月間アーカイブ: 2017年1月

  2017-01-31 美術科卒業制作展のお知らせ

本校美術科第48期生の卒業制作展のお知らせをいたします。

 
<<日時>>

2017年1月31日(火)~2月5日(日)
AM10:00~PM5:00 (最終日PM3:30まで)

<<場所>>
西宮市立市民ギャラリー

<<アクセス>>

阪神香櫨園駅下車南へ徒歩6分
阪急夙川駅下車南へ徒歩17分
JRさくら夙川駅下車南へ徒歩15分
阪神バス・阪急バス川東町下車すぐ
※お車でお越しの際は、大谷記念美術館駐車場をご利用ください。

たくさんのご来場お待ちしております。

 

  2017-01-30 1月25日(水) 全校礼拝

1月25日(水)全校礼拝が実施されました。

 

聖書:マタイによる福音書18章21-35節
讃美歌:451番
「赦しについて」

 今日は、赦しということについて考えたいと思います。私たちは、人から被害を受けたとき、どれ位赦すことができるでしょうか。被害が大きければ大きいほど、相手を赦すことはできないと思います。今日のところでペトロは、イエスに「7回までですか」と聞いています。この「7回まで赦せ」という教えは、当時のユダヤ教の教えにありました。人を赦すということは、本当は非常に難しいことです。人間的にできた人で寛容な心の持主であっても、表面的に人を赦せたとしても、心の片隅では、いつまでも赦すことができない、ということがあります。1~2回ならなんとか赦せても、ここのペトロのように7回も赦せるとしたら、非常に寛容な人でしょう。人間というのは、中々自分に加えられた被害を忘れ去ったり、赦したりはできないものです。自分に加えられた侮辱とか侮りといったものは、たとえ20年前30年前のものであってもしつこく覚えているものです。 しかしイエスは、「7の70倍までも赦しなさい」と言われます。これは7X70=490で、ペテロの7回は少ない、もっと多く490回まで赦しなさい、と言っているのでしょうか。これはもう数え切れない、無限ということです。それを説明するために、ここでこのたとえをイエスは語ったのです。ある人が友達に会って、貸していた百デナリオンを返せと言った、というのです。1デナリオンというのは、当時の日雇い労働者の1日の賃金に相当する額だと言われています。仮に5千円とすると、百デナリオンだから50万円になります。50万円といったら大きなお金だから必死になって取り返そうとするのは分かります。この仲間は、お金がなかったのでしょう。もう少し待ってくれるよう必死に頼んでいます。しかし、この男は赦さなかったのです。この男は、仲間(友人)に対してですから、少し冷酷であるかも知れませんが、借金の時にかわした契約の通りしているのであれば、特に間違ったことはしていません。私達の普通の世間では、よくあることかも知れません。契約の通りに返せなかったら、それなりの処分や罰があります。ここだけを読むと確かに少し冷酷とは思いますが、並外れて間違ったことをしている訳ではないと思います。 しかしイエスは、実はこの男はそれ以前に神から莫大な負債を赦されたのであって、それを忘れてしまっている、あるいはそれを無視している所にこの男の問題があるのだ、と言っています。33節に。
  わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。
まず主人(神)の憐れみがあります。そして、それに応えて私達も仲間を憐れむべきだ、と言われています。イエスはここで、神が私達に与えた赦しがいかに大きいものであるかということを、たとえで教えておられます。この家来は、実は王に1万タラントンの借金があったのだ、とイエスは言います。この一万たらんトンというのは、実に3000億円という計算になります。この家来は確かに50万円もの金を仲間に貸していましが、その60万倍の金を王から赦されたというのです。こんな大金は一生かかっても到底返すことはできません。最初は、妻子まで売るようにと言うのですが、この家来が哀願している姿を見たとき、主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった、というのです。この主君は、いったんは自分と妻子も奴隷に売って借金を返せと言いましたが、ひれ伏して哀願している姿を見て「憐れに思った」とあります。そして、この憐れな姿を見た王は、この1万タラントンという莫大な借金を赦してくれた、というのです。そしてイエスは、これが神の私達に対する態度だ、と言うのです。この男は一生かかっても返せないような借金を赦されたのに、その直後にわずかの金を貸した友人に会って、これを赦せずに獄にぶち込んだ、というのです。もし私達に実際にこんなことが起こったとしたならば、簡単に赦すと思います。たった今、一生かかっても返せない多額な借金を赦されたすぐ後に、こういう冷酷なことをするでしょうか。もしそうなら、この男は世にもまれな特別に冷酷無比な人であったのでしょうか。この男は特別な冷酷な人というのではなく、私達と同じです。すなわち、赦されているものの大きさが分かっていないのです。否、そもそも自分は「赦された者だ」という自覚がないのです。私達も、あるいは神からどれほど大きなものを赦されているかを分かっていないのではないでしょうか。イエスはここで、「私達は、神によって実に大きなものを赦されているのだ」ということを言おうとしているのです。しかもその赦しは、私達が一生かかっても返すことのできないような莫大なものを赦されているのです。しかし私達は、このことに気がつかないのです。気がついたとしても、その赦しがこれほど莫大なものである、ということを知らないのです。それだからこそ、他人のほんのささいなことも赦せないのではないでしょうか。私達は、他の人を赦さなければならないというのでなく、私達が神によって「赦された者」であるということを、心から受け入れることが出来れば、他の人をも赦すことができるでしょう。

 

  2017-01-23 1月18日(水) 全校礼拝

1月18日(水)全校礼拝が実施されました。

聖書:詩編46編2ー8節
讃美歌:520番
「阪神淡路大震災を覚えて」

 

 さて本日は、昨日で「阪神淡路大震災」から22年になりますので、それを覚えて礼拝を行います。この大地震については、生徒の皆さんは生まれていなかったですが、皆さんのお父さんやお母さんに聞いてよく知っていると思います。教職員の方々は、実際に経験されたことと思います。1995年1月17日の早朝6時少し前に、マグニチュード7.3の大地震が起こり、6千人を超える人々が犠牲になりました。夙川学院でも高校生2名が犠牲になりました。また、家屋の被害が5800万円ほどになりました。戦後最大の災害となりました。その後、2012年に東日本大震災が起こりましたので、現在ではこれが最大の被害となりました。私は、当時は、京都に住んでいたのですが、京都でもかなり大きく揺れ、非常に驚きました。さらに驚いたのは、テレビにて次々と写される被害の状況でした。高速道路は倒れ、神戸の大きなビルも倒れ、新幹線の橋桁も倒れていました。また、神戸のいろいろな所で火災が発生し、火の海のような光景が画面に出されました。私は三日目に、阪急電車で京都から西宮北口まで来て、そこからは電車が動いていなかったので、自転車を借りて、神戸まで走りましたが、目にする光景は、今までに見たこともない光景で、現実とは思われませんでした。家という家は倒れ、まるで戦争の後のようでした。自然の脅威というのは、恐ろしい、そして、人間は自然の脅威には勝つことができないという無力感を感じました。現在はすっかり復興して、神戸の町や西宮の町を見ても、そのような光景を連想させるものはほとんどありませんが。 この大震災でつくづく思わされたことは、私たち人間の力は大自然の力の前には無力である、ということです。今や宇宙にまで生けるようになり、さまざまな難病を克服し、さまざまな便利な品があふれている現代文明ですが、あの地震の威力にはなすすべもありませんでした。そういう意味では、人間は謙虚にならなければなりません。そういうとき私たちには、祈ることしかできません。 さて、聖書にも自然災害については多く記されています。先ほどの詩編46編3-4節には、次のようにありました。
  わたしたちは決して恐れない
  地が姿を変え
  山々が揺らいで海の中に移るとも
 
 海の水が騒ぎ、沸き返り
 
 その高ぶるさまに山々が震えるとも。
ここでは、地震と津波が暗示されています。ここにおいても、このような自然の大災害には、人間は全くの無力です。神に祈るしかありません。そしてこの詩人は、神は必ず助けてくださる、と信じています。2節には、
  神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
  苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
とあります。この詩篇の詩人は、「たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。」と言っています。聖書の言葉というのは、「苦難の時」に大きな力を与えてくれるものです。2-3節を見てみます。
  このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
  たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は
  震え動くとも、われらは恐れない。
また6節を見てみます。
  もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。
ここには、天変地異、あるいは戦争による激動があります。戦争が起こった時の動揺、敵が攻めて来た時の恐怖は、想像を絶するものです。2節で、「山は海の真中に移るとも」と言われているのは、大地震のことかもしれません。「山」というのは、動かないもの、泰然としているものです。しかし、大地震によってそれが海の中に移るというのです。もしそんな大地震がくれば、私達はあわてふためくでしょう。阪神淡路大震災においても、地滑りが起こって大勢の人がなくなりました。また、大きなビルが倒れたり、高速道路が倒れたり、想像もしないことが起こりました。私達も大地震の恐ろしさというものを実感しました。  しかし、私達を恐れさせているのは、そのような戦争とか、天変地異だけではありません。私達の人生においても、いろいろな時に動揺や恐怖があります。むしろ不安、動揺、激動の連続なのではないでしょうか。ちょっとしたことで動揺し、中々落ち着いた気持ちになれません。しかしこの詩人は、「このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない」と言っています。それは、この詩人が、神が常に共におられる、と確信していたからです。7節には次のようにあります。
  万軍の主はわれらと共におられる、
  ヤコブの神はわれらの避け所である。
この神こそが、私達の助けです。この詩人は、2節において、
  神はわれらの避け所また力である。
  悩める時のいと近き助けである。
と言っています。たとえ地が変わっても、山々が海に移っても、その地や山を創造された方は、永遠に変わることはありません。天地万物の創造者なる神こそ、私達の真の助けであり、私達が絶対に信頼すべき方です。この詩人は、1節で「神はわれらの避け所」と言っています。

 

  2017-01-16 スキー実習(高校1年生グローバルアスリートコース・高校2年生体育科)ー5~6日目ー

高校1年生グローバルアスリートコース、高校2年生体育科がスキー実習に行ってきたので、5~6日目の様子を写真で振り返ります。

 
 
  
実習4日目の1月13日(金)の午前中は検定に向けて最終練習を行い、午後に検定試験が行われました。高校1・2年生とも無事に全員合格しました!14日(土)の朝に閉校式を行った後出発をし、17:00頃に学校に帰ってきました。この実習が今後に活かせればと思います。

 


 
今回のスキー実習で、栂池高原にてスキー実習を始めたのがちょうど50周年でした。記念品として掛け時計と横断幕が贈呈されました。  

 

  2017-01-13 スキー実習(高校1年生グローバルアスリートコース・高校2年生体育科)ー1~4日目ー

高校1年生グローバルアスリートコース、高校2年生体育科がスキー実習に行っていますので、1~4日目の様子をお送りします。


 
 
 
1月10日(火)から実習が始まり、実習の2日間は教員の指導の下、実習を行いました。実習3日目の12日(木)からは検定実習にうつり、インストラクターの指導の下、2年生は3級の取得、1年生は4級の取得に向けて実習を行っています。終盤にさしかかって、検定取得まであとひと頑張りです!

  

 

   1月11日(水) 全校礼拝

1月11日(水)全校礼拝が実施されました。

  

聖書:フィリピの信徒への手紙2章1-4 
讃美歌:471番
「思いやり」

皆さんは。何気ないことで人を傷つけてしまうことがないでしょうか。また、逆に人に傷つけられることはないでしょうか。結構あると思います。今日は、「思いやり」と言うことについて考えてみましょう。夙川学院高校の「学校案内」の一番最初に次のように書かれています。「本学院においては、キリスト教教育を教育理念の柱として、心豊かな思いやりのある人間の形成を目指します。」ここに、「思いやりのある人間の形成を目指す」と明記されています。この思いやりというのは、聖書の精神でもあります。今お読みしたフィリピの信徒への手紙2章3-4節に
  何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
とありました。「自分のことだけでなく、他人のことにも注意をする」、これは思いやりの精神と言うことができます。これはとても大切なことであると思います。「思いやり」というのを『広辞苑』で調べてみると、「自分の身に比べて、人の身について思うこと」とあります。別の言葉で言うと、「その人の立場に立って思う」ということです。イエスの有名な言葉に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。」というのがあります(マタイ7:12)。これは最も大切な教えだということで「黄金律」と言われています。「その人の立場に立って思う」ということはとても大切なことですが、それが中々出来ないというのもまた人間の悲しい現実です。これが出来れば、世の中は幸せになると思います。今の日本は、このような「思いやり」の心に欠けているのではないでしょうか。そのために心を痛めるような悲しい事件が、次から次へと起こっています。人間はしばしば言葉に傷つきます。人から言われた厭な言葉に落ち込むこともよくあります。それがひどい場合には、自殺にも追い込まれます。最近では、ツイッターなどインターネット上の書き込みで、個人を非難中傷したりと言うことが良くあります。そして、そういうことを書かれた人は非常に傷つきます。書く方は、軽い気持ちで書くのかもしれませんが、書かれた方は本当に死ぬ位つらい気持ちになります。実に思いやりの精神に欠けた行為だと思います。こういうとき、思いやりの精神をもつことができれば、つまり、もし自分がこのようなことを書かれたら、と相手の気持ちに立つことができれば、こういうことは起こらないと思います。旧約聖書の箴言12章18節に、
  軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。
という言葉があります。人に対する一言の言葉がひどく傷つけることもあります。また逆に一言の言葉が人を癒すこともあります。精神科医で執筆活動もされている斉藤茂太という人の本に『いい言葉は、いい人生をつくる』というのがあります。相手に対していい言葉をかけるなら、それはその人の人生もいいものにするということが書かれています。そこで、斉藤さんは、人にはできるだけ思いやりのあるいい言葉をかけるように努めている、と言います。人の立場に立って、「思いやり」のある生き方をしたいものです。今日の聖書の言葉にあるように、私たちも「自分のことだけでなく、他人のこともよく考える」思いやりの精神をもちたいと思います。


   

 

  2017-01-10 平成28年度 3学期始業式

本日、本学院アリーナにて3学期始業式が行われました。


 
 


明日から授業が始まります。インフルエンザが流行していますが、体調管理に気をつけ、明日からも元気に頑張っていきましょう!