9月21日(水)  全校礼拝 | 夙川学院中学校・高等学校

2016-09-23 9月21日(水)  全校礼拝

9月21日(水)全校礼拝が行われました。

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讃美歌:470番     

聖書:ルカによる福音書11章5-10節   

題名:「熱心な求め」

 今日の話も、イエスのたとえ話です。たとえには、イエスが伝えたい目的があります。この譬えでは、「熱心な求めは必ず聞かれる」ということが言いたいのです。この譬えでイエスが言わんとすることは、9節の
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。ということです。そしてそれを言うために、この譬え話しをされたのです。このたとえ話は、少し変な話かも知れません。真夜中に友達の所にパンを貸してくれ、とたのみに行った、というのです。真夜中にパンを借りに行くというのは、はなはだ非常識なことではないか、と思われるでしょう。何もわざわざ真夜中に借りに行かなくても、パンがなければ、一晩辛抱して、次に日に行けばいいではないか、と思われます。友達ということをいいことに迷惑をかける人もいます。友達ならある程度の迷惑はかけたり、かけられたりするものです。パンを三つ貸す位のことなら、何でもないかも知れませんが、それを真夜中に借りに行くのは、いささか非常識だと思われます。良識ある者なら、そのようなことは差し控えるでしょう。この当時のパレスチナの普通の庶民の家は、お粗末なもので、一つの部屋に家族全員で寝たのです。真ん中にいろりのようなものがあって、その回りにござのようなものを敷いて、地面にそのまま寝たのです。家族は肩を寄せ合って寝たのです。従って、皆が寝込んだ時に、自分がごそごそ起きて用事をすると、家族全員を起こしてしまいます。そして、朝は早くから起きて仕事をしなければなりません。夜はぐっすり寝る必要がありました。そこでこの友達は、7節のように言いました。
 面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。今ここで起きてごそごそすると、家族全員の睡眠を妨げてしまう。そんな面倒はかけないでくれ、と言うのです。もっともな話です。 普通ならここで引き下がります。多少の迷惑を掛けたりかけられたりするのが友達かも知れませんが、そこにも限度というものがあります。しかし、この男は、なおドアをたたき続けて求めたので、とうとうこの家の主人は根負けして、パンを与えた、というのです。
 この男は、その友達に恐らく、しつこい奴だ、迷惑をかける奴だ、と厭がられたでしょう。恐らく厭な顔をされ、無愛想にパンを貸してもらったことでしょう。それ位なら、一層借りなければよかった、と私達には思えます。
 この男は、なぜ、そんなに厭がられてまでも、真夜中にパンを借りに行ったのでしょうか。
 彼は、5-6節の所で次のように言っています。
 友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。
 実は彼は、自分のためにパンを借りに来たのではありませんでした。彼の所に、遠くから友達が訪ねて来たからでした。その旅人は、夜、彼の所に到着したのです。
 夜中に旅人が訪ねて来るというのもおかしな話しかも知れません。しかしこの時代のパレスチナでは、そういうことも珍しい事ではありませんでした。パレスチナの夏は、昼間はとても暑く、太陽の照っている時、旅をすれば病気になるので、日が沈んでから、夕方に旅をするということがよくありました。ここでの旅人も恐らくそうだったのでしょう。そして、この男の家に夜中に着いてしまったのでしょう。この男も実は、訪ねて来た旅人に大変迷惑をかけられたのでした。しかし彼は、この旅人を迷惑がって追い払うのでなく、家に入れて泊めようとしたのです。それだけでなく、お腹をすかしているこの旅人に食べる物を出そうとしたのです。泊めてやるだけでも十分なのに、その上食事を出そうとしたのです。しかし自分の家に何も出すものがなかったので、真夜中ではありましたが、友達の所にパンを借りに行ったのです。
 この男は何と友達思いでしょうか。こういうのが真の友情というのではないでしょうか。
 しかしこのたとええ話でイエスは、麗しい友情について教えようとされたのではありません。
 このたとえのポイントは、8節にあります。
 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは  何でも与えるであろう。
 ここで言われているのは、明らかに友情ではありません。「友人だからというのでなく、しきりに願うので」とあります。これは、友情の限界を超えた所での神を動かす力とでも言うことができます。熱心な求めということです。あきらめない、ということです。ある場合は、人に迷惑をかけてでも、求めるべきものがあるのです。もちろん、迷惑をかけると言うことは、褒められたものではありませんが。子供を愛する親であれば、自分の子が病気したならば、真夜中であっても、迷惑をかけても、医者をたたき起こしても診てもらうでしょう。
 私達は、このような熱心な、というよりは執拗な求めというのを余りしません。そんなに熱心に求めなくても、大方のものは満たされている、ということもあるかも知れません。あるいは、求めてもかなわないものはかなわない、と簡単に諦めてしまっているのかも知れません。オリンピックでメダルをもらった選手は、しばしば、最後まで諦めなかったのでメダルを取ることができました、と言うことを言っていました。このような執拗な求めは、ある時には必要です。
 イエスはここで、「熱心な求めは必ず聞かれる」と言うことを言っているのです。

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