ります!

 

・伊丹空港出発
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朝7時10分集合ととても早かったですが、欠席者も無く、全員で出発しました。

 

・ノーザンホースパーク
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パーク内でジンギスカンの食べ放題!皆のお箸も進みます。

 

・白い恋人パーク
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生徒に大人気の白い恋人。その工場を見学できたとあって、皆興奮していました!

 

・レクリエーション
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クラス対抗ドッジボール大会。とても盛り上がりました。

 

1日目は朝が早く、移動も多い中、皆楽しんでいたのが印象的でした。

 

   中1 校外実習

 6月16日(木)に中学1年生校外実習に行っていました!

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神戸市立青少年科学館では、展示室の見学やプラネタリウム、知恵の輪などの様々な体験を楽しんでいました。


神戸市立三宮図書館では、登録をして今後自分たちで本が借りられるように手続き方法を学びました。

今日の経験が今後に活かせればと思います。

 

   6月15日(水) 全校礼拝

6月15日(水)全校礼拝が行われました。

讃美歌 575番 (1、2番)
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聖書:コリントの信徒への手紙一13章1-13  
題名:「愛とは」

  
夙川学院宗教主事 樋口 進 牧師

この言葉は、1号館1階の101教室(チャペル兼用教室)の廊下の十字架の右にある掛け軸に書かれて、有名な句です。キリスト教にとって、重要な三つのことです。これは略して「信・望・愛」と言います。皆さんにとって一番大事なものは何でしょうか。高度な知識を身につけること、友達、趣味、いろんなことがあると思います。しかし、人生においてもっとも大事なことは何でしょうか。そして、礼拝において、そのようなヒントが与えられるのではないかと思います。そして、聖書の言葉の中にその示唆を与えられるかも知れません。この建物の廊下には、有名な聖書のことが書かれた掛け軸がたくさんかけられています。

それらを読んでみてください。このコリントの信徒への手紙一は、パウロというキリスト教を伝道した人が旅の途上で書いたものです。そしてパウロはここで、私たち人間にとってもっとも大事なのは、信仰と希望と愛である、と言っています。恐らくパウロは人生にとって最も大切なものが、この信仰、希望、愛と思ったのでしょう。これらは決してお金で買えるものではありません。ですから、わたしたちが所有するものではありません。本当に大切なものは、お金で買えるものではありません。そして、目に見えるものでもありません。愛にしても、信仰にしても、希望にしても、真心にしても、親切にしても、優しさにしても、勇気にしても、喜びにしてもそうです。そしてパウロは、その中でも最も大いなるものは愛である、と言っています。8節には、「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」とあります。ここに「知識は廃れよう」とあります。これは日々実感するものです。特に最近の科学技術の発達は目覚ましいものがあり、私たちが学生の頃には想像もしなかったようなものが次々と現れています。パソコン一つにしても、今の学生でパソコンの使えない人は恐らくいないと思いますが、私たちが学生の頃は自分のコンピューターがもてるなどとは夢にも思いませんでした。知識を身につけるということはもちろん大切なことですが、せっかく身につけた知識もいつかは廃れるということもまた事実です。しかし、パウロは、人生を生きていく上で、廃れないもの、永遠のもの、本当に価値のあるものもある、と言います。そして聖書は、その本当に価値のあるものを私たちに示してくれます。しかし、実際のこの世の歩みにおいては、どれが永遠のものか、どれが本当に価値のあるものかは、目先のものにごまかされて分からないのです。鏡に映すように、おぼろにしか見えないので、どれが本当のものかみ分けがつかないのです。しかし、信仰によって、本当に価値のあるものに目が開かれていくのです。私たちにとって、本当に価値のあるものは、やがて廃れてしまうのではなく、いつまでも残るものです。「最も大切なものは何か」ということは、それぞれ違うと思いますが、それを探求することも皆さん方の課題だと思います。そしてそれは、信仰と希望と愛である、とパウロはいいます。そして、その中でも最も大切なものは、愛だと言います。このコリントの信徒への手紙一13章は、「愛の賛歌」と言われています。キリスト教式の結婚式では、よく読まれる箇所です。
ここの4-7節を読んでみます。
  愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
   礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
   不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
   すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
ここの「愛は」を「愛のある人は」に置き換えてみるといいかもしれません。また、これを「わたしは」におきかえることができれば、とてもいい人生を歩むことができるのではないでしょうか。

 

  2016-06-09 6月8日(水)全校礼拝

6月8日(水)全校礼拝が行われました。

讃美歌 575番 (1、2番)
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聖書:マルコによる福音書10章42-44節  
題名:「仕える者になる」  
夙川学院宗教主事 樋口 進 牧師

 

お読みした聖書の箇所は、イエスの弟子のゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスにお願をしたという記事です。
このヤコブとヨハネの兄弟は、イエスの十二弟子の中ではペトロに次いで重要な人物でした。
 さて、このヤコブとヨハネの兄弟は、常にイエスのそばに仕えていたので、イエスが栄光を受ける時、すなわち、この世の支配者になる時に、彼らは最も高い地位につくことを期待したのです。
 さて、この二人の願いを聞かれたイエスは、非常に悲しまれました。
また、このヤコブとヨハネの願いを聞いた他の弟子たちは皆、腹を立てたというのです。
41節には、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とあります。他の10人の者が何故腹を立てたかというと、彼らも実は同じことを願っていたからでしょう。
彼らは決して、イエスの思いに立って腹を立てたのではありません。
そうではなく、自分たちも同じ思いをもっており、それを二人に先を越されたという思いからでした。
そこでイエスは、御自分が何のためにこの世に来られたかということを弟子たちに教えられました。
42節には、次のようにあります。
  そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
異邦人の支配者というのは、ここではローマ帝国の支配者のことです。彼らは支配している国の民の上に権力を振るっていました。これは当時のユダヤ人が日頃実感していたことです。当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあり、特に重税で苦しんでいました。このような帝国の支配者は、被支配国に権力を振るって、自分の欲を満たしていたのです。すなわち、被支配国から富を吸い上げて、例えば自分の宮殿を建てるといったことをしていたのです。これがこの世の権力者の常の姿です。しかしその反面、権力者に支配されている人々は、非常に苦しい生活を強いられていました。権力を求めるということは、そのような非常に苦しい立場の人々を作り出すということなのです。
 そのように、権力を志向することが神の御旨でないことは、弟子たちも分かっていたはずです。しかし、現実には、弟子たちもやはり人間であり、イエスがただの人でないことが分かると、権力の座について欲しいと願ったのです。
そしてその暁には、自分が最も高い地位につけてもらいたい、と思ったのです。そして他の弟子たちも同じ思いをもったので、互いに相手のことに腹を立てたのです。しかしイエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」と言われます。この世ではそうであるかも知れないが、「あなたがたの間では」そうであってはならない、と言うのです。
 そして、次のように教えられました。
43-44節。
  しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。そしてイエスは自らこれを行われました。すなわち、イエスは最後の晩餐の席で、自ら弟子たちの足を洗われたのです。45節には、次のようにあります。
  人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエスは、人々から仕えられるためにこのように来られたのではなく、人々に仕えるためだ、と言うのです。そして、この仕えるというのは、聖書では、神に仕え人に仕えると教えています。自分の欲を満たすためではなく、人々のために働くと言うことが大切です。これは、イエスの教えられた「奉仕の精神」です。マザー・テレサは、インドにおいて、僕となっての貧しい人のために働きましたが、これはイエスの教えた「奉仕の精神」を実践したのです。わたしたちも、自分の欲のためだけに働くのでなく、人々のために働く人になりたいと思います。

 

  2016-06-04 6月1日(水)全校礼拝

6月1日(水)全校礼拝が行われました。

讃美歌 60番 (1、2番)
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聖書:ルカによる福音書12章16-20節  
題名:「いのちについて」  
夙川学院宗教主事 樋口 進 牧師

 

 今日は、皆さんと共に、“いのち”ということを考えてみたいと思います。
現在私たちは、「生きて」います。
それは、“いのち”が与えられているからです。
しかし、この“いのち”は、いつかは取り去られるものです。
人間は、すべて死すべき存在です。
これは誰も避けることのできない厳粛な事実です。
この点に関しては、人間はすべて平等だと思います。
どんなに財産があっても、どんなに知恵があっても、どんなに権力があっても、死を免れることのできる人はいません。
昔、秦の始皇帝は、自分の権力と財力でもって何とか自分の命を延ばそうとして、部下に不老不死の薬を全世界に探しに行かせたということですが、それは叶いませんでした。
死はすべての人に平等に訪れます。
そしてその時は、誰にも分からないのです。
弱々しそうな人が意外に長生きすることもありますし、元気はつらつとしていた人があるとき突然死ぬこともあります。
いつ命が奪われるかは分かりませんが、分かっていることは、私たちはいつかは“いのち”が取り去られる日がある、ということです。
この“いのち”は、私たちにはどうすることもできないものなのです。
私たちは、神によってこの“いのち”を与えられて、ある期間この世に生きますが、しかしいつかはこの“いのち”は神によって取り去られるのです。
それ故私たちは、この“いのち”に関しては、厳粛にならざるを得ません。
 そして重要なことは、この“いのち”を与えて下さった神との関係に生きる、ということではないでしょうか。
“いのち”の主は私たちではなく、神である、ということです。
 先ほどお読みしましたルカによる福音書に於いて、イエスは「愚かな金持ちのたとえ」をされました。
この金持ちは、自分の畑に沢山の作物ができたので、これを大きな倉に入れて、この後何年も生きていくことができる、と思ったのです。
その時神は、20節のように言われました。
  「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、  いったいだれのものになるのか」
この金持ちの農園主は、“いのち”の主は自分であると考えていたのです。
多くの財産をもったので、いくらでも生きられると思ったのです。
しかし、“いのち”の主は、人間ではなく、神なのです。
私たちの“いのち”は、この“いのち”の主である神によって与えられたのです。
そして、“いのち”の主は、また私たちから“いのち”を取り去ることもできるのです。
ここで“いのち”と訳されている語は、ギリシア語ではプシュケーと言います。これはまた「魂」とも訳されます。
これは単に動物的に生きるという意味での生命ではありません。
もちろんそれも含みますが、その根本は、神との関係における本来の人間の
“いのち”です。
この農園主は、沢山の食料を蓄えて、ただ動物的に生きることだけしか見えなかったのです。
そこには、その“いのち”が神から与えられたものという意識は全くありません。
私たちの“いのち”が、神から与えられたものと認識するならば、その“いのち”を与えて下さった神との関係に生きることが大切です。
神との関係に生きるということは、他の人との関係に生きるということでもあります。
この金持ちの農園主は、自分は沢山の食料が収穫できて何年でも贅沢に暮らすことができると喜んでいますが、食料にもありつけない貧しい人のことは何も思わないのです。
 “いのち”が神から与えられたものだと意識するなら、自分の“いのち”だけでなく、他の人の“いのち”も大切にします。
外面的な命ではなく、内面的な命、といっていいと思います。
外面的な体は至って健康であっても、内面的な魂が死んだようになっている人もいます。
私たちは、一番大切な“いのち”を神から与えられているということを認識して、それを内面的に大切にして生きていきたいと思います。

 

  2016-06-01 夙川学院スポーツ棟 竣工式

夙川学院スポーツ棟 竣工式が行われました。

夙川学院高等学校において、スポーツ棟完成における竣工式が行われました。

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◇前奏
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◇讃美歌210
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1 きよきところをつくれよと、
  あまつみかみの のたまいたし
  むかしの日より 今もなお
  み民にそえる めぐみかな。

2 めぐみの父の 住みたもう
  きよき宮居を きょうここに
  また見ることの たのしさよ
  いく千代かけて かわらざれ


◇聖書 詩篇126編5-6節
  涙と共に種を蒔く人は
  喜びの歌と共に刈り入れる。
  種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
  束ねた穂を背負い
  喜びの歌をうたいながら帰ってくる。


◇祈り
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◇感謝
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◇頌栄541
  父、み子、みたまの
  おおみかみに、
  ときわにたえせず
  みさかえあれ。


◇祝祷
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◇後奏
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このスポーツ棟は本校の体育、ダンスの授業での使用はもちろん、部活動としては柔道部や空手道部の練習場所となっております。

◇リズム室                             ◇柔道場

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◇空手道場

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