月間アーカイブ: 2017年2月

  2017-02-22 全校礼拝

本日、全校礼拝が実施されました。

 聖書:マルコによる福音書10:13~16  
 讃美歌:451番  「子供のように」

 

 今日読んだ記事は、イエスが子供たちを祝福した、という記事です。13節には次のようにあります。イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。ここで、「人々が子供たちを連れて来た」と記されています。この人々がだれなのか、その幼子がどのような人で、何人なのか、何の目的で連れて来たのか、ということは一切言われていません。イエスの周りには、実に色々な人が集まりました。子供は、当時のユダヤ人の社会では、何等重要視されない、無視された存在でした。それは、子供はまだユダヤ教の律法を守ることが出来ない存在であったからです。しかし、イエスは、その子供を重要視しました。 さて、今日のところで、人々が幼子を連れて来たのは、イエスに触れて頂くためだ、とあります。恐らくこの人々というのは、田舎の素朴な人々で、イエスの評判を聞きつけて、イエスに触れてもらったら何かいい事でもある、と単純に思ったのでしょう。彼らはイエスが病人に触れたら病が癒された、というような評判でも聞いたのでしょう。いわば、御利益的な思いから、わが子をイエスに触ってもらおうとしたのでしょう。 しかし、それを見て、弟子たちは「叱った」とあります。この「叱った」と訳されている語は、もっと強い調子の言葉です。「叱りつけた」位でしょう。 この「子供たち」と訳されている語は、ギリシア語ではパイディオンという語ですが、新生児に使われることもあれば、12歳位の娘にも使われることもあります。従って、この語は、かなり幅のある年令の子供をさしています。従って、ここでイエスの所に連れて来られた子供は、赤ちゃんであったのか、あるいはもう思春期になる位の子であったのかは、分かりません。そして、この語は複数になっているので、一人ではなく、何人か、恐らく数人であったでしょう。突然の子供の登場は、弟子たちには、余計な事であり、そのような子供たちが邪魔であったでしょう。 しかし、イエスの態度は弟子たちとは、対照的です。14節には、
  しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
とあります。ここでイエスは「憤った」と言われています。勿論弟子たちの態度に対してです。弟子たちは、むしろイエスの為を思ってしたことであったかも知れません。即ち、忙しいイエスにそんな子供にわずらわせてはいけない、と配慮したのかも知れません。しかし、それはイエスのみ心とは全く違っていたのです。この「憤った」というのは、非常にきつい語です。激しい怒りを表します。そして、この語がイエスに言われているのは、ここだけです。ここには、子供たちに対するイエスの愛と、子供たちを軽んじる弟子たちに対する非難が表されています。そしてイエスは、「神の国はこのような者の国である」と言います。これは一体どういう意味でしょうか。子供は汚れがなく純粋であるから神の国にふさわしい、ということを言っているのでしょうか。しかし、子供も結構いじわるをしたり、悪いことを考えたりします。必ずしも罪がない、純粋だとは言えません。子供自体が評価されているのではありません。そうではなく、子供は全く無力な存在である、ということです。これは高く評価されているというよりは、負の評価です。当時のユダヤ人の一般的な判断によると、子供は律法については無知であり、それゆえに律法に照らして神の前に自分を主張出来ない存在です。従って、子供は、自分に誇るべき何物もないのです。社会的にも、何の力もなく、何の影響力もないのです。もし、親や大人の庇護がなければ、子供は非常に惨めな存在です。それゆえに、いつの時代にも、子供が受難を受けることがあります。そして現代においてもそういう現象がしばしば見られます。子供は無力であり、大人の暴力に抵抗することも出来ません。また、法律などを知らないために、自分を主張することも出来ません。また、日本では、最近幼児虐待ということが社会問題になっています。最も頼るべき実の親に虐待されたら、子供は一体だれに頼ればいいのでしょうか。子供というのは、そのように本質的には全く無力な存在なのです。イエスは、その自ら何の誇る所もない、弱い存在である子供を受け入れ、愛し、祝福したのです。 ここでイエスが子供を祝福したのは、子供の側にそれにふさわしいものがあるからではありません。それは神の徹底的な恵みの賜物にほかなりません。神の一方的な恵みです。ここでイエスは、数人いたであろう子供を一人一人吟味して、それに基づいて祝福をしたりしなかったり、ということはしていません。全く無条件にどんな子供も受け入れ、等しく祝福しているのです。勿論ここで、子供たちは、初対面のイエスに対する信仰などはもっていなかったでしょう。子供たちの側に何か祝福に足るものをもっていたからではなく、全く無条件にイエスは彼らを祝福したのです。これは当時のユダヤ教からは、考えられないことでした。当時のユダヤ教は、律法主義、功績主義でした。その人に何らかの功績なり、資格なりが必要でした。従って、律法を忠実に守り、自分に資格があると思う人は、自分を誇り、資格のない人を見下げたのです。子供は当然、大人のように律法を忠実に守ることが出来なかったから、低く見られていたのです。イエスは、そのように当時の社会において低く見られた人にあえて近付き、交わりをもたれたのです。それは取税人であり、病人であり、女性であり、子供であった。しかし、イエスはこのような無力な人を受け入れ、愛されたのである。 15節には
  はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決  してそこに入ることはできない。
とあります。子供は全く無力な存在です。従って、常に親に頼ります。このことと、自分に誇るべき物がない者は、神に頼らざるを得ない、ということと比べているのです。私達はどうでしょうか。何か誇るべき物を持っているでしょうか。私達も実は、本当は無力なものではないでしょうか。本当は、何も誇るべきものは、ないのではないでしょうか。ただ神に頼るしかない存在ではないでしょうか。そしてそういう姿を謙虚に認めるならば、私達はかえって神の国が近いのです。私達も幼子のように神の国を受け入れる者でありたいと思います。

 

  2017-02-20 平成28年度 高等学校卒業式

2月18日(土)に、平成28年度夙川学院高等学校卒業式が挙行されました。
 

 


150名の生徒たちが夙川学院を巣立っていきました。
卒業生からのサプライズとして歌とメッセージがあり、とても感動する卒業式となりました。
 

 


花道では、在校生が一生懸命盛り上げてくれました。
 


夙川学院で学んだことを胸に、これからもたくさんの場で活躍していってほしいと思います。

 

  2017-02-15 卒業送別礼拝

本日、卒業送別礼拝が実施されました。
 

 

聖書:エフェソの信徒への手紙5章6-8節   
讃美歌:493番・465番
「希望の光」

今日は、中学高校の卒業送別礼拝です。夙川学院では、卒業送別礼拝においてローソクに火を灯します。なぜ、こんなことをするのでしょうか。ローソクの火は、光を象徴します。聖書においては、光は希望や救いを表します。クリスマスにおいても、ローソクに火を灯しましたが、これは暗い世の中にキリストは、光としてこの世に来られ私たちに希望や救いをもたらして下さったということ意味します。皆さんは、真っ暗ということを経験したことがあるでしょうか。真っ暗の中にいますと、本当に底知れない恐怖に陥ります。皆さんは、停電を経験したことがありますか。わたしの小さい頃は、よく停電がありました。夜停電になると、あたりが真っ暗になり、周りに何があるか一切分かりません。ちょっとしたものにつまずいたりして、とても不安と恐怖に陥りました。そして、しばらくして電気がつくと、ほっとしました。旧約聖書の一番最初の所で、神は何もなかった所に、まず最初に光を造った、ということが書かれています。これは、神はわたしたちに救いと希望を与えたということを言おうとしているのです。卒業生は、今から、新しい進路に向かいます。不安があるのではないでしょうか。ローソクの火は、そのようなときに希望を持って歩んでください、というメッセージなのです。不安を持ったとき、聖書を読んでください。きっと、聖書の言葉は、皆さんに希望の光を与えてくれるでしょう。それから、光には、もう一つ意味があります。先ほどの聖書に、「光の子として歩みなさい」という言葉がありました。これは、正しい歩みをする、ということです。人に恥じない正しい歩みです。暗闇だと、何をしているのか分かりません。不正なことは、闇として表現されます。闇に支配されると不正が横行します。先ほどの聖書に、「むなしい言葉に惑わされてはなりません」とありました。闇に支配されると、空しい言葉に惑わされて、間違った方向に歩んでしまいます。そのような所に行かないで正しい道を示してくれるのが光です。光は正々堂々とした歩みです。皆さんも、これからの歩みにおいて、正々堂々と正しい歩みをしてください。その正しい歩みも、きっと聖書を読めば教えてくれるでしょう。卒業する方々は、今後の歩みに不安や恐れがあるかも知れませんが、ローソクの光を思い出し、希望を持って、正しい道を歩んでください。在校生の皆さんも、先輩にならって、希望を持って、勉学生活を続けて下さい。

 
中学3年生、高校3年生が卒業するにあたり、毎年送別礼拝を実施しています。
1つの親火から生徒一人一人のロウソクに届いていきました。
この灯火のように卒業生も明るく、また輝いていってほしいと願っています。

 

  2017-02-11 2月8日(水) 全校礼拝

2月8日(水)全校礼拝が実施されました。

 

 

聖書:マタイによる福音書6章1-4節
讃美歌:465番
「隠れたことを見られる神」

6章2節には、だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられ     ようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。とあります。当時のファリサイ派の人々は、大きな施しをする時、ラッパを吹き鳴らしていた、というのです。これはいささかオオバーかも知れません。いかにも今施しをしました、ということを人に見せるためです。そして人から、あの人はあんな沢山施しをしている、偉い人だ、とほめられるためでした。それに対してイエスは、3節において、
    施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
と言われました。これも非常にオーバーな表現ですが、善行は人に隠れてすべきだ、ということです。しかしそれは、隠れたことを見られる神にのみ見られており、神によって報いを受ける、というのです。  私は、学生の時代、多少苦学をしていました。本を買うお金がないので、アルバイトをしていました。しかし、それを知ったある人が、匿名で私への本代としてお金を送って下さいました。私は、それを月一回、受け取りました。ただし、送ってくれた人は、匿名であったためにだれかは分かりませんでした。それで、私はアルバイトをせずに本を買うことができました。当時のお金でかなりの額だったように思います。私は非常に助かり、もうアルバイトをせずに本を買うことができました。そのうち、その人が分かったらお礼を言いたいと思っていたのですが、未だにその匿名の人がだれかは分からないのです。その人は、きっとこのイエスの「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」という言葉を忠実に守られたのではないかと思います。今の世の中、これとは逆のことが多いのではないでしょうか。コマーシャルの時代で、自分の徳をもテレビで宣伝している人もいます。それも、何倍にも増幅して宣伝しているのです。神にではなく、人にどう評価してもらうか、ということが横行しています。そこで、人にわからなければ善い行いをしないどころか、逆に不正なことをしています。そのような事件が頻発しているのではないでしょうか。最近は、企業でも官庁でも不正な事件が横行しています。世の中、実に人の目をいかにごまかして利益を得るか、ということに満ちているように思えます。しかし、人の目をごまかせたとしても、隠れたことを見られる神の目は決してごまかせないのです。人は表面的なことを見て評価しますが、しかし神はその表面から隠れた所を見られるのです。今日のテキストにおいて、最後は「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」という言葉で締めくくられています。神に対する畏れというものがほとんどありません。それゆえに、私達の心を痛める事件が次から次へと起こります。かつて、飲物や食べ物に毒物を混入させるという事件が頻発しました。犯人は何のためにそのようなことをしたのでしょうか。これも「隠れたことを見られる神」という信仰が全くない所から起こっているのではないでしょうか。しかし、人間の目には分からなくても、神の目にはすべてが分かっているのです。私達は、この畏れをもつ必要があります。私達は、隠れたことを見られる神への信仰を常にもち、この神が報いてくださるようにと日々の生活を歩みたいと思います。

 

   平成28年度 高3体育科修学旅行ー6~7日目ー

高校3年生体育科が北海道へ修学旅行に行ってきましたので、6~7日目の様子を写真で振り返ります。

 

 
6日目は午前中に旭山動物園へ行き、たくさんの動物を見た後、旭川ラーメン村にて昼食をとり、ホテルへ向かいました。夜はアイスビレッジ散策を行い、この日も予定がたくさん詰まった一日となりました。

 


最終日の7日目はサッポロ雪まつりを見学し、たくさんの雪像制作を見ました。札幌ファクトリーへ移動し、昼食をとり、その後に空港へ向かいました。


 
高校3年生体育科にとって最後の行事が終わりました。この修学旅行で生徒達は、普段味わうことのできない北海道の大自然を学ぶことができました。

  

 

  2017-02-06 平成28年度 高3体育科修学旅行ー2~5日目ー

高校3年生体育科が北海道へ修学旅行に行っていますので、2~5日目の様子をお送りします。


 
2~3日目はニセコひらふスキー場にて朝から夜までスキー実習を行いました。


 
4日目は午前中にスノーモービルを体験し、午後からは小樽市内にて自由行動となりました。


 
5日目は午前中に白老ポロトコタンへ行き、アイヌの歴史と文化に触れ、午後からはノーザンホースパークへ行き、馬と触れ合う時間を過ごしました。


天候は曇りもしくは吹雪の予報が多く、寒い修学旅行となっておりますが、残り2日間も思い出となる日になりますように。

 

  2017-02-03 第48期生美術科卒業制作展 受賞作品のご紹介

美術科第48期生卒業制作展が西宮市立市民ギャラリーにて開催されています。

 

卒業制作展が下記の通り実施されています。
 
開催期間:
2017年1月31日(火)~2月5日(日)
開催時間:
AM10:00~PM5:00 (最終日PM3:30まで)
開催場所:西宮市立市民ギャラリー

 


今回は美術科生徒の受賞作品をご紹介します。

◆最優秀賞

<イラストレーション>Let it all out.

◆優秀賞

<油画>アンビバレンスなサロメ

◆優秀賞

<彫刻>個性大漁

◆努力賞

<油画>found alight

◆努力賞

<彫刻>あかり

◆努力賞

<ビジュアルデザイン>手紙

◆努力賞

<ビジュアルデザイン>ぬけだせない


他にもたくさんの生徒出展作品が西宮市立市民ギャラリーにございますので、是非とも足を運んでみてください。




 ※お車でお越しの際は、大谷記念美術館駐車場をご利用ください。

たくさんのご来場お待ちしております。

 

   2月1日(水) 全校礼拝

2月1日(水)全校礼拝が実施されました。

  

聖書:ローマ人への手紙12章9-21節
讃美歌:451番  
「よい人間関係」

私たちは、よい人間関係を結びたいと思います。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。その時に大切なのは、自分中心ではなく、相手のことを思うと言うことです。ローマの信徒への手紙を書いたパウロという人も、常によい人間関係を築くために努力したと思います。その総括のようなことが、今日の所に書かれています。今日読んだことをすべて行うことは難しいかもしれませんが、この中の一つでも二つでも行うことができれば、人間関係も少しよくなると思います。このローマの信徒への手紙は、パウロがローマの教会に集まっている人々に書いた手紙ですが、教会に集まっている人もいろいろあって、人間関係にいろいろな問題も起こったようです。全部についてお話しする時間がないので、そのうちのいくつかを取り上げてお話しします。そこで、パウロが勧めた生き方が今日読んだものです。まず最初に、9-10節には、
  愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をも  って互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
とあります。私たちがよい人間関係を結ぶとき、基本となるのは愛だと思います。そこでパウロは、まず最初に「愛」を勧めます。この愛は、聖書においても最も中心のものです。パウロは、この世で生活するに当たってのいろいろな勧めをなしますが、その根本に愛がなければ、一切は無益だ、ということで愛から語り始めていると思います。 さて、9節からは、沢山の勧めがなされています。
それら一つひとつはどれも、私たちがよい人間関係を結ぶためにすべて大切なものばかりです。しかし、一つひとつを取り上げて話していけば、とても一回の話では足りません。このうちの一つでも二つでも行うことができれば、人間関係はよくなると思います。そこで、今日は2、3のものだけを取り上げることにします。15節には、
  喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
とあります。泣く者と共に泣くということは、比較的易しいかも知れません。不幸にあった人に同情することは比較的できるのではないでしょうか。しかし、喜ぶ者と共に喜ぶ、というのは、そう容易ではありません。人間は、自己中心的であり、他人の幸福をそう素直に喜べないのです。人間には嫉妬心があるからです。これができるのは、本当の愛に生かされた人ではないでしょうか。例え他人の幸福を素直に喜べない人でも、同じ家族の者の幸福は喜ぶのではないでしょうか。親は、子供の幸福を無条件で喜びます。子供の幸福に嫉妬する親というのはあまりないと思います。ですから、友達も家族のように大切だと思うことができれば、共に喜ぶこともできるでしょう。 次に18節には、できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさいとあります。人と争わず平和に暮らすということも大切なことです。人と平和に暮らすには、ある程度自分を押さえなければなりません。お互いに自我を押し通すところからは、平和は生まれません。これにはやはり、愛と忍耐が必要でしょう。 次に19節には、
  愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたし  のすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
とあります。人間は、「喜ぶ者と共に喜ぶ」ということが中々出来ませんが、それどころか、人への憎しみを持ちやすいものです。人の過ちを中々赦すことが出来ず、報復をします。人間の歴史は、報復の歴史だ、といってもいい位、報復が繰り返されています。そしてしばしば、この報復ということが美化され、また美化とまではいかなくても、当然の権利である、と思われています。日本の昔の話にも、「仇討ち」の話がよくありますが、忠臣蔵などに代表されるように、仇討ちということが美化されていました。これは何も日本だけでなく、世界中に似たような話が沢山あります。ということは、人間とはいかに赦せないか、報復せずにおれない存在か、ということを示しているように思えます。現在においても、テロ事件が起こると被害に遭った方は、報復します。そうすると、報復された者は、その報復としてまたテロ事件を起こします。このように報復の連鎖となって、留まる所を知りません。人間は、中々人を赦せないものですが、もし赦すことが出来れば、それは神の愛の働きのような気がします。 ここでパウロが勧めている生き方を少しでも実行することができれば、よい人間関係を築くことができると思います。

 

  2017-02-01 平成28年度 高3体育科修学旅行ー1日目ー

高校3年生体育科が北海道へ修学旅行に出発しました。

8:15に伊丹空港を、全生徒が無事に出発しました。
2日目からは朝~夜までスキー実習があるので、存分に楽しんでもらいたいと思います。