10/8(日)中学入試プレテスト申込み受付中 | 夙川学院中学校・高等学校

カテゴリー: インフォメーション

  2017-09-20 10/8(日)中学入試プレテスト申込み受付中

10/8(日)13時から中学入試プレテストを実施いたします。

試験の難易度を知るのに持ってこいのイベントです。

夙川学院中学校にご興味をお持ちの小学5.6年生は是非ご参加ください。

プレテストでは選択制テスト(約2時間) と 思考力テスト(約1時間) の2種類の方式があります。

(プレテストではグローバルテストとポテンシャルテストは実施しません)

申込みは↓↓↓こちらから

https://mirai-compass.net/usr/shukgwj/event/evtIndex.jsf

 

   9月9日(土) 夙川学院高等学校オープンスクール

9月9日(土)に夙川学院中学校 学校説明会
               
高等学校 オープンスクールが実施されました。

中学校は1回目の学校説明会、高校は2回目のオープンスクールです。
たくさんの方に参加していただきました。

◇全体説明

 
全体説明では、在校生が学校の魅力について、作成したパワーポイントを使用し、説明してくれました。

◇体験授業

 
   理科「理科は嫌だが役に立つ!」           英語「ネイティブと話そう!」
 
     保健体育「身体表現」

◇施設見学
   

次回の開催は、9月24日(土)10:00~の学校説明会となっております。
皆様のお越しをお待ちしております。

 

  2017-08-29 2017年度 夙川学院高等学校オープンスクール

8月27日(日)に夙川学院中学高等学校オープンスクールが実施されました。

中学校は2回目、高校は1回目のオープンスクールです。たくさんの方に参加していただきました。

◇全体説明
 

◇体験プログラム

情報「ホンマでっか!?PC~プログラミングをしてみよう!~
音楽「ピアノ入門~簡単なピアノ演奏が1曲できるようにチャレンジしよう!~」


理科「科学と生活のつながり」

◇施設見学
 

◇食堂試食・制服展示試着
 

次回の開催は、9月9日(土)10:00~です。
皆様のお越しをお待ちしております。

 

  2017-07-20 夙川学院中学高等学校 Facebookのご紹介

夙川学院中学高等学校のFacebookを紹介します。


夙川学院の学校行事の様子や、生徒の日々の活動などを随時アップしていきます。
是非以下のURLからアクセスしていただき、『いいね!』をお願いします。
 
夙川学院Facebook URL
https://www.facebook.com/夙川学院中学高等学校-308882336227385/

 

  2017-07-07 2017年7月4日(火)放送礼拝 メッセージ「言葉の大切さ」

 7月4日(火)、放送礼拝が実施されました。


現在、校内では短大生の企画で、七夕に向けて笹竹が置かれています。
短大生をはじめ、中高生も企画に参加し、それぞれ色とりどりの短冊に自分の目標や願い事を書いていました^^

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ペテロの手紙Ⅰ 1章22-25節 「言葉の大切さ」
学院宗教主事 樋口進

わたしたちは往々にして、人の言葉によって失望したり、傷ついたりします。
そういう意味では、言葉というのは、非常に大事です。
たった一言の言葉によって、ひどく傷つき、ある場合には絶望状況に陥ることもあります。

斉藤茂太という人の本に『いい言葉は、いい人生をつくる』というのがあります。
さて、この『いい言葉は、いい人生をつくる』において、彼はことばについていろいろ洞察していますが、文字通り、いい言葉がいい人生をつくることを主張しています。
彼は、人から聞いたいい言葉、あるいは本から得たいい言葉によって、力や希望が与えられた経験によって、人にもいい言葉をかけるように心がけている、と言います。
たった一言の言葉によって、大きな希望や力を与えられる、と言うこともあります。

また逆に、たった一言の言葉によって、力や希望を失うこともあります。
言葉には、そのような力があります。
逆に、たった一言の言葉によって、窮地を救われることもあります。絶望状況の中にある人が、優しい言葉に触れて、力を得、また希望を与えられるということもあります。

私自身も、人の言葉によって非常に落ち込んだ経験があります。
おそらく皆さんも多かれ少なかれ、そのような経験があるのではないでしょうか。
また、逆に自分の言葉が人を傷つけているという場合もあるかもしれません。
そのように、言葉というのは、非常に大切であると思います。
ですから、できるだけ人を傷つけない言葉を発したいと思います。また、できるだけ人に希望を与えるような言葉を発したいと思います。

聖書においては、言葉に関することが多く言われています。
そもそも聖書は、神の言葉とされており、これを読むことによって慰めや希望や救いを与えられます。
旧約聖書に箴言というのがあります。これは、古代イスラエルのことわざを集めたものです。
この箴言の中に言葉に関するものが多くあります。
例えば、「軽率な一言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。」というのがあります。
これは、たった一言の軽率な言葉は人を深く傷つけるが、配慮のある言葉は、逆にたった一言の言葉によって人を癒す、ということが主張されています。
昔も今も、人の言葉によって、傷つけられたり、また反対に力づけられたりということがあります。軽口ということがありますが、無責任に調子のいいことを言う人は信用されません。

また、先ほど読んでいただいたペトロの手紙一1:24-25には、「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」とあります。
これは、人間の言葉は、「草が枯れ、花が散る」ように、はかないけれども、神の言葉は永遠に変わることがない、ということです。

この時代も、人のの言葉は、人々に期待を抱かせたり、しかしすぐに失望させたりということが多かったのですが、そのような中で、神の言葉は永遠に変わらない、と言ったのです。
私たちも言葉には、責任をもつようにしたいものです。
斉藤茂太さんが言ったように、「いい言葉は、いい人生をつくる」ということは、本当です。
わたしたちも、極力いい言葉を語り、いい言葉を聞くことによって、いい人生を歩みたいと思います。

 

  2017-07-01 2017年7月9日(日)特別講演会を実施します。

7月9日(日)、本校アリーナにて沢松奈生子さんの特別講演会を実施します!!(リンク先をクリックすると、画像が大きく表示されます)

  

夙川学院高等学校の卒業生である沢松奈生子さんをお招きして、講演会を実施します。

また、当日は夙川学院中学校夙川学院高等学校夙川学院短期大学の3校が同時にオープンキャンパスを開催いたします。講演会と合わせて、是非ご参加ください。

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<中学校>
  9:30-  受付開始
10:00-  特別講演(本校卒業生:沢松奈生子さん)
11:15-  学校説明
11:40-  体験プログラム
12:10-  校内見学/個別相談

※夙川学院中学校のプログラムは、事前に申し込み必要になります。
体験プログラムは定員があり、先着順となります。参加を希望される方は、お早めにお申し込みください。
申し込みは7月7日(金)16:00までとなります。学校まで電話にてご連絡ください。

お申し込み・お問い合わせ      
0789401131
※受付は平日月曜日から金曜日 8:30~16:30まで

 
<高校説明会>
  9:30-  受付開始
10:00-  特別講演(本校卒業生:沢松奈生子さん)
11:15-  学校説明
11:45-  校内見学/個別相談
  

 

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当日は送迎バスを運行いたします。

三宮(スクールバス乗り場)発 → 学校行き
9:00 / 9:15 / 9:30 / 9:45
 
神戸市役所の向かい側の通りをまっすぐ進むと、「大和ハウス工業株式会社神戸支社」のビルがあります。そのビルの前に送迎バスが停まります。JR「三ノ宮」駅、阪急・阪神「三宮」駅より徒歩10分です。
   

プログラム終了後
学校発 → 三宮(スクールバス乗り場)行き
11:15 / 11:30 / 11:45 / 12:00 / 12:15 / 12:30 / 12:45 
13:30 / 13:45 / 14:15 / 14:30 

 

皆様のご参加を、教職員一同、心よりお待ちしております。
この機会に、
是非本校へお越しください!
   

 

 

  2017-06-30 2017年6月28日(水)芸術鑑賞会が行われました。

2017年度の芸術鑑賞会が、6月28日(水)に実施されました。
今年度は本校アリーナにて、『 お笑いからみるコミュニケーション 』というテーマで、お笑い芸人の方に来ていただき、ネタとトークショーを開催しました。

当日は、全校生徒をはじめ、在校生の保護者・家族、そして教職員が鑑賞し大いに盛り上がりました。

内容も、漫才だけでなくコントや大道芸など多岐にわたり、出演者も人気急上昇中の方から、実力実績一級品の方、師匠クラスの方ととても豪華。

【出演者】
  9:00~   9:20   もりやすバンバンビガロ
  9:20~   9:35   ゆりやんレトリィバァ
  9:35~   9:50   ミキ
  9:50~10:05   吉田たち
10:05~10:35   コント坂田SP(坂田利夫、シンクタンク、服部ひで子)
10:35~10:50   学天即
10:50~11:05   藤崎マーケット
11:05~11:20 笑い飯

 


最初は教員2人が前説を担当しました。


もりやすバンバンビガロさんは、お馴染みのリンゴをかじる芸から、生徒も参加できる芸で、盛り上がりました!


夙川生徒に1番人気のゆりやんレトリィバァさん、大歓声の中、先生と生徒の悩みを解決してくれました。

 
こちらも大人気、息の合った兄弟漫才で沸かせてくれたミキのお二人。


双子漫才師の吉田たちさん。双子ならではの漫才で会場も大爆笑でした。


続いてはコント坂田SP。坂田師匠の登場の瞬間、大歓声が!そしてみんなでアホダンスを教わりました!


宝塚出身の学天即さん、テンポがよく、地元ネタもあり、爆笑の渦に。


藤崎マーケットさんの ラララライ体操に大盛り上がり。そして、おるおるモノマネは爆笑と共感をよびました。


最後はM-1王者の笑い飯さん。さすがの漫才で会場を魅了してくれました!

最後には、事前に生徒から集めた質問を芸人さんに答えていただくトークコーナーを行いました。
様々な質問が出て、こちらも盛り上がりました。

 


ミキの昴生さんは流れで音響さんとコラボギャグを披露!? 最後にはアリーナ2階まで行ってやってくださいました。

 

終演後には生徒もすごく笑顔で教室にもどっていく様子がとても印象的でした。
関西の伝統文化である「お笑い」を生で見て、話しを聞くことで、今後の生活に何か活かせるものを得れたら嬉しいです。

 

 

 

  2017-06-23 2017年6月20日(火)花の日礼拝が行われました。

  6月20日(火)に、アリーナにて花の日礼拝が行われました。
  

今回の特別礼拝は、関西学院 聖和短期大学教授・宗教主事の小見のぞみ先生をお招きしました。
「タネくんの旅-そして花ちゃんになること」という題で、メッセージをいただきました。

小見先生の教え子が作った絵本の内容を織り交ぜながら、お話して頂きました。タネくんが自分は何の花になるのかを探し出す物語です。

自分は何のために生まれたのか。そのことを知りたいし、それを一緒に考えてくれる人、悩んでくれる人、助けてくれる人を私たちも心のどこかで探しているかもしれません。人と関わることで傷つくことも沢山あるけれど、それでも人と関わり続ける勇気をもつことの大切さを、タネくんは教えてくれました。

私たちも、お話に出てきた花ちゃんのように、自分を受け止めて、励ましてくれる人、そのような人を見つけたいし、誰かにとってはそのような人になりたいですね。
小見先生、このたびはお忙しい中、本校にお越しいただき、ありがとうございました。
 

礼拝の後に、生徒自治会・宗教部の生徒たちが、自分たちで花束をつくり、日頃お世話になっている学校内・近隣の施設、そして先生たちに配りに行きました。
 
 日頃の感謝の気持ちをこめてメッセージを書き、それをお花と一緒に渡しました。

 

保健室、音楽室、図書館に、色鮮やかな花が飾られています^^
 
今年は、持ち寄って頂いたお花の数が多く、礼拝をとても華やかに飾ることができました。
皆さん、お花の持ち寄り、ありがとうございました。
 

 

 

  2017-06-20 中学1・2年 高校3年美術科 遠足

6月16日(金)、中学1・2年生と高校3年美術科は徳島へ行きました。
  
 午前中は渦の道を見学。渦の道とは、大鳴門橋の車道下に設置 された海上遊歩道です。ところどころにガラス張りの床があり、鳴門海峡に発生する渦潮を、約45mの高さから覗き込むことができます。

 

午後からは、大塚国際美術館に行きました。大塚国際美術館は世界の名画を陶板に写した、国内最大級の美術館です。自由時間だけでは回りきれないほど、たくさんの作品がありました。

徳島の大自然や、世界の名画に触れて、普段の学校生活では味わえない貴重な時間を過ごしました。

 

  2017-06-12 6月28日(水)芸術鑑賞会における保護者鑑賞席について

2017年度の芸術鑑賞会が、6月28日(水)に下記要領で実施されます。
今年度は本校アリーナで開催されるため、より多くの保護者の方にもご鑑賞いただきたいと考えております。
つきましては、事前申し込み制とさせていただきたいと思いますので6月23日(金)までに申し込み書を担任にまでご提出くださいますようお願い申し上げます。
※申込書は生徒に配付しております。

【開催日時】  2017年6月28日(水)9:00~11:45(予定)
        ※ 8:45までには来校ください。
【場  所】  本校アリーナ (スリッパをご持参ください。)
        ※ アリーナ2F観客席が保護者席になります。
【テ  ー  マ】  お笑いからみるコミュニケーション
【内  容】  お笑い芸人によるネタとトークショー
        ※ 公演中の撮影・録音はできません。ご了承ください。
【申込対象】  本校在校生の保護者およびその家族

 

【出  演  者】  ※下記画像・チラシをご参照ください。

      
コント坂田スペシャル
(出演:坂田利夫、シンクタンク、新喜劇女性座員)

      
笑い飯                   学天即

      
藤崎マーケット           もりやすバンバンビガロ

      
吉田たち                   ミキ


ゆりやんレトリィバァ

※出演者は、都合により変更になる場合があります。 

 

  2017-06-08 2017年6月6日(火)放送礼拝 メッセージ「仕える者になりなさい」

 6月6日(火)、放送礼拝が実施されました。

雨は上がり、青空が広がっています。
  

今週は、賛美歌21の60番『どんなにちいさいことりでも』を歌っています。
メロディが覚えやすく、歌詞もやさしいので、思わず口ずさんでしまう人も多いようです♪

1番 「どんなにちいさいことりでも かみさまはそだててくださる」って、イエスさまのおことば。
2番 「なまえもしらない野のはなも かみさまはさかせてくださる」って、イエスさまのおことば。
3番 「よいこになれないわたしでも かみさまはあいしてくださる」って、イエスさまのおことば。

子どもたちは、特に3番の歌詞が好きだそうです。

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マルコによる福音書 10章42-45節 「仕える者になりなさい」
学院宗教主事 樋口進

今日お読みいただいた聖書の箇所は、イエスの弟子のゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスにお願いをしたという記事です。
どんなお願いをしたかというと、イエスが栄光を受ける時、すなわち、この世の支配者になる時に、彼らは自分たちを最も高い地位につけてほしい、とお願いしたというのです。
さて、この二人の願いを聞かれたイエスは、非常に悲しまれました。
また、このヤコブとヨハネの願いを聞いた他の弟子たちは皆、腹を立てたというのです。
41節には、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とあります。
他の10人の者が何故腹を立てたかというと、彼らも実は同じことを願っていたからでしょう。
彼らは決して、イエスの思いに立って腹を立てたのではありません。そうではなく、自分たちも同じ思いをもっており、それを二人に先を越されたと思ったので、腹を立てたのでしょう。そこでイエスは、42節のように言われました。

 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

異邦人の支配者というのは、ここではローマ帝国の支配者のことです。
彼らは支配している人々の上に権力を振るっていました。
当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあり、特に重税で苦しんでいました。
このような帝国の支配者は、被支配国に権力を振るって、自分の欲を満たしていたのです。
すなわち、被支配国から富を吸い上げて、例えば自分の宮殿を建てるといったことをしていたのです。
これがこの世の権力者の常の姿です。

しかしその反面、権力者に支配されている人々は、非常に苦しい生活を強いられていました。
権力を求めるということは、そのような非常に苦しい立場の人々を作り出すということなのです。
そのように、権力を志向することが神の御旨でないことは、弟子たちも分かっていたはずです。
しかし、現実には、弟子たちもやはり人間であり、イエスがただの人でないことが分かると、権力の座について欲しいと願ったのです。そしてその暁には、自分が最も高い地位につけてもらいたい、と思ったのです。さらに、他の弟子たちも同じ思いをもったので、互いに相手のことに腹を立てたのです。
しかしイエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」と言われます。
そして、43-44節のように教えられました。

  しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

そしてイエスは自らこれを行われました。すなわち、イエスは食事の席で、自ら弟子たちの足を洗われたたのです。
当時、食事の時に足を洗うのは、召使いの仕事でありました。
イエスは、弟子たちからすれば、先生であったので、むしろ弟子たちがイエスの足を洗うべきでした。
しかし、イエスは、弟子たちの足を洗うことによって「仕える者になりなさい」ということを自ら実践されたのです。
インドで貧しい人のために仕える仕事に一生をささげ、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサは、イエスのこの「仕える者になりなさい」という教え、実践したのです。
彼女は、身寄りもなく、誰にも看取られない人に、愛の手をさしのべて、しばしの安らぎと喜びを与える、という活動をしたのです。
イエスの教えた「仕える者になりなさい」というのは、奉仕の精神と言われます。自分の権力や自分の利益を求めるのでなく、人のためにする、人に喜んでもらえることをする、ということです。
マザー・テレサは、自分は誰にでも出来ることをしたに過ぎません、と言っています。
路上で死に行く人の手を優しく握ってやる、ということは誰にでも出来ます。
しかし、人間は、プライドが邪魔してなかなか出来ません。

人のためにする、たとえば、ボランティア活動などはそうでしょう。
災害に遭って困っている人のために、ちょっと手伝ってやる。
あるいは、電車でお年寄りに席を譲ってやる、ということも奉仕の精神と言えるでしょう。
このようなちょっとしたことは、私たちの周りにたくさんあると思います。
みんなの使っているところが汚れていたとき、みんなのためを思ってちょっと掃除をする、といったことも「奉仕の精神」であると思います。
そんなオーバーなことでなくていいのです。しかしその時、ちょっと恥ずかしいとか、自分のプライドを少し捨てなければなりません。
奉仕というのは、英語でServiceと言いますが、Serviceを辞書で引くと「礼拝」という意味もあります。
礼拝というのは、神への奉仕なのです。今、皆さんは礼拝をしていますが、礼拝において神の言葉を聞く、お祈りをする、讃美歌を歌う、これも神への奉仕なのです。

イエスは、神に仕えることと、人に仕えることを教えられました。皆さんも、是非、ちょっとしたことでいいですから、自分の利益のためでなく、人のために仕えることをしてみてください。

 

 

  2017-06-06 2017年6月6日(火)第1回目 赤ちゃん先生プロジェクトが行われました。

6月6日(火)、今年度第1回目の赤ちゃん先生プロジェクトが、中学生全員を対象に行なわれました。 

『赤ちゃん先生』とは、赤ちゃんと直接触れ合いながら、ママ講師のお母さん方から赤ちゃんのお話を聞くことで、命の大切さを学ぶことを目的としたプロジェクトです。

今日は4班に分かれて、4組の親子から、お母さんの育児の内容や様子、赤ちゃんがどういったときに泣くのか、今どういった成長段階なのか、など学びました。その後に一人ずつ、赤ちゃんを抱っこさせてもらいました。
 

「抱っこしてみたら、意外と重かった!!」という感想が多かったです。
私たちのお母さんも、昔は、日々重たくなる私たちを抱っこして大変だったことでしょう。
 
次回の赤ちゃん先生は、9月になります。
今日お会いした赤ちゃん先生たちが、二ヵ月後に、どれほど大きく成長したか見るのが楽しみですね!

 

  2017-05-18 2017年5月16日(火)放送礼拝 メッセージ「最も大切なもの」

5月16日(火)、放送礼拝が実施されました。

 
アリーナでの全校礼拝とはまた違って、
それぞれの教室でアットホームな雰囲気のなか、礼拝が守られます。


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マルコによる福音書8章34-36節 「最も大切なもの」
学院宗教主事 樋口進

 

あるアンケート調査で、「あなたにとって最も大切なものは何ですか」というのがありました。
皆さんは、どう答えるでしょうか。
その答えで一番多かったのは、「健康」と答えた人です。
わたしも、学校の健康診断でコレステロール値と血糖値が少し高いということで、食べるものとか運動に気をつけています。そうやって、テレビを見ますと、健康に関する番組が非常に多くあることに気付きました。
そして、この食べ物がいいとか、この運動がいいとかいうと、すぐ試したくなります。
やはりこのアンケートにあるように、多くの人は健康に気をつけているのだな、と思いました。
そして、先ほどのアンケートで次に多かった答えは、「毎日を平和に過ごす」というものです。
そして、次に「お金」でした。
健康で、毎日平和に過ごし、多少のお金があれば、言うことなし、ということでしょうか。
「健康であること」、そして「毎日平和に過ごす」こと、そしてお金は、それ自体としては決して間違ってはいないでしょう。
しかし、人間にとって、一番大切なものは、それだけでしょうか。
もっと大切なものはないでしょうか。

先ほどの聖書において、イエスは「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われました。
この命と訳されている語は、ギリシア語ではプシュケーという語です。
これは、「命」とも「魂」とも訳せる語です。
これは、単に動物的に生きるという意味での生命ではありません。
もちろんそれも含みますが、命を与えて下さった神との関係における本来の人間の命です。
霊的な命と言ってもいいでしょう。

そして、聖書において、一番大切なのはこの命です。
聖書の理解によりますと、私たちはこの命を神から与えられたものです。
ですから私たちは、本来、命を与えてくださった神との関係において生きる者です。

健康ということは確かに大切でしょう。
わたし自身もそれを常に願っています。そしてそれなりに気をつけています。
食事に気をつけるとか、適度に運動をするとかです。
かし、命を与えて下さった神との関係を無視した生き方においては、自己中心的な健康の考え方になると思います。すなわち、自分さえ健康であればいいと考えてしまいます。
健康を害して苦しんでいる人の苦しみが見えません。
健康が一番幸福だとすると、病気の人は不幸ということになります。
しかし、たとえ健康を害していても、その魂(プシュケー)が生き生きとしている人もいます。

最近、日野原重明氏と星野富弘氏との対談が本になりました。
『たった一度の人生だから』というタイトルです。
この対談の中で、星野富弘さんは、「いのちというのは、自分だけのものじゃなくて、だれかのために使えてこそ、ほんとうのいのちではないかと思いました」と言っています。

また、「毎日を平和に過ごす」と言うことを最も大切に考えている人がいます。
確かにそれは大切なことですが、これも下手をすれば自己中心的な考えになります。
すなわち、自分が平和に過ごせたらそれでいい、ということです。
自分の家庭、自分の職場、あるいは自分の国が平和であればよい、という考えです。
他の国に戦争があっても、抑圧があっても、そういうことには関心がない、という態度です。
あるいは、お金や財産が一番大切だという考えも、往々にして自己中心的になりがちです。

イエスは、先ほどの36節で、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われました。「全世界をもうける」とは、所有の極限でしょう。人間はあれも欲しい、これも欲しいと思うものです。そしてその最大のものを、全世界で表しているのです。
しかしイエスはここで、人は全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何もならない、と言われます。
人間はあらゆるものを手に入れることができたとしても、命を得ることはできません。
命は決して物によって交換できるものではありません。

エーリッヒ・フロムというユダヤ人の社会学者は、『生きるということ』という本を書きました。
この原書での題は、「持つことかあることか(to have or to be)」というものです。
彼は、この本の中で、現代社会においては、人間は「持つ」というあり方になっている、と言います。
そして、持つという場合、すべてを物に還元してしまい生きた関係を損なってしまっている、と言います。
それに対して、「ある」ということは、何も束縛されず、神から与えられた命、存在そのものを大切にする、と言います。
そして、他者との関係においては、与え、分かち合い、関心を共にする生きた関係となる、と言っています。このフロムの主張は、現代の物質文明を批判し、真の人間のあり方を追求しようとしたものです。

そして、私たちは、もう一歩進めて、真の人間のあり方は、私たちに命を与えて下さった神との関係に生きることだ、ということを考えたいと思います。
35節には、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」とあります。自己中心的な生き方をする者は、結局命を失ってしまう、とイエスは言います。私たちに命を与えて下さった神との関係に生きるということが、本当の命を得ることだということを思い、この命を大切にしていきたいと思います。

 

  2017-05-11 2017年5月9日(火)放送礼拝 メッセージ「万事は益となる」

5月9日(火)、放送礼拝が実施されました。
 
本校では、様々な形式をとった礼拝を、毎日守っています。
放送礼拝はそのうちの一つで、各教室にて放送で讃美歌を歌ったり、メッセージを聞いたりします。

  

  静かに、聖書の言葉に耳を傾けます。     夙川学院オリジナルの聖書讃美歌バッグです。
 

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ローマの信徒への手紙8章28-30節 「万事が益となる」
学院宗教主事 樋口進

人生には、自分の計画通りでないこともあります。
そのようなとき、自分の目指していたことは違うと言って、受け入れたくないと思うかも知れません。
しかし、自分の思っていない事態になってもそれを受け入れるならば、そこから新しい道が開けてくることがあります。
大事なことは、与えられたものを受け入れると言うことです。
人生には、自分の意志でないのに受け入れなければならないことがあります。
それは、自分が生まれてきたことです。
私たちは、自分の意志で生まれてきたのではありません。
芥川龍之介の小説に『かっぱ』というのがありますが、そこでカッパは生まれるときにお腹の中で、お前は生まれたいか、と聞かれると言うことがいわれています。今の世の中は、暮らしにくく、嫌だと思えば、「生まれたくない」と言うことができるというのです。
しかし、人間の現実にはそんなことはありません。
私たちは、自分の意志とは関係なく、この時代に、日本に、それぞれの両親の元に生まれてきたのです。
これは、受け入れるしかないのです。
こんな時代に生まれたくなかったと言っても、どうしようもありません。
しかし、このようにして生まれてきたことを、神によって与えられたものとして、受け入れるのです。
私たちは、自分で決められることももちろんありますし、決めなければならない場合もあります。

しかし、自分で決められないこともあります。あるいは、自分の望んでいない事態になることもあります。
皆さんの中には、夙川学院に入ることを望んでいなかった人もいるかもしれません。
そのようなとき、たとえ自分の望んでいなかったことでも、受け入れるということが大切なことです。
そして、それが神から与えられたものだと受け入れるならば、自分の望んでいないことでも神が良き方向に導いてくださるのです。

先ほど読んだ聖書のローマの信徒への手紙8章28節に、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とありました。
ここでは、神は万事を益としてくださる、と言われています。
ローマの信徒への手紙は、パウロという人が書いた手紙ですが、これはパウロの実際の経験から出た言葉です。
パウロは、初期のキリスト教の伝道者でした。彼は実に多くの地方に伝道し、キリスト教を広く伝えました。
パウロのお陰でキリスト教が世界の宗教になった、と言っても過言ではありません。
彼は、綿密に計画を立てて伝道したのですが、しかし計画通りに行かなかった場合も多くありました。
ある時は、北の方に行く計画をしていたのですが、何かの差し障りが起きてそちらに行くことができずに、逆の方に行かざるを得ないこともありました。そして、最初の計画を諦めて、別の方向も神によって与えられたものと受け入れて、そちらに行くと、そちらで思わない成果が得られたと言うこともありました。この「万事を益としてくださる神」ということは、そのようなパウロの実際の体験から出た言葉なのです。

私たちは、時には、とても辛いこと、苦しいことが与えられることもあります。
そのようなときも、そんなのは厭だ、と言って受け入れたくないかもしれません。
しかし、それを受け入れるならば、神が万事を益としてくださるのです。
パウロは、神は万事を益としてくださる、と言いました。
自分の考えていたことと違う事態になっても、その事態を受け入れ、それを神に与えられたものと受け止めるときに、神は万事を益としてくださるのです。パウロは、そのことを実際に何度も体験しました。
私たちの人生に於いても、私たちの計画通りに行かないこともあると思いますが、そのことも神によって与えられたものだと受けいれるならば、神は万事を益として下さることを覚えたいと思います。

 

  2017-04-25 2017年4月25日(火)イースター礼拝

4月25日(火)に、アリーナにてイースター礼拝とイースター作文朗読が行われました。

イースター礼拝は、今年本校で初めて行われた礼拝です。
イースター」は<復活祭>ともいい、十字架で処刑されたイエスキリストが3日後に復活したことを祝い、記念する、キリスト教の重要な行事の一つです。近年、日本でも注目され始めていますね。

今年は「振り返りとこれからへの思い」というテーマで、全校生徒が作文を書きました。
そして今日、各学年の代表生徒が壇上に上がって、自分の作文を朗読しました。

中学1年生 『中学生になって』
中学2年生 『先輩への思い』
中学3年生 『過去を振り返り、未来に向かって歩む』
高校1年生 『私の高校デビュー』
高校2年生 『自分を見つめ直し、そして成長』
高校3年生 『私の将来の夢』

 

 

 

それぞれの未来への思いがこめられた、素晴らしい作文でした。

期待と希望を胸に、これからの学校生活を送ってくださいね。

 

エゼキエル書37章1-10節  「希望に生きる」
学院長 樋口 進 牧師

今日はイースター礼拝です。イースターは、キリスト教の三大祭りの一つです。
三大祭りの一つは、クリスマスです。
これは皆さんご存じだと思いますが、イエス・キリストの誕生を記念するお祭りです。
もう一つが、このイースターですが、これは、イエス・キリストの復活を記念するお祭りです。
もう一つは、ペンテコステ(聖霊降臨日)と言いますが、これは余り知られていないと思います。

さて、イースターは、年によって日が違うのですが、今年は、4月の16日でした。
これには、特別の計算方法があるのですが、今日は割愛します。
とにかく、イースターは、イエス・キリストの復活を記念する日です。
復活、死んだ人が生き返る、私たちの頭では考えられないことです。
これを科学的に証明する方法はありません。
具体的にどういうことが起こったのか、それは聖書にもはっきりとは書かれていないのです。
書かれているのは、それぞれの弟子たちが、復活のイエスに出会ったというそれぞれの体験が書かれているのです。
それぞれが違う体験をしているのです。
ある人は、道を歩いている時に復活のイエスに出会ったのだが、それが誰か最初分からなかったが、一緒に食事をしている時に、それがイエスだと分かった、しかしその瞬間に消えてしまった、というのです。
しかし、共通して言えるのは、みんな希望が与えられた、と言うことです。
弟子たちにとって、イエスが一番大事であり、一番尊敬していたのです。
そのお方が、突然、十字架にかけられて殺されてしまったのです。
ここで、彼らはみんな、絶望状態に陥ったのです。
しかし、復活のイエスに出会うという体験をすることによって、絶望が希望に変えられたのです。
そして、イエスの教えていたことの意味がはっきりと分かったというのです。
そして、そのイエスの教えを他の人に伝えていく力が与えられたというのです。

さて、今日お読みしたは、旧約聖書のエゼキエル書です。
これは、イエスよりも600年位前の預言者が見た幻の記事です。
この幻も、イエスの弟子たちが体験したのと同じようなことが言われています。
どんな幻かというと、ある谷に多くの骨が散らばっていた、と言うのです。
恐らくここで、かつて戦いがあり、多くの兵士が殺されたのでしょう。
しかし、それから相当時が経ち、もう骨は白骨化していた、と言うのです。
しかし、その枯れた骨に、預言者が神の言葉を語りかけ、神の霊が吹きかけられると、それらは生き返り、多くの兵士となった、と言うのです。
ただこれは、幻であって、実際にこのようなことが起こった、というのではありません。
それでは、この幻が意味していることは何か、と言うことです。
それは、その後に書かれているのですが、「枯れた骨」というのは、当時のイスラエルの人々の絶望状況を表しているのです。
当時のイスラエルは、バビロニアという国に滅ぼされ、多くの人が捕虜として、敵の地に連れて行かれたのです。
そこで人々は、絶望状況に陥ったのです。
しかし、この預言者が、その絶望している人々に神の言葉を語り、神の霊が働いてくれるように祈った所、生きる希望を与えられた、と言うことなのです。
絶望が希望に変えられた、これが復活の体験なのです。
人間は、貧しさには耐えられます。
また、肉体的な苦痛にも、かなりの程度耐えられます。
しかし、自分が一番の頼りにしていた精神的な拠り所を突然失ったならば、絶望に陥るのないでしょうか。
たとえ、食べて寝てと肉体的に生きていても、精神的には全く死んだ状態です。
これが、「枯れた骨」と言われているものです。
人間は呼吸をし、動いているだけでは、動物的に生きていても、真に人間として生きているとは言えません。
目的を持ち、希望を持ち、たとえ苦労しながらでも喜びを味わい、積極的な意味を持っていなければ人間として生きるということにはなりません。
肉体的に生きるだけでなく、精神的に生きなければなりません。
まさに絶望状況にある人に希望を与えた、これが復活の体験だったと思います。

 「アンパンマン」という漫画の作者であるやなせたかしさんは、92歳で亡くなりましたが、彼の自伝的な本に『絶望の隣は希望です』というのがあります。
彼は、次のような詩を作っています。

 

  絶望のとなりに

  だれかが

  そっと腰かけた

  絶望は

  となりのひとに聞いた

  「あなたはいったい

  誰ですか」

  となりのひとは

  ほほえんだ

  「わたしの名前は

  希望です」

これは、やなせさんの実際の体験から作られた詩です。
彼は、漫画家になったのですが、40代、50代の頃は、代表作がなく、いろんな仕事をしながら、生計を立てていたそうです。
そしてしばしば絶望状態に陥ったそうです。
そんなとき、ある漫画家の先輩からこう言われたそうです。
「やなせ君、きみが落ち込む気持ちは分からんでもないが、人生はね、一寸先は光だよ。いいね、途中でやめちゃったら終わりだよ」と。
ここでやなせさんは、先輩の「一寸先は光」と言われた言葉に、非常に励まされ、地道に漫画を書き続け、ついに「アンパンマン」で大ヒットした、ということです。
これはもう、60歳になる頃だったということです。
ここから、絶望のとなりに希望がある、という詩を書いたのです。
イースターの時に弟子たちが体験したことも、先ほどのエゼキエル書の幻においても、絶望が希望にかわることが言われていました。
私達も、絶望に陥ることなく、希望をもって人生を歩みたいと思います。

 

 

  2017-04-20 2017年度 オープンスクール・学校説明会の日程

2017年度 オープンスクール・学校説明会の日程が決定しました。
 

2017年度オープンスクールの日程は以下の通りになっております。

「高等学校」

第一回 8月27日(日)

第二回 9月9日(土)

「中学校」

第一回 6月18日(日)
第二回 7月9日(日)
第三回 8月27日(日)
 

※高等学校・中学校ともに10:00~実施予定です。
 

 
2017年度学校説明会の日程は以下の通りになっております。

「高等学校」

第一回 9月24日(日)
第二回 10月7日(土)
第三回 10月28日(土)
第四回 11月5日(日)
第五回 11月25日(土)
第六回 12月2日(土)
第七回 12月17日(日)

「中学校」

第一回 9月9日(土)
第二回 9月24日(日)
第三回 10月28日(土)
第四回 12月2日(土)
 
※高等学校・中学校ともに10:00~実施予定です。

  
ご不明な点がございましたら、本校までご連絡下さい。(078-940-1131)

 

  2017-04-10 2017年4月10日(月)入学式

4月10日(月)入学式が挙行されました。

 
聖書朗読                       校長式辞

理事長式辞                     新担任紹介


新入生退場

新入生は新しい制服に身を包んで緊張した面持ちで入場されていました。
これからの学校生活を楽しんでいきましょう!!

入学式後特別講演として、駐日ギニア大使館顧問である、オスマン・サンコン氏による講演会が実施されました。
講演中会場に笑いが起きるなど、とてもいい雰囲気のなか、オスマン・サンコン氏の『命の大事さ』や『両親に対する感謝』といった内容の講演をしてくださいました。

 

   2017年4月8日(土)始業式

4月8日(土)夙川学院中学高等学校の始業式が挙行されました。

春休みの間は静かだった学校に、また元気な声が戻ってきました。

始業式の前に、柔道部の表彰がありました。
   
 第39回全国高等学校柔道選手権大会女子団体戦 優勝

柔道部の皆さん、おめでとうございます。

   

各種表彰の後に、今年就任した理事長、校長よりお話がありました。

いよいよ新学期スタートです。皆さんが夢と目標を持ち、日々小さな努力を続けることのできる1年になればと思います。新たな気持ちで、学びを深めていきましょう!

今年度もよろしくお願いいたします。

 

  2017-03-13 2次入試・D日程入試について

本日より高等学校では2次入試、中学校ではD日程入試の出願を募集しております。
詳細はこちらをご覧下さい。
→高等学校:
2次入試について
   中学校:D日程入試について


ご不明な点がございましたら、本校までご連絡下さい。(078-940-1131)

 

  2017-03-11 3月8日(水) 学期末指導・表彰・生徒指導講演会

3月8日(水)に、アリーナにて学期末指導・表彰と生徒指導講演会が行われました。

 

学期末指導・表彰
 
学期末指導では服装についてや追試験・再試験についてのお話しを聞きました。
また、吹奏楽部とESS部の代表者が壇上に上がり、表彰が行われました。吹奏楽部は、第44回兵庫県アンサンブルコンテストにて銀賞を受賞し、ESS部は、
平成28年度神戸新聞社杯プレゼンテーションコンテストにて第3位を受賞しました。

 

生徒指導講演会
 
生徒指導講演会では、携帯電話に伴うトラブルなどの事例とその予防対策についてビデオを使って警察官の方に紹介して頂きました。
携帯電話において軽はずみな気持ちでクリックすることの怖さを再確認できたと思います。今日学んだことをしっかり頭に入れてトラブルに巻き込まれないようにしておきましょう。
  
  

   

 

  2017-02-22 全校礼拝

本日、全校礼拝が実施されました。

 聖書:マルコによる福音書10:13~16  
 讃美歌:451番  「子供のように」

 

 今日読んだ記事は、イエスが子供たちを祝福した、という記事です。13節には次のようにあります。イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。ここで、「人々が子供たちを連れて来た」と記されています。この人々がだれなのか、その幼子がどのような人で、何人なのか、何の目的で連れて来たのか、ということは一切言われていません。イエスの周りには、実に色々な人が集まりました。子供は、当時のユダヤ人の社会では、何等重要視されない、無視された存在でした。それは、子供はまだユダヤ教の律法を守ることが出来ない存在であったからです。しかし、イエスは、その子供を重要視しました。 さて、今日のところで、人々が幼子を連れて来たのは、イエスに触れて頂くためだ、とあります。恐らくこの人々というのは、田舎の素朴な人々で、イエスの評判を聞きつけて、イエスに触れてもらったら何かいい事でもある、と単純に思ったのでしょう。彼らはイエスが病人に触れたら病が癒された、というような評判でも聞いたのでしょう。いわば、御利益的な思いから、わが子をイエスに触ってもらおうとしたのでしょう。 しかし、それを見て、弟子たちは「叱った」とあります。この「叱った」と訳されている語は、もっと強い調子の言葉です。「叱りつけた」位でしょう。 この「子供たち」と訳されている語は、ギリシア語ではパイディオンという語ですが、新生児に使われることもあれば、12歳位の娘にも使われることもあります。従って、この語は、かなり幅のある年令の子供をさしています。従って、ここでイエスの所に連れて来られた子供は、赤ちゃんであったのか、あるいはもう思春期になる位の子であったのかは、分かりません。そして、この語は複数になっているので、一人ではなく、何人か、恐らく数人であったでしょう。突然の子供の登場は、弟子たちには、余計な事であり、そのような子供たちが邪魔であったでしょう。 しかし、イエスの態度は弟子たちとは、対照的です。14節には、
  しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
とあります。ここでイエスは「憤った」と言われています。勿論弟子たちの態度に対してです。弟子たちは、むしろイエスの為を思ってしたことであったかも知れません。即ち、忙しいイエスにそんな子供にわずらわせてはいけない、と配慮したのかも知れません。しかし、それはイエスのみ心とは全く違っていたのです。この「憤った」というのは、非常にきつい語です。激しい怒りを表します。そして、この語がイエスに言われているのは、ここだけです。ここには、子供たちに対するイエスの愛と、子供たちを軽んじる弟子たちに対する非難が表されています。そしてイエスは、「神の国はこのような者の国である」と言います。これは一体どういう意味でしょうか。子供は汚れがなく純粋であるから神の国にふさわしい、ということを言っているのでしょうか。しかし、子供も結構いじわるをしたり、悪いことを考えたりします。必ずしも罪がない、純粋だとは言えません。子供自体が評価されているのではありません。そうではなく、子供は全く無力な存在である、ということです。これは高く評価されているというよりは、負の評価です。当時のユダヤ人の一般的な判断によると、子供は律法については無知であり、それゆえに律法に照らして神の前に自分を主張出来ない存在です。従って、子供は、自分に誇るべき何物もないのです。社会的にも、何の力もなく、何の影響力もないのです。もし、親や大人の庇護がなければ、子供は非常に惨めな存在です。それゆえに、いつの時代にも、子供が受難を受けることがあります。そして現代においてもそういう現象がしばしば見られます。子供は無力であり、大人の暴力に抵抗することも出来ません。また、法律などを知らないために、自分を主張することも出来ません。また、日本では、最近幼児虐待ということが社会問題になっています。最も頼るべき実の親に虐待されたら、子供は一体だれに頼ればいいのでしょうか。子供というのは、そのように本質的には全く無力な存在なのです。イエスは、その自ら何の誇る所もない、弱い存在である子供を受け入れ、愛し、祝福したのです。 ここでイエスが子供を祝福したのは、子供の側にそれにふさわしいものがあるからではありません。それは神の徹底的な恵みの賜物にほかなりません。神の一方的な恵みです。ここでイエスは、数人いたであろう子供を一人一人吟味して、それに基づいて祝福をしたりしなかったり、ということはしていません。全く無条件にどんな子供も受け入れ、等しく祝福しているのです。勿論ここで、子供たちは、初対面のイエスに対する信仰などはもっていなかったでしょう。子供たちの側に何か祝福に足るものをもっていたからではなく、全く無条件にイエスは彼らを祝福したのです。これは当時のユダヤ教からは、考えられないことでした。当時のユダヤ教は、律法主義、功績主義でした。その人に何らかの功績なり、資格なりが必要でした。従って、律法を忠実に守り、自分に資格があると思う人は、自分を誇り、資格のない人を見下げたのです。子供は当然、大人のように律法を忠実に守ることが出来なかったから、低く見られていたのです。イエスは、そのように当時の社会において低く見られた人にあえて近付き、交わりをもたれたのです。それは取税人であり、病人であり、女性であり、子供であった。しかし、イエスはこのような無力な人を受け入れ、愛されたのである。 15節には
  はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決  してそこに入ることはできない。
とあります。子供は全く無力な存在です。従って、常に親に頼ります。このことと、自分に誇るべき物がない者は、神に頼らざるを得ない、ということと比べているのです。私達はどうでしょうか。何か誇るべき物を持っているでしょうか。私達も実は、本当は無力なものではないでしょうか。本当は、何も誇るべきものは、ないのではないでしょうか。ただ神に頼るしかない存在ではないでしょうか。そしてそういう姿を謙虚に認めるならば、私達はかえって神の国が近いのです。私達も幼子のように神の国を受け入れる者でありたいと思います。

 

  2017-02-15 卒業送別礼拝

本日、卒業送別礼拝が実施されました。
 

 

聖書:エフェソの信徒への手紙5章6-8節   
讃美歌:493番・465番
「希望の光」

今日は、中学高校の卒業送別礼拝です。夙川学院では、卒業送別礼拝においてローソクに火を灯します。なぜ、こんなことをするのでしょうか。ローソクの火は、光を象徴します。聖書においては、光は希望や救いを表します。クリスマスにおいても、ローソクに火を灯しましたが、これは暗い世の中にキリストは、光としてこの世に来られ私たちに希望や救いをもたらして下さったということ意味します。皆さんは、真っ暗ということを経験したことがあるでしょうか。真っ暗の中にいますと、本当に底知れない恐怖に陥ります。皆さんは、停電を経験したことがありますか。わたしの小さい頃は、よく停電がありました。夜停電になると、あたりが真っ暗になり、周りに何があるか一切分かりません。ちょっとしたものにつまずいたりして、とても不安と恐怖に陥りました。そして、しばらくして電気がつくと、ほっとしました。旧約聖書の一番最初の所で、神は何もなかった所に、まず最初に光を造った、ということが書かれています。これは、神はわたしたちに救いと希望を与えたということを言おうとしているのです。卒業生は、今から、新しい進路に向かいます。不安があるのではないでしょうか。ローソクの火は、そのようなときに希望を持って歩んでください、というメッセージなのです。不安を持ったとき、聖書を読んでください。きっと、聖書の言葉は、皆さんに希望の光を与えてくれるでしょう。それから、光には、もう一つ意味があります。先ほどの聖書に、「光の子として歩みなさい」という言葉がありました。これは、正しい歩みをする、ということです。人に恥じない正しい歩みです。暗闇だと、何をしているのか分かりません。不正なことは、闇として表現されます。闇に支配されると不正が横行します。先ほどの聖書に、「むなしい言葉に惑わされてはなりません」とありました。闇に支配されると、空しい言葉に惑わされて、間違った方向に歩んでしまいます。そのような所に行かないで正しい道を示してくれるのが光です。光は正々堂々とした歩みです。皆さんも、これからの歩みにおいて、正々堂々と正しい歩みをしてください。その正しい歩みも、きっと聖書を読めば教えてくれるでしょう。卒業する方々は、今後の歩みに不安や恐れがあるかも知れませんが、ローソクの光を思い出し、希望を持って、正しい道を歩んでください。在校生の皆さんも、先輩にならって、希望を持って、勉学生活を続けて下さい。

 
中学3年生、高校3年生が卒業するにあたり、毎年送別礼拝を実施しています。
1つの親火から生徒一人一人のロウソクに届いていきました。
この灯火のように卒業生も明るく、また輝いていってほしいと願っています。

 

  2017-02-11 2月8日(水) 全校礼拝

2月8日(水)全校礼拝が実施されました。

 

 

聖書:マタイによる福音書6章1-4節
讃美歌:465番
「隠れたことを見られる神」

6章2節には、だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられ     ようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。とあります。当時のファリサイ派の人々は、大きな施しをする時、ラッパを吹き鳴らしていた、というのです。これはいささかオオバーかも知れません。いかにも今施しをしました、ということを人に見せるためです。そして人から、あの人はあんな沢山施しをしている、偉い人だ、とほめられるためでした。それに対してイエスは、3節において、
    施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
と言われました。これも非常にオーバーな表現ですが、善行は人に隠れてすべきだ、ということです。しかしそれは、隠れたことを見られる神にのみ見られており、神によって報いを受ける、というのです。  私は、学生の時代、多少苦学をしていました。本を買うお金がないので、アルバイトをしていました。しかし、それを知ったある人が、匿名で私への本代としてお金を送って下さいました。私は、それを月一回、受け取りました。ただし、送ってくれた人は、匿名であったためにだれかは分かりませんでした。それで、私はアルバイトをせずに本を買うことができました。当時のお金でかなりの額だったように思います。私は非常に助かり、もうアルバイトをせずに本を買うことができました。そのうち、その人が分かったらお礼を言いたいと思っていたのですが、未だにその匿名の人がだれかは分からないのです。その人は、きっとこのイエスの「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」という言葉を忠実に守られたのではないかと思います。今の世の中、これとは逆のことが多いのではないでしょうか。コマーシャルの時代で、自分の徳をもテレビで宣伝している人もいます。それも、何倍にも増幅して宣伝しているのです。神にではなく、人にどう評価してもらうか、ということが横行しています。そこで、人にわからなければ善い行いをしないどころか、逆に不正なことをしています。そのような事件が頻発しているのではないでしょうか。最近は、企業でも官庁でも不正な事件が横行しています。世の中、実に人の目をいかにごまかして利益を得るか、ということに満ちているように思えます。しかし、人の目をごまかせたとしても、隠れたことを見られる神の目は決してごまかせないのです。人は表面的なことを見て評価しますが、しかし神はその表面から隠れた所を見られるのです。今日のテキストにおいて、最後は「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」という言葉で締めくくられています。神に対する畏れというものがほとんどありません。それゆえに、私達の心を痛める事件が次から次へと起こります。かつて、飲物や食べ物に毒物を混入させるという事件が頻発しました。犯人は何のためにそのようなことをしたのでしょうか。これも「隠れたことを見られる神」という信仰が全くない所から起こっているのではないでしょうか。しかし、人間の目には分からなくても、神の目にはすべてが分かっているのです。私達は、この畏れをもつ必要があります。私達は、隠れたことを見られる神への信仰を常にもち、この神が報いてくださるようにと日々の生活を歩みたいと思います。

 

  2017-02-03 2月1日(水) 全校礼拝

2月1日(水)全校礼拝が実施されました。

  

聖書:ローマ人への手紙12章9-21節
讃美歌:451番  
「よい人間関係」

私たちは、よい人間関係を結びたいと思います。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。その時に大切なのは、自分中心ではなく、相手のことを思うと言うことです。ローマの信徒への手紙を書いたパウロという人も、常によい人間関係を築くために努力したと思います。その総括のようなことが、今日の所に書かれています。今日読んだことをすべて行うことは難しいかもしれませんが、この中の一つでも二つでも行うことができれば、人間関係も少しよくなると思います。このローマの信徒への手紙は、パウロがローマの教会に集まっている人々に書いた手紙ですが、教会に集まっている人もいろいろあって、人間関係にいろいろな問題も起こったようです。全部についてお話しする時間がないので、そのうちのいくつかを取り上げてお話しします。そこで、パウロが勧めた生き方が今日読んだものです。まず最初に、9-10節には、
  愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をも  って互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
とあります。私たちがよい人間関係を結ぶとき、基本となるのは愛だと思います。そこでパウロは、まず最初に「愛」を勧めます。この愛は、聖書においても最も中心のものです。パウロは、この世で生活するに当たってのいろいろな勧めをなしますが、その根本に愛がなければ、一切は無益だ、ということで愛から語り始めていると思います。 さて、9節からは、沢山の勧めがなされています。
それら一つひとつはどれも、私たちがよい人間関係を結ぶためにすべて大切なものばかりです。しかし、一つひとつを取り上げて話していけば、とても一回の話では足りません。このうちの一つでも二つでも行うことができれば、人間関係はよくなると思います。そこで、今日は2、3のものだけを取り上げることにします。15節には、
  喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
とあります。泣く者と共に泣くということは、比較的易しいかも知れません。不幸にあった人に同情することは比較的できるのではないでしょうか。しかし、喜ぶ者と共に喜ぶ、というのは、そう容易ではありません。人間は、自己中心的であり、他人の幸福をそう素直に喜べないのです。人間には嫉妬心があるからです。これができるのは、本当の愛に生かされた人ではないでしょうか。例え他人の幸福を素直に喜べない人でも、同じ家族の者の幸福は喜ぶのではないでしょうか。親は、子供の幸福を無条件で喜びます。子供の幸福に嫉妬する親というのはあまりないと思います。ですから、友達も家族のように大切だと思うことができれば、共に喜ぶこともできるでしょう。 次に18節には、できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさいとあります。人と争わず平和に暮らすということも大切なことです。人と平和に暮らすには、ある程度自分を押さえなければなりません。お互いに自我を押し通すところからは、平和は生まれません。これにはやはり、愛と忍耐が必要でしょう。 次に19節には、
  愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたし  のすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
とあります。人間は、「喜ぶ者と共に喜ぶ」ということが中々出来ませんが、それどころか、人への憎しみを持ちやすいものです。人の過ちを中々赦すことが出来ず、報復をします。人間の歴史は、報復の歴史だ、といってもいい位、報復が繰り返されています。そしてしばしば、この報復ということが美化され、また美化とまではいかなくても、当然の権利である、と思われています。日本の昔の話にも、「仇討ち」の話がよくありますが、忠臣蔵などに代表されるように、仇討ちということが美化されていました。これは何も日本だけでなく、世界中に似たような話が沢山あります。ということは、人間とはいかに赦せないか、報復せずにおれない存在か、ということを示しているように思えます。現在においても、テロ事件が起こると被害に遭った方は、報復します。そうすると、報復された者は、その報復としてまたテロ事件を起こします。このように報復の連鎖となって、留まる所を知りません。人間は、中々人を赦せないものですが、もし赦すことが出来れば、それは神の愛の働きのような気がします。 ここでパウロが勧めている生き方を少しでも実行することができれば、よい人間関係を築くことができると思います。

 

  2017-01-30 1月25日(水) 全校礼拝

1月25日(水)全校礼拝が実施されました。

 

聖書:マタイによる福音書18章21-35節
讃美歌:451番
「赦しについて」

 今日は、赦しということについて考えたいと思います。私たちは、人から被害を受けたとき、どれ位赦すことができるでしょうか。被害が大きければ大きいほど、相手を赦すことはできないと思います。今日のところでペトロは、イエスに「7回までですか」と聞いています。この「7回まで赦せ」という教えは、当時のユダヤ教の教えにありました。人を赦すということは、本当は非常に難しいことです。人間的にできた人で寛容な心の持主であっても、表面的に人を赦せたとしても、心の片隅では、いつまでも赦すことができない、ということがあります。1~2回ならなんとか赦せても、ここのペトロのように7回も赦せるとしたら、非常に寛容な人でしょう。人間というのは、中々自分に加えられた被害を忘れ去ったり、赦したりはできないものです。自分に加えられた侮辱とか侮りといったものは、たとえ20年前30年前のものであってもしつこく覚えているものです。 しかしイエスは、「7の70倍までも赦しなさい」と言われます。これは7X70=490で、ペテロの7回は少ない、もっと多く490回まで赦しなさい、と言っているのでしょうか。これはもう数え切れない、無限ということです。それを説明するために、ここでこのたとえをイエスは語ったのです。ある人が友達に会って、貸していた百デナリオンを返せと言った、というのです。1デナリオンというのは、当時の日雇い労働者の1日の賃金に相当する額だと言われています。仮に5千円とすると、百デナリオンだから50万円になります。50万円といったら大きなお金だから必死になって取り返そうとするのは分かります。この仲間は、お金がなかったのでしょう。もう少し待ってくれるよう必死に頼んでいます。しかし、この男は赦さなかったのです。この男は、仲間(友人)に対してですから、少し冷酷であるかも知れませんが、借金の時にかわした契約の通りしているのであれば、特に間違ったことはしていません。私達の普通の世間では、よくあることかも知れません。契約の通りに返せなかったら、それなりの処分や罰があります。ここだけを読むと確かに少し冷酷とは思いますが、並外れて間違ったことをしている訳ではないと思います。 しかしイエスは、実はこの男はそれ以前に神から莫大な負債を赦されたのであって、それを忘れてしまっている、あるいはそれを無視している所にこの男の問題があるのだ、と言っています。33節に。
  わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。
まず主人(神)の憐れみがあります。そして、それに応えて私達も仲間を憐れむべきだ、と言われています。イエスはここで、神が私達に与えた赦しがいかに大きいものであるかということを、たとえで教えておられます。この家来は、実は王に1万タラントンの借金があったのだ、とイエスは言います。この一万たらんトンというのは、実に3000億円という計算になります。この家来は確かに50万円もの金を仲間に貸していましが、その60万倍の金を王から赦されたというのです。こんな大金は一生かかっても到底返すことはできません。最初は、妻子まで売るようにと言うのですが、この家来が哀願している姿を見たとき、主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった、というのです。この主君は、いったんは自分と妻子も奴隷に売って借金を返せと言いましたが、ひれ伏して哀願している姿を見て「憐れに思った」とあります。そして、この憐れな姿を見た王は、この1万タラントンという莫大な借金を赦してくれた、というのです。そしてイエスは、これが神の私達に対する態度だ、と言うのです。この男は一生かかっても返せないような借金を赦されたのに、その直後にわずかの金を貸した友人に会って、これを赦せずに獄にぶち込んだ、というのです。もし私達に実際にこんなことが起こったとしたならば、簡単に赦すと思います。たった今、一生かかっても返せない多額な借金を赦されたすぐ後に、こういう冷酷なことをするでしょうか。もしそうなら、この男は世にもまれな特別に冷酷無比な人であったのでしょうか。この男は特別な冷酷な人というのではなく、私達と同じです。すなわち、赦されているものの大きさが分かっていないのです。否、そもそも自分は「赦された者だ」という自覚がないのです。私達も、あるいは神からどれほど大きなものを赦されているかを分かっていないのではないでしょうか。イエスはここで、「私達は、神によって実に大きなものを赦されているのだ」ということを言おうとしているのです。しかもその赦しは、私達が一生かかっても返すことのできないような莫大なものを赦されているのです。しかし私達は、このことに気がつかないのです。気がついたとしても、その赦しがこれほど莫大なものである、ということを知らないのです。それだからこそ、他人のほんのささいなことも赦せないのではないでしょうか。私達は、他の人を赦さなければならないというのでなく、私達が神によって「赦された者」であるということを、心から受け入れることが出来れば、他の人をも赦すことができるでしょう。

 

  2017-01-23 1月18日(水) 全校礼拝

1月18日(水)全校礼拝が実施されました。

聖書:詩編46編2ー8節
讃美歌:520番
「阪神淡路大震災を覚えて」

 

 さて本日は、昨日で「阪神淡路大震災」から22年になりますので、それを覚えて礼拝を行います。この大地震については、生徒の皆さんは生まれていなかったですが、皆さんのお父さんやお母さんに聞いてよく知っていると思います。教職員の方々は、実際に経験されたことと思います。1995年1月17日の早朝6時少し前に、マグニチュード7.3の大地震が起こり、6千人を超える人々が犠牲になりました。夙川学院でも高校生2名が犠牲になりました。また、家屋の被害が5800万円ほどになりました。戦後最大の災害となりました。その後、2012年に東日本大震災が起こりましたので、現在ではこれが最大の被害となりました。私は、当時は、京都に住んでいたのですが、京都でもかなり大きく揺れ、非常に驚きました。さらに驚いたのは、テレビにて次々と写される被害の状況でした。高速道路は倒れ、神戸の大きなビルも倒れ、新幹線の橋桁も倒れていました。また、神戸のいろいろな所で火災が発生し、火の海のような光景が画面に出されました。私は三日目に、阪急電車で京都から西宮北口まで来て、そこからは電車が動いていなかったので、自転車を借りて、神戸まで走りましたが、目にする光景は、今までに見たこともない光景で、現実とは思われませんでした。家という家は倒れ、まるで戦争の後のようでした。自然の脅威というのは、恐ろしい、そして、人間は自然の脅威には勝つことができないという無力感を感じました。現在はすっかり復興して、神戸の町や西宮の町を見ても、そのような光景を連想させるものはほとんどありませんが。 この大震災でつくづく思わされたことは、私たち人間の力は大自然の力の前には無力である、ということです。今や宇宙にまで生けるようになり、さまざまな難病を克服し、さまざまな便利な品があふれている現代文明ですが、あの地震の威力にはなすすべもありませんでした。そういう意味では、人間は謙虚にならなければなりません。そういうとき私たちには、祈ることしかできません。 さて、聖書にも自然災害については多く記されています。先ほどの詩編46編3-4節には、次のようにありました。
  わたしたちは決して恐れない
  地が姿を変え
  山々が揺らいで海の中に移るとも
 
 海の水が騒ぎ、沸き返り
 
 その高ぶるさまに山々が震えるとも。
ここでは、地震と津波が暗示されています。ここにおいても、このような自然の大災害には、人間は全くの無力です。神に祈るしかありません。そしてこの詩人は、神は必ず助けてくださる、と信じています。2節には、
  神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
  苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
とあります。この詩篇の詩人は、「たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。」と言っています。聖書の言葉というのは、「苦難の時」に大きな力を与えてくれるものです。2-3節を見てみます。
  このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
  たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は
  震え動くとも、われらは恐れない。
また6節を見てみます。
  もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。
ここには、天変地異、あるいは戦争による激動があります。戦争が起こった時の動揺、敵が攻めて来た時の恐怖は、想像を絶するものです。2節で、「山は海の真中に移るとも」と言われているのは、大地震のことかもしれません。「山」というのは、動かないもの、泰然としているものです。しかし、大地震によってそれが海の中に移るというのです。もしそんな大地震がくれば、私達はあわてふためくでしょう。阪神淡路大震災においても、地滑りが起こって大勢の人がなくなりました。また、大きなビルが倒れたり、高速道路が倒れたり、想像もしないことが起こりました。私達も大地震の恐ろしさというものを実感しました。  しかし、私達を恐れさせているのは、そのような戦争とか、天変地異だけではありません。私達の人生においても、いろいろな時に動揺や恐怖があります。むしろ不安、動揺、激動の連続なのではないでしょうか。ちょっとしたことで動揺し、中々落ち着いた気持ちになれません。しかしこの詩人は、「このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない」と言っています。それは、この詩人が、神が常に共におられる、と確信していたからです。7節には次のようにあります。
  万軍の主はわれらと共におられる、
  ヤコブの神はわれらの避け所である。
この神こそが、私達の助けです。この詩人は、2節において、
  神はわれらの避け所また力である。
  悩める時のいと近き助けである。
と言っています。たとえ地が変わっても、山々が海に移っても、その地や山を創造された方は、永遠に変わることはありません。天地万物の創造者なる神こそ、私達の真の助けであり、私達が絶対に信頼すべき方です。この詩人は、1節で「神はわれらの避け所」と言っています。

 

  2017-01-13 1月11日(水) 全校礼拝

1月11日(水)全校礼拝が実施されました。

  

聖書:フィリピの信徒への手紙2章1-4 
讃美歌:471番
「思いやり」

皆さんは。何気ないことで人を傷つけてしまうことがないでしょうか。また、逆に人に傷つけられることはないでしょうか。結構あると思います。今日は、「思いやり」と言うことについて考えてみましょう。夙川学院高校の「学校案内」の一番最初に次のように書かれています。「本学院においては、キリスト教教育を教育理念の柱として、心豊かな思いやりのある人間の形成を目指します。」ここに、「思いやりのある人間の形成を目指す」と明記されています。この思いやりというのは、聖書の精神でもあります。今お読みしたフィリピの信徒への手紙2章3-4節に
  何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
とありました。「自分のことだけでなく、他人のことにも注意をする」、これは思いやりの精神と言うことができます。これはとても大切なことであると思います。「思いやり」というのを『広辞苑』で調べてみると、「自分の身に比べて、人の身について思うこと」とあります。別の言葉で言うと、「その人の立場に立って思う」ということです。イエスの有名な言葉に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。」というのがあります(マタイ7:12)。これは最も大切な教えだということで「黄金律」と言われています。「その人の立場に立って思う」ということはとても大切なことですが、それが中々出来ないというのもまた人間の悲しい現実です。これが出来れば、世の中は幸せになると思います。今の日本は、このような「思いやり」の心に欠けているのではないでしょうか。そのために心を痛めるような悲しい事件が、次から次へと起こっています。人間はしばしば言葉に傷つきます。人から言われた厭な言葉に落ち込むこともよくあります。それがひどい場合には、自殺にも追い込まれます。最近では、ツイッターなどインターネット上の書き込みで、個人を非難中傷したりと言うことが良くあります。そして、そういうことを書かれた人は非常に傷つきます。書く方は、軽い気持ちで書くのかもしれませんが、書かれた方は本当に死ぬ位つらい気持ちになります。実に思いやりの精神に欠けた行為だと思います。こういうとき、思いやりの精神をもつことができれば、つまり、もし自分がこのようなことを書かれたら、と相手の気持ちに立つことができれば、こういうことは起こらないと思います。旧約聖書の箴言12章18節に、
  軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。
という言葉があります。人に対する一言の言葉がひどく傷つけることもあります。また逆に一言の言葉が人を癒すこともあります。精神科医で執筆活動もされている斉藤茂太という人の本に『いい言葉は、いい人生をつくる』というのがあります。相手に対していい言葉をかけるなら、それはその人の人生もいいものにするということが書かれています。そこで、斉藤さんは、人にはできるだけ思いやりのあるいい言葉をかけるように努めている、と言います。人の立場に立って、「思いやり」のある生き方をしたいものです。今日の聖書の言葉にあるように、私たちも「自分のことだけでなく、他人のこともよく考える」思いやりの精神をもちたいと思います。


   

 

  2017-01-10 平成28年度 3学期始業式

本日、本学院アリーナにて3学期始業式が行われました。


 
 


明日から授業が始まります。インフルエンザが流行していますが、体調管理に気をつけ、明日からも元気に頑張っていきましょう!

 

  2016-12-20 12月19日(月) 学期末指導・表彰・終業式

12月19日(月)に、アリーナにて学期末指導・表彰と終業式が行われました。


 
 
学期末指導では生徒指導部の先生から冬休みの過ごし方について、教務部の先生から成績や今後の勉強の取り組み方についてのお話しを聞きました。
また、兵庫県新人バドミントン選手権大会団体と、近畿高校選手権大会個人の表彰が行われました。ダブルスで第3位に入賞した2人がステージにあがりました。

 


冬休み中は今日聞いた話をしっかり意識してもらい、3学期に元気な姿で登校してください。

 

   12月17日(土) 学校説明会

12月17日(土)に、中学校・高等学校の学校説明会が行われました。


 
 
本日は最終回でもあり、寒い中でしたが昨年度より参加者の多い学校説明会となりました。

 


今年度の学校説明会は本日をもって終了となります。たくさんのご参加、ありがとうございました。

 

  2016-12-17 12月16日(金) クリスマス礼拝・(高校)生徒自治会役員立会演説

12月16日(金)に、アリーナにてクリスマス礼拝と(高校)生徒自治会役員立会演説が行われました。

クリスマス礼拝
   

啓明学院中学・高等学校の宗教主事、指宿力先生から「クリスマスがやってくる!」という題で、メッセージをいただきました。
また、今年のクリスマス礼拝は例年と違い、高校1年生の3クラスにハンドベル演奏を行ってもらいました。 

 

 

(高校)生徒自治会役員立会演説
高校生を対象に、生徒自治会役員立会演説が行われました。
 
立会演説終了後、各教室にて投票に入りました。
結果は終業式の日に開示されます。お楽しみに!

 

  2016-12-15 学校説明会について

12月17日(土)に中学校説明会・高等学校説明会(最終回)が開催されます。
プログラムは以下の通りになっております。
学校説明会

*お願い*
公共交通機関を使ってご来校ください校内に駐車場はございません)。

当日のスクールバス送迎時間については、こちらをご覧下さい。(→スクールバスについて
ご不明な点がございましたら、本校までご連絡下さい。(078-940-1131)

 

  2016-12-05 12月3日(土) 学校説明会

12月3日(土)に中学校・高等学校の学校説明会が行われました。

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本日は天気が良く、今まで以上の方が学校説明会にご参加くださいました。
施設見学のグループを多めに分けて、じっくり時間をかけて見学しました。

 

次回の学校説明会は12月17日(土)10:00からです
学校説明会は次回で、中高ともに最終回となっております。たくさんのご参加お待ちしております。

 

  2016-12-02 11月30日(水) 全校礼拝

11月30日(水)全校礼拝が実施されました。
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聖書:ルカによる福音書1章26-38節 
讃美歌:263番 
「アドベントによせて」

 

 キリスト教では、クリスマスの前の4週間をアドベントといいます。今年は、11月27日(日)にアドベントが始まりました。そして、夙川学院では、一昨日の月曜日にクリスマスツリー点灯式が行われました。参加して下さった方もいると思います。アドベントというのは、「到来」という意味ですが、日本語では「待降節」と言います。アドベントは、キリストの降誕を待ち望む時期ということです。 さて、今日読んだ聖書の箇所は、マリアが天使によって受胎告知をされる記事です。この物語は、歴史を通して、世界の多くの人々に大きな感動を与えてきました。ここには、この物語を伝えた当時の貧しい民衆の素朴な信仰が反映されていると思われます。「受胎告知」は、マリアがまだ結婚する前に身ごもったことを天使に告げられる記事です。マリアは、そんなことを告げられて、非常に戸惑いました。34節と見ますと、
  どうしてそんなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。と言っています。一般に処女降誕と言われていることです。こんなことは私たちの頭では考えられないことです。こんなことは、科学の発達した現代であるから信じられないのではなく、昔からそんなことは考えられないことでした。ここでマリアも、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と言っています。そして、マリアにとって、妊娠などしたら非常に困る事態なのです。というのは、マリアはヨセフという男と婚約をしていました。ですから、もし妊娠ということになれば、それは過ちを犯したことになり、婚約が解消されるだけでなく、非常に厳しい制裁を受けなければならなかったのです。それは、この当時の習慣としては、石打の刑でした。これは大きな屈辱でした。このときのマリアの不安、恐れはいかばかりであったでしょうか。いくら天使の言葉でも、そんな事態になっては困る、と思ったでしょう。そしてここで天使の言ったことは、35節に記されています。
  聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。さらに37節では、
  神にできないことは何一つない。と言いました。
この天使ガブリエルの言葉に、マリアはもはや「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」とは言いませんでした。そんなことが起こっては困る、とは言いませんでした。今度は彼女は素直にそれを信じました。そして、38節において、わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように。と言いました。ここではもう、以前の疑問や不安はありません。29節でマリアは「戸惑った」とありました。これは、異常な事態が起こったときの極度な不安を言い表しています。しかし天使の言葉によって、神が大きな業を起こそうとしていることを信じたのです。そして、困った事態になると思われたにもかかわらず、その事態を受け入れたのです。素直にこの困った事態を受け入れたのです。ここにマリアの素直な信仰があります。また、真の強さがあります。そして、わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。と言ったのです。たとえ困った現実になったとしても、神の与えたものとして受け入れたのです。これは、自分を全く神に委ねた態度です。マリアは天使に「恵まれた方」と言われましたが、それは神の言葉を素直に信じたからではないでしょうか。マリアが「何と幸いでしょう」と言われたのは、処女降誕という超自然的な奇跡が彼女の身に起きたからではなく、「神に出来ないことは何一つない」と言うことを心から信じ、すべてを神に委ねたからです。私たちも、私たちの頭で考えられないことに「どうして、そのようなことがありえましょうか」と疑い、それと共に不安や恐れを抱くのでなく、神が私たちを救うために実に大いなる御業をなして下さったことを、心より信じるものとなりたいと思います。そしてマリアは、お腹に宿っている赤ちゃんが誕生するのを待ちました。臨月近くたってから、ローマ皇帝の命令によって、住民登録のために長い旅に出なければならなくなりました。臨月近くなってからの旅というのは、非常に苦痛だったと思います。しかし、マリアはそれをも受け入れて、旅に出たのです。そして、その旅先で、イエスが誕生したのです。マリアは、困難なことに遭遇しても、そこから逃げたり、避けたりするのでなく、それを受け入れましたが、その時々に神の守りが与えられました。そしてその先には、御子の誕生という大きな喜びが与えられました。この物語は、迫害の中にあっても、神の言葉を捨てるのでなく、受け入れた当時の人々の素直な信仰から産み出されたものです。

 

  2016-11-28 クリスマス点灯式

本日、正門近くにて18:00からクリスマス点灯式を行いました。

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たくさんの教員、生徒達、短大生等が集まってくれました。
点灯するととても綺麗なので、是非見てください。

 

  2016-11-22 (中学)生徒会役員任命式・高校2、3年生美術科 修学旅行1日目

本日、中学生の生徒会役員任命式が行われ、高校2・3年生の美術科は修学旅行に出発されました。

 

< (中学) 生徒会役員任命式>
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生徒会役員が、校長室にて任命されました。
今後たくさんの行事をまとめてもらいます。頑張っていきましょう!

 

< (高校)美術科  修学旅行1日目>
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9:45に関西国際空港に集合し、フランスのパリ・シャルルドゴール空港へ向かいました。
修学旅行の情報を今後も更新していきますのでお楽しみに。

 

  2016-11-21 11月19日(土) 学校説明会

11月19日(土)に中学校・高等学校の学校説明会が行われました。

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  天気は快晴ではありませんでしたが、たくさんの方がご参加くださいました。

 

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 プリスクールコースを希望の方は短大の音楽室と図工室も見て頂きました。

 

次回の学校説明会は12月3日(土)10:00からです
学校説明会は残り2回となっております。是非、ご参加ください。

 

  2016-11-17 学校説明会について

11月19日(土)に中学校説明会・高等学校説明会が開催されます。
プログラムは以下の通りになっております。
学校説明会

*お願い*
公共交通機関を使ってご来校ください校内に駐車場はございません)。

当日のスクールバス送迎時間については、こちらをご覧下さい。(→スクールバスについて
ご不明な点がございましたら、本校までご連絡下さい。(078-940-1131)

 

   11月16日(水) 全校礼拝

11月16日(水)全校礼拝が実施されました。
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聖書:ルカによる福音書15章25ー32節
讃美歌:493番
「共に喜ぶ」

 前回は、ルカによる福音書15章の「放蕩息子たとえ」の前半の話をしました。今日は、その後半の話です。
前半では、二人の兄弟の弟は、父の財産を分けてもらって、父の家から出て行って、放蕩に身をもち崩して、無一物になり、もうのたれ死にするしかないというときに、「我に返って」、すなわち悔い改めて、父の所に帰ったところ、父が大喜びして迎え入れてくれた、という話でした。この話しがここで終わっていれば、非常に感動的であると思います。今日の話がついていることで、せっかく感動的な話がぶち壊しになる、という印象も受けます。 さて、このたとえでは、父と兄と弟の3人が登場します。そして、この兄弟は非常に対照的です。兄は、真面目で、働き者で、親に良く従う優等生です。それに反して、弟は、ぐうたらで、怠け者で、親に逆らう問題児です。25節を見ると、「兄は畑にいた」とあります。この短い言葉から兄の日ごろの生活が想像出来ます。恐らく朝も、早くから畑に出て働いたであろう。さらに、29節では、「何か年も、父の言い付けにそむいたことがない」と言っています。これも本当のことでしょう。この兄は、真面目で働き者で、親に忠実な息子でした。もし、このたとえで、放蕩に身を持ち崩した弟が評価され、真面目で働き者の兄が非難されているとしたら、疑問を抱かざるをえません。 しかし、決してそういうことを言っているのではありません。弟の生活態度が褒められて、兄の生活態度が非難されているというのでは決してありません。このたとえを注意してみると、父は兄の生活態度に対して、けっして怒ったり、非難したりはしていません。むしろ、31節の「私の物は全部あなたのものだ」という言葉から想像して、父にとってこの兄は自慢の子であった、と思われます。今日の話においても、兄の生活態度に対しては少しも非難されてはいません。
 ただ、一つの点が、しかし問題なのです。すなわち、非寛容ということです。28節に、「兄は怒って家に入ろうとしなかった」とあります。この兄の態度は、しかし分からないことはありません。自分は親のいいつけを忠実に守って、朝から晩まで畑で一生懸命働いているのに、弟は親の財産を先取りして、しかもそれを遊びのために全部使い果たしてしまった、そしてその揚げ句の果てに、のこのこと帰ってきたのです。考えてみると、これははなはだ勝手な行動です。ところが、この兄は、自分の弟に向かって直接その怒りを投げ付けてはいないのです。父の態度に対して怒っているのです。29ー30節には、次のようにあります。
  しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』兄は弟に対して直接怒りをぶちまけるのでなく、父の態度に対して、父が余りにも寛容すぎるのではないか、という風に怒っているのです。親に忠実であった自分は、子やぎ一匹も御馳走してくれたことはない。しかし、放蕩で財産を使い果たした弟は、帰ってきたというだけで、子牛を御馳走になっている。余りにも不当な取り扱いではないか。余りにも不公平ではないか、と言っているのです。私達はこの兄の怒りがむしろよく分かるのではないでしょうか。私達がこの兄の立場にたたされたなら、同じ言葉を吐くのではないでしょうか。人間は常に自分を他と比較して、他の人より多くの報いを受けたいと思います。特に自分が一生懸命、真面目にしている場合は、他の人より多くの報いを受けてしかるべきだ、と思います。自分が寛大に取り扱われていることに対しては、余り気付きません。しかし、他人が不当に寛大に取り扱われるならば、我慢が出来ないのです。こういう時、すぐ不公平だと非難します。そういう点からすると、この父の態度は不当に寛大であり、不公平でしょう。私達も他人が不当に寛容にされたときは、それを喜ぶよりもむしろ怒りを感じることが多いのではないでしょうか。ここで父は、「喜び祝うのは当たり前だ」と言っています。父親にとっては、もう死んだと思っていた息子が帰ってきたなら、手放しで喜びます。そして父親は、兄にもその喜びを共にしてもらいたかったのです。神は、ご自分だけが喜ぶのでなく、この喜びを共にして欲しいのである。兄は、とても真面目で働き者でしたが、この共に喜ぶ、という態度が欠けていたのです。父に忠実である、と言いながら、父の喜びを共にできなかったのです。しかし、「共に喜ぶ」ということは、実はなかなか難しいことかもしれません。パウロは、ローマの信徒への手紙12章15節で「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と言っていますが、泣く者と共に泣く、不幸な人に同情することは出来ても、喜ぶ者と共に喜ぶことは、なかなか難しいのです。 兄は、父が弟に対して、不当に寛大であると腹を立てていますが、自分に対して寛大であることには気付いていないのです。父の家にいていつも父の愛を受けつつ、何不自由なく暮らしていたこと自体が大きな恵みであることに気付いていないのです。神は腹を立てることではなしに、共に喜ぶことを求めます。

 

  2016-11-14 収穫感謝礼拝・(中学)生徒会役員選挙立会演説会

本日、収穫感謝礼拝と中学生は生徒会役員選挙立会演説会が行われました。


<収穫感謝礼拝>
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 生徒と教職員が学校に果物を持ち寄り、礼拝を行いました。
日々の恵みを感謝し、持ち寄った果物は放課後に
本学院関係の長期療養者や関係施設へ、お見舞いと感謝の気持ちを込めてお配りしました。

 

 

<(中学)生徒会役員選挙立会演説会>
中学生を対象に、生徒会役員選挙立会演説会が行われました。
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立会演説会終了後、投票に入りました。

結果は明日開示されます。お楽しみに!

 

  2016-11-10 11月9日(水) 全校礼拝

11月9日(水)全校礼拝が実施されました。
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聖書:ルカによる福音書15章11ー24節
讃美歌:387番
「絶望からの救い」

 

 今日は、イエスがされた「放蕩息子のたとえ」について学びます。この話はとても有名で、「世界で最も偉大な短編」とも言われています。
前回は、「10人のおとめのたとえ」で、「取り返しのつかないこと」という話をしましたが、今日は、人生には絶望はない、必ず希望があるのだ、という話をします。
 さて、この物語の父親には、二人の息子がいました。兄と弟です。聖書には、しばしば、全然性格の異なった兄弟が登場します。例えば、旧約聖書の最初の方に、カインとアベルという兄弟が登場しますが、これも全然性格が異なっています。そして、今日のテキストにおいても、全く対照的な人物のようです。兄は、どちらかと言うと、真面目で、親孝行で、働き者のようですし、弟は逆に遊び好きで、怠け者で、親不孝者でした。そして恐らく、優等生の兄にいつも劣等感をもっていたのではないでしょうか。一方真面目な兄は、ぐうたらな弟を軽蔑していたでしょう。
 さて、この弟は、親に自分の財産を要求しました。12節。
  弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前  をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。これは、遺産の先取りです。ユダヤの法律では、こんな場合、父の遺産は、兄には3分の2、弟には3分の1が与えられることになっていました。しかしそれは、父が死んだ時であって、父親が生きている間は、その財産は父が管理することになっていました。弟は何故、父の遺産を先取りしようとしたのでしょうか。それは、父の家を離れて、自由に行動したかったからでしょう。父の家では、何不自由ない生活であったと思われますが、そこに魅力を感じず、もっと面白い世界がある、何でも自分の好き勝手にできる所がある、と思ったのでしょう。自由ということは、非常に大切なことです。しかし、何でも自分のしたいようにする、ということは、本当の自由ではありません。自由には、必ず責任と言うことが伴います。13節には、次のようにあります。
 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。この放蕩息子は、自由というものを、自分の欲のままに勝手気ままにしていいと理解したのです。このような自由の結果は、決していいものとはなりません。この弟は、お金があれば何でも自由に出来ると考えたのでしょう。しかし、お金の力なんていうのは、実にはかないものです。特に自分の楽しみのために使う場合は、あっと言う間です。
 この弟は、自分の力で、自分の好き勝手に、自由に生きようとしましたが、父からもらった財産も瞬く間に使い果たし、食べるものもなくなり、とうとう豚飼いをさせられたのです。ユダヤ人の社会では、豚は汚れた動物とされていました。しかし、彼には、その汚れた動物である豚の世話をする仕事しか残されていなかったのです。しかも16節を見ますと、彼はその豚のえさであるいなご豆で腹を満たしたいと思った、とあります。この弟の人生は、全くの失敗です。行き倒れになるしかありません。まさに、取り返しのつかないことをしてしまったのです。先週の話の愚かなおとめの状態です。しかし、取り返しのつかないことをすれば、全くの絶望かと言うとそうではありません。取り返しのつかないことになっても、それで終わりではありません。まだ、希望が残されているのです。「あんぱんまん」の作者のやなせたかしの本に『絶望の隣は希望です』という本があります。まさに、この放蕩息子は、絶望のただ中で希望を見出したのです。それは、この息子は、この惨めな状態の時に、父のことを思い起こしたのです。
17-19節。
  そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』ここに「本心に立ちかえった」とあります。ここで息子は、今本来の場所である父の所へ帰ろう、と思います。これが、悔い改めです。心から反省する所から新たな希望が与えられるのです。そして、この息子は、父のところに帰り、新たな歩みをすることができたのです。たとえ取り返しのつかないような失敗をしても、それを心から反省し、心を入れ替えるなら、希望が生じるのです。

 

  2016-11-08 11月6日(日) 文化祭

11月6日(日)に夙川学院の文化祭が行われました。


ポートアイランドキャンパスへ移転して初めての文化祭となりました。
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約1000人の方が来場してくださいました。たくさんのご来場ありがとうございました。

 

  2016-11-04 11月2日(水) 全校礼拝

11月2日(水)全校礼拝が行われました。

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讃美歌 ♯387番

聖書  マタイによる福音書25章1-13節  

「取り返しのつかないこと」

 

 今日の話もイエスの譬え話しです。タイトルには「10人の乙女のたとえ」とあります。10人の乙女がいて、5人は油を用意していたが、残りの5人は用意していなかったためそれを買いに行っている間に花婿が到着し、もう家には入れてもらえなかった、という話しです。この話は、私達に人生には取り返しのつかないこともある、ということを教えていると思います。失敗も許される失敗と、もう取り返しのつかない事がある、ということです。皆さんが中間試験でもし悪い成績しかとれなかったとしても、決定的な失敗ということではないでしょう。期末試験に頑張れば、取り返せるでしょう。そう思って、一生懸命勉強すれば、それはかなえられると思います。スポーツの試合でも、相手に負けてしまっても、それは決定的な敗北ではありません。今度勝てるように一生懸命練習すれば、それはかなえられると思います。むしろ、失敗をして、その反省から、今度は頑張る、ということもある。失敗しても、それをバネにしてかえってよくなるということもあります。日本シリーズでは、残念ながら広島カープは日本ハムに敗れて、優勝することができませんでしたが、広島ファンは、それで絶望に陥ったのではなく、来年に期待しています。こう言う失敗は、回復できます。決して、取り返しがつかないのではありません。
 しかし、人生には、取り返しのつかない失敗もあります。私の中学の時の友達にも、取り返しのつかない結果になった人がいます。その友達は、運動神経が抜群で、体操部に入っていました。そして、その演技に皆のあこがれでした。私たちは、彼がやがて、オリンピックにもでられるのではないか、と期待していました。ある時、彼が近所のおじさんの乗っていたバイクに乗りたくて、おじさんにバイクの鍵を貸してほしい、と言いました。彼は中学生なので、勿論バイクの免許は持っていませんでした。しかし、おじさんは、その彼がとても運動が上手なので、バイクなんか簡単に乗れると思い、軽い気持ちでバイクの鍵を貸してやったのです。そして、彼はバイクに乗って、隣の町まで行き、帰りに下り坂でスピードを出し過ぎて、カーブを曲がりきれず、壁にぶつかって、倒れてしまいました。即死でした。14才の短い生涯でした。そのお母さんはとても嘆き悲しんで、鍵を貸した近所のおじさんに、鍵さえ貸してくれなかったら、と悔やんでいました。しかし、後から悔やんでももう取り返しがつきません。このおじさんは、軽い気持ちでかぎを貸したことを、一生後悔して暮らすことになりました。これは、今度気をつければ、取り返しがつく、というものではありません。
 今日のイエスのたとえ話ですが、5人の愚かなおとめは、ちょっとした不注意で油を用意することを忘れてしまったのです。しかし、それが取り返しのつかないことになったのです。油を買いに行っている最中に婚礼が始まって、扉が閉められてしまった、と言うのです。ここでイエスは、失敗にも取り返しがつくものと、取り返しのつかないものがある、と言うことを教えているように思います。もし自分が軽い気持ちでしたいじめが原因で、だれかが自殺したとしたら、その人は、一生後悔するのではないでしょうか。イエスはここで、「目を覚ましていなさい」と言っています。これは、私たちに対する警告だと思います。

 

  2016-10-28 参観ウィーク5日目

参観ウィーク5日目になりました。
本日の授業風景をご紹介いたします。

 


中学1年生 桜組(英語)
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高校1年生 萩組(化学基礎)
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高校2年生 萩組(古典B)             (体育)
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高校3年生 萩組(古典B)            (体育)
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参観ウィークは本日が最終日でした。
保護者の方の御来校、アンケートのご協力ありがとうございました。

 

  2016-10-27 10月26日(水) 全校礼拝

10月26日(水)全校礼拝が行われました。

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讃美歌:387番     

聖書:マタイによる福音書25章31-40節   

題名:「小さい愛の行為」

 イエスの生涯の歩みは、「最も小さい者に愛を示された」と総括できます。私たちは、いろんな人に評価されています。そして、評価する人によって、評価がいろいろ違うのです。今日読んだ話は、キリストの評価、と言えるでしょう。そして、キリストの評価は、世間一般の評価とは違うのです。この世においては、一国の総理大臣のような高い地位についた人、出世した人、財産を積んだ人、いろんな業績を上げて有名になった人などが評価されるかもしれません。ノーベル賞などは、最大の評価かもしれません。しかし、先日、ノーベル文学賞にアメリカのミュージシャンのボブ・ディランが選ばれました。わたしの学生時代の頃にこの人の歌がはやって、わたしもファンだったのでとてもうれしく思いました。しかし、当の本人はこの賞を全く無視しています。ノーベル賞というもので、評価されたくないかのようです。こんな賞とは無関係に音楽活動をしたいようです。 
さて今日の話では、キリストは、ほんの小さな愛の行為をした人を評価されるのです。40節には、つぎのようにあります。
 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 
ここでキリストは、最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたのだ、と言って評価しています。しかし、この人は、キリストに評価された行為には全然気づいていないのです。37-39節には次のようにあります。
 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
 
すなわち、この人にとっては、自分のしたことが特別愛の行為だとは意識されておらず、それが当然のこととしているに過ぎないのです。親が子どもを愛する場合、そうでしょう。別に自分は特別愛の行為をしているという意識はありません。子どものことを思って、すべきことをしているに過ぎないのです。今日のテキストにおいても、キリストにほめられている人は、王に対して小さな愛の行為を指摘されるまで、自分がそういうことをしたことに気づいていないのです。エジプトの「死者の書」には、人間が死んだら審判の広間に出る、と言われています。そしてそこに出た時、その人は生前にした自分の善行を思いだして一つひとつ神の前に述べていく、ということです。そしてそれを神が評価するのです。しかし、今日の所では、そういう自己主張ではありません。自分でも忘れてしまっていることを、神がご覧になっていて、評価してくださっている、というのです。ここで、王から祝福を受けた人は、指摘されなければ自分でも気がついていないのです。空腹な人に食物を与え、病気の人を見舞い、獄に捕らえられている人を見舞うといったことです。貧しい人、困っている人に、自分のできる小さなことをしただけです。ここで思い出すのは、トルストイの「靴屋のマルティン」という話です。このマルティンは、貧しい靴屋でした。彼の家族は、次々と亡くなり、とうとうマルティン一人になってしまいました。ある時、マルティンは夢でイエスの声を聞きました。それは、イエスがクリスマスにマルティンの家を訪ねるということでした。クリスマスの日、マルティンはごちそうを用意して窓から外を見ながら待っていました。そこを雪掻き人夫が疲れた様子で通りかかりました。マルティンは、その姿を見て、可愛そうに思い、その人を家に入れて、温かいお茶を1杯飲ませてあげました。そうすると、その人は元気になって出ていきました。その次に赤ん坊を抱いた貧しい身なりの母親を見ました。また、マルティンは可愛そうに思い、その親子を家の中に入れ、パンとスープをあげ、赤ん坊にはミルクを飲ませました。親子は喜んで帰っていきました。次に、マルティンはリンゴを盗んで逃げてくる貧しい子どもを見て、その盗んだリンゴのお金をリンゴ売りに代わって払ってやりました。結局、この話では、イエスはこの貧しい3人の人に姿を変えてマルティンの所にやってきた、というのです。この貧しい3人にほんの小さな愛の行為をしたマルティンは、キリストによって、今日のテキストにあるように、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。と言って、祝福されたのです。ここで言われているのは、ほんの小さな愛の行為です。全財産をなげうつとか、生命を危険にさらせて何かをする、という大げさなことではありません。困っている人や貧しい国に多額の寄付をする人がいます。それは非常に偉いと思いますが、自分の名誉心からしている人もいます。いかに自分が大きな慈善事業をしているかという宣伝をし、多くの人から名誉を得るのです。
 わたしたちはここで、ほんの小さな愛の行いをする者に、とても大きな祝福を与えてくださる神のことを思うべきです。インドで貧しい人に小さな愛の行為を行ったマザー・テレサもこのキリストの言葉に従って、小さな愛の行為を行ったのだと思います。大阪の釜が先でホームレスの人たちを支援する活動を行っている本田哲郎というカトリックの司祭は、食糧をもらうために列を作って並んでいる貧しい人が実はキリストなのだ、と言っています。私たちも小さな愛の行為をすることによって、キリストに評価される者になりたいと思います。

 

  2016-10-26 参観ウィーク3日目

参観ウィーク3日目になりました。


本日の授業風景をご紹介いたします。

 


中学3年生 桜組(公民)
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高校1年生 桜・菊組(バレー・男子)       (バレー・女子)
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高校1年生 梅組(保健)
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高校2年生 美術科(家庭科総合)
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高校3年生 美術科(立体)            (クラフト)
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残り2日間ありますので是非、お越し下さい。

 

  2016-10-24 参観ウィーク1日目

本日より参観ウィークが始まりました。

本日の授業風景をご紹介いたします。

高校1年生 蘭組(選択美術Ⅰ)           (選択音楽Ⅰ)
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高校2年生 体育科(社会と情報)
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高校3年生 桜組(英語演習C)
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高校3年生 梅組(地学基礎)
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参観ウィークは10月28日(金)まで行っております。
是非、お越し下さい。

 

  2016-10-21 参観ウィークのお知らせ

参観ウィークのお知らせ

2学期も参観ウィークを開催いたします。

*日時*
10月24日(月)~10月28日(金)

*お願い*
公共交通機関を使ってご来校ください(校内に駐車場はごさいません)。
上履きをご持参ください。

 

  2016-10-11 10月8日(土) 学校説明会が行われました。

10月8日(土)に中学校・高等学校の学校説明会が行われました。

 

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本日も天気が良く、たくさんの方がご参加くださいました。

 

 

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フリードリンクは、特に人気がありました。

 

次回の学校説明会は11月19日(土)10:00からです
是非、ご参加ください。

 

 

  2016-10-06 学校説明会について

10月8日(土)に中学校説明会・高等学校説明会が開催されます。
プログラムは以下の通りになっております。
学校説明会

*お願い*
公共交通機関を使ってご来校ください校内に駐車場はございません)。

当日のスクールバス送迎時間については、こちらをご覧下さい。(→スクールバスについて
ご不明な点がございましたら、本校までご連絡下さい。(078-940-1131)

 

  2016-10-04 10月3日(月) 部活動・体育祭表彰式

10月3日(月)に部活動・体育祭の表彰式が行われました。

 

 

<部活動表彰式>
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中学生はバレーボール部、柔道部、空手道部の選手たちが壇上に上がり、
高校生は吹奏楽部、バドミントン部、陸上競技部、空手道部、柔道部の選手たちが壇上に上がりました。

 

 

<体育祭表彰式>
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各競技において、1位~3位までのクラスが表彰されました。

 

 

   9月30日(金) 体育祭

9月30日(金)に神戸グリーンアリーナにて体育祭が行われました。


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体育祭も無事終了し、次は中間テストが待っています。
中間テストに向けて気持ちを切り替えていきましょう。

 

  2016-09-23 9月21日(水)  全校礼拝

9月21日(水)全校礼拝が行われました。

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讃美歌:470番     

聖書:ルカによる福音書11章5-10節   

題名:「熱心な求め」

 今日の話も、イエスのたとえ話です。たとえには、イエスが伝えたい目的があります。この譬えでは、「熱心な求めは必ず聞かれる」ということが言いたいのです。この譬えでイエスが言わんとすることは、9節の
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。ということです。そしてそれを言うために、この譬え話しをされたのです。このたとえ話は、少し変な話かも知れません。真夜中に友達の所にパンを貸してくれ、とたのみに行った、というのです。真夜中にパンを借りに行くというのは、はなはだ非常識なことではないか、と思われるでしょう。何もわざわざ真夜中に借りに行かなくても、パンがなければ、一晩辛抱して、次に日に行けばいいではないか、と思われます。友達ということをいいことに迷惑をかける人もいます。友達ならある程度の迷惑はかけたり、かけられたりするものです。パンを三つ貸す位のことなら、何でもないかも知れませんが、それを真夜中に借りに行くのは、いささか非常識だと思われます。良識ある者なら、そのようなことは差し控えるでしょう。この当時のパレスチナの普通の庶民の家は、お粗末なもので、一つの部屋に家族全員で寝たのです。真ん中にいろりのようなものがあって、その回りにござのようなものを敷いて、地面にそのまま寝たのです。家族は肩を寄せ合って寝たのです。従って、皆が寝込んだ時に、自分がごそごそ起きて用事をすると、家族全員を起こしてしまいます。そして、朝は早くから起きて仕事をしなければなりません。夜はぐっすり寝る必要がありました。そこでこの友達は、7節のように言いました。
 面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。今ここで起きてごそごそすると、家族全員の睡眠を妨げてしまう。そんな面倒はかけないでくれ、と言うのです。もっともな話です。 普通ならここで引き下がります。多少の迷惑を掛けたりかけられたりするのが友達かも知れませんが、そこにも限度というものがあります。しかし、この男は、なおドアをたたき続けて求めたので、とうとうこの家の主人は根負けして、パンを与えた、というのです。
 この男は、その友達に恐らく、しつこい奴だ、迷惑をかける奴だ、と厭がられたでしょう。恐らく厭な顔をされ、無愛想にパンを貸してもらったことでしょう。それ位なら、一層借りなければよかった、と私達には思えます。
 この男は、なぜ、そんなに厭がられてまでも、真夜中にパンを借りに行ったのでしょうか。
 彼は、5-6節の所で次のように言っています。
 友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。
 実は彼は、自分のためにパンを借りに来たのではありませんでした。彼の所に、遠くから友達が訪ねて来たからでした。その旅人は、夜、彼の所に到着したのです。
 夜中に旅人が訪ねて来るというのもおかしな話しかも知れません。しかしこの時代のパレスチナでは、そういうことも珍しい事ではありませんでした。パレスチナの夏は、昼間はとても暑く、太陽の照っている時、旅をすれば病気になるので、日が沈んでから、夕方に旅をするということがよくありました。ここでの旅人も恐らくそうだったのでしょう。そして、この男の家に夜中に着いてしまったのでしょう。この男も実は、訪ねて来た旅人に大変迷惑をかけられたのでした。しかし彼は、この旅人を迷惑がって追い払うのでなく、家に入れて泊めようとしたのです。それだけでなく、お腹をすかしているこの旅人に食べる物を出そうとしたのです。泊めてやるだけでも十分なのに、その上食事を出そうとしたのです。しかし自分の家に何も出すものがなかったので、真夜中ではありましたが、友達の所にパンを借りに行ったのです。
 この男は何と友達思いでしょうか。こういうのが真の友情というのではないでしょうか。
 しかしこのたとええ話でイエスは、麗しい友情について教えようとされたのではありません。
 このたとえのポイントは、8節にあります。
 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは  何でも与えるであろう。
 ここで言われているのは、明らかに友情ではありません。「友人だからというのでなく、しきりに願うので」とあります。これは、友情の限界を超えた所での神を動かす力とでも言うことができます。熱心な求めということです。あきらめない、ということです。ある場合は、人に迷惑をかけてでも、求めるべきものがあるのです。もちろん、迷惑をかけると言うことは、褒められたものではありませんが。子供を愛する親であれば、自分の子が病気したならば、真夜中であっても、迷惑をかけても、医者をたたき起こしても診てもらうでしょう。
 私達は、このような熱心な、というよりは執拗な求めというのを余りしません。そんなに熱心に求めなくても、大方のものは満たされている、ということもあるかも知れません。あるいは、求めてもかなわないものはかなわない、と簡単に諦めてしまっているのかも知れません。オリンピックでメダルをもらった選手は、しばしば、最後まで諦めなかったのでメダルを取ることができました、と言うことを言っていました。このような執拗な求めは、ある時には必要です。
 イエスはここで、「熱心な求めは必ず聞かれる」と言うことを言っているのです。

 

  2016-09-15 9月14日(水)  全校礼拝

9月14日(水)全校礼拝が行われました。

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讃美歌:471番     

聖書:マタイによる福音書16章21-28節   

題名:「最も大切なもの」

 あるアンケートの調査に、「あなたにとって最も大切なものは何ですか」というのがありました。その答えで一番多かったのは、「健康」と答えた人です。次いで、「毎日を平和に過ごす」というのでした。あるいは、お金と答えた人も多くいたと言うことです。また、命と答えた人もいました。これは、ごく一般的な多くの人の考える幸福です。皆さんだったらなんと答えるでしょうか。健康で、毎日、平和に過ごせたらそれでいい、と考えている人が多いと思います。さらにお金があればなおいいと思うのではないでしょうか。「健康であること」、そして「毎日を平和に過ごす」ことは、それ自体決して間違ったことではないでしょう。
 さて、今日のテクストでは、26節で次のように言われています。
 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。ここでイエスは、全世界を手に入れるよりも、命が大切だ、と言っています。ここで命と訳されているギリシア語は、プシュケー.と言う語ですが、これはまた「魂」とも訳されます。これは単に動物的に生きるという意味での命ではありません。神によって与えられたかけがえのない命です。神の愛のよって与えられたかけがえのないもの、全世界を手に入れるよりも大切なもの、と言えます。「全世界を手に入れる}というのは、所有の極限でしょう。人間は、あれも欲しい、これも欲しい、と思います。そしてその最大のものを全世界で表しているのです。しかしイエスは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」と言われます。人間はあらゆるものを手に入れることができたとしても、命を得ることはできないのです。命は、物によって交換できるものではありません。エーリッヒ・フロムという人の本に『生きるということ』というタイトルの本があります。この原書の題は「持つことかあることか」というものです。すなわち、“to have or to be”というタイトルです。彼は、この本の中で、現代社会においては、人間は「持つ」という在り方になっている、と言います。そして、持つという場合、すべてを物に還元してしまい、生きた関係を損なってしまっている、と言います。それに対して、「ある」ということは、何物にも執着せず、何物にも束縛されず、変化を恐れず、たえず成長する、と言います。それは、一つの固定した型や態度ではなく、流動する過程なのであって、他者との関係においては、与え、分かち合い、関心を共にする生きた関係となる、と言っています。このフロムの主張は、現代の物質文明を批判し、真の人間の在り方を追及しようとしたものです。作家の三浦綾子さんは、生前、結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病などありとあらゆる病気に悩まされた人です。そして、1999年10月に多臓器不全で亡くなりました。彼女は多くの病気に悩まされましたが、健康な人よりももっと生き生きした魂の持主であったように思います。『氷点』という小説を読んだある少女が、主人公と自分の運命を重ね合わせて自殺したことを知った時、今後は人々に生きる希望を与える小説を書こうとした、ということです。そして、事実彼女の小説や随筆を読んで、生きる希望を与えられた人が非常に多くいます。彼女は、あのような病気にかかったので、かえって人に希望を与えるような小説を書けたのかもしれません。『生かされてある日々』という随筆がありますが、病気だったからこそ、生きているのが当たり前ではなくて、神によって生かされているという恵みの思いが強かったのではないでしょうか。彼女は、神から与えられた命(プシュケー)を最も大切にしたように思います。三浦綾子さんは、病弱であったかもしれませんが、魂は健康であったと言うことができるでしょう。私たちには、全世界を手に入れるよりももっと大切なかけがえのない命を神から与えられていることを覚えたいと思います。そしてこの命を有意義に用いていきたいと思います。

 

   9月10日(土) 学校説明会が行われました。

9月10日(土)に中学校・高等学校の学校説明会が行われました。

 

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天気も良く、たくさんの方がご参加くださいました。

 

 

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図書室やアリーナだけでなく、理科室や新設された柔道場なども見て頂きました。

 

 

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最後に食堂で試食して頂き、フリードリンクも楽しんで頂きました。

 

 

次回の学校説明会は10月8日(土)10:00からです
是非、ご参加ください。

 

  2016-09-08 学校説明会の送迎バス運行時間・場所について

<<時間>>
スクールバス乗り場にて随時運行しております。
担当者がご案内致しますので9:05~9:30の間にお越し下さいますようお願い致します。

 

 

<<場所>>
乗車場所は、各線三宮駅から南へ500m進んだ、神戸市役所南側「東遊園地」からフラワーロードを隔てた大和ハウス前となっております。(各線三宮駅から徒歩約6分)

 

乗車場所は以下の通りになっております。
SB地図

SB乗降車位置 

 


 

 

 

   学校説明会について

9月10日(土)に中学校説明会・高等学校説明会が開催されます。
プログラムは以下の通りになっております。
学校説明会

*お願い*
公共交通機関を使ってご来校ください校内に駐車場はございません)。
 なお、9月11日(日)~12日(月)にG7神戸保健大臣会合が開催されます。場合によっては渋滞やバス、ポートライナーの遅延が予想されますので、時間には余裕をもってお越し下さい。

 

 

当日のスクールバス送迎時間については、こちらをご覧下さい。(→スクールバスについて
ご不明な点がございましたら、本校までご連絡下さい。(078-940-1131)

 

  2016-09-06 9月5日(月) 芸術鑑賞会

9月5日(月)に中之島ビッグトップにて芸術鑑賞会を実施しました。
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今年度の芸術鑑賞会の内容はシルク・ドゥ・ソレイユのトーテムでした。

 

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集合場所は駅から遠かったですが集合でき、少し雨が降っていましたが無事に芸術鑑賞会を終えることができました。

 

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お土産も買って大満足のようでした。
雨に濡れた生徒は風邪をひかないように気をつけてくださいね。

 

 

  2016-09-02 9月2日(金) 全校礼拝

全校礼拝が行われました。

2学期からは、職員室内の先生方が交代でお話しをいただく礼拝となりました。
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礼拝の内容は、月・水・金はアリーナにて全体礼拝、火曜日は各教室にて、木曜日は各教室にて放送礼拝という内容になっています。本日の礼拝担当者は伊藤先生でした。今後いろんな先生方からお話しを聞く機会がたくさんあります。楽しみにしていてください!

 

  2016-09-01 平成28年度 2学期始業式

9月1日(木)本学院アリーナにて2学期始業式が行われました。
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また、生徒指導部の先生から歩きスマホに関するお話を聞き、9月5日(月)の芸術鑑賞会(シルク・ドゥ・ソレイユ)に向けての事前指導が行われました。
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明日から授業が始まります。明日からも元気に頑張っていきましょう!

 

  2016-08-03 「みなとこうべ海上花火大会」開催に伴う入館規制について

2016年8月6日(土)に「第46回みなとこうべ海上花火大会」が開催されますが、ポートアイランドには数万人の観客が来られることが予想されています。つきましては、当日に限り危険防止のため、下記のとおり入館規制を行います。皆様のご理解とご協力をお願いいたします。

                  
・入館規制日時 2016年8月6日(土)16:00~
・入館規制区域 夙川学院キャンパス内全域
                         (全館施錠

・そ の 他    館内のセキュリティが作動しています。
           全館消灯しています。
           周辺3大学の通り抜けも出来ません。
                                              以上

 

  2016-07-19 平成28年度 1学期終業式

7月19日(火)本学院アリーナにて1学期終業式が行われました。

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2学期の始業式は9月1日(木)です。
体調管理に気をつけ、夏休みを楽しんでください!

 

  2016-07-15 壮行会・生徒指導講演会

7月15日(金)壮行会・生徒指導講演会が行われました。

 

<壮行会>

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学校長から激励の言葉を頂き、選手代表の体操競技部主将(伊藤さん)から決意とお礼の言葉を聞いた後、全校生徒で校歌を斉唱しました。
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体操競技部、陸上部、ハンドボール部、空手道部、柔道部、水泳部、バレーボール部、バドミントン部の選手たちが壇上に上がりました。
総体や選手権大会では良い結果が出るようにがんばってください!

 

 

<生徒指導講演会>

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生徒指導講演会では、インターネット利用に伴うトラブルなどの事例とその予防対策についてパワーポイントとビデオを使って紹介して頂きました。

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私たちが毎日使う携帯電話のトラブルであり、ネット上の怖さを再確認できたと思います。
今日学んだことをしっかり頭に入れてトラブルに巻き込まれないようにしておきましょう。

 

   7月13日(水) 全校礼拝

7月13日(水)全校礼拝が行われました。

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讃美歌:493番     

聖書:マタイによる福音書7章7-12節   

題名:「求めなさい」

 

私たちにとって、探求心というのは、非常に大事だと思います。

 今お読みしましたマタイによる福音書7章7節には、求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。とありました。この聖句は、夙川学院の1階の廊下に習字の掛け軸にありますので、是非ご覧になって下さい。これは非常によく知られている言葉ではないでしょうか。キリスト教を知らない人でも、この言葉を知っている、と言う人も多いのではないでしょうか。これは、一生懸命探求すれば必ず与えられるというふうに解釈されて、多くの人の心に留められているのではないでしょうか。
 ここでイエスは、単なる処世訓を言っているのでありませんが、しかし私たちが神に一生懸命求めるならば、神は必ずそれを与えて下さる、ということを言っているのです。皆さんは、勉強やスポーツにおいて、大いに探究心をもって頂きたいと思います。
 それでは、私たちはどんなことを求めても神は与えて下さるのでしょうか。例えば、自分の嫌いな人が不幸になることを求めても、神はそれに答えてくれるのでしょうか。恐らくそんな自己中心的な求めには答えてくれないでしょう。「求める」という場合、自分のことだけを求めるなら、それは自己中心的になり、他の人を苦しめるという結果になりかねません。そこで、イエスは、相手の立場に立って考えるべきだとして、12節に於いて、次のように言われました。
  だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。宮沢賢治は、「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と言いました。自分の幸福が他の人を不幸にしているということがよくあります。戦争なんかはそうでしょう。こちらが勝利すれば、相手は不幸になっている訳です。自分が何かを求める時、他の人も同じ求めをもっている、と言うことです。イエスが教えた「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という言葉は、一般に「黄金律」(Golden Rule)と言われています。その名の通り、最も高い人間の倫理でしょう。もしすべての人がこれをすることが出来れば、世の中は幸福になると思います。これと同じような教えは他の宗教にもあります。例えば、孔子は論語の中で、「己の欲せざるところは、人に施すなかれ」と教えました。これは、儒教の教えとして、日本人にも深く浸透しているのではないでしょうか。親が子によく言うことは、「とにかく、人に迷惑をかけないように」と言うことではないでしょうか。ユダヤ教のタルムードに於いてもこの論語の言葉とよく似たものがあります。「あなたの望まぬことを、あなたの隣人に対してしてはならない。これが法のすべてである」という言葉です。いずれも、自分にとって厭なことを他人にしてはならない、という教えです。これは重要なことであり、人間が社会生活を営んでいく時には守らねばならない基本的なことでしょう。
 しかし、イエスの教えた黄金律は、これと少し違います。すなわち、自分にとって厭なことを他人にするなというのは、少し消極的な態度です。他人に迷惑にならないように、当たり障りのない生き方をする、ということになります。これに対してイエスの「人にしてもらいたいことは、人にもしなさい」というのは積極的な態度です。しかし、それは中々困難なことです。イエスの姿勢は、人に求める前に、自らがその人になしていく、というものです。もし、人に信用されたいと思うなら、自分がまずその人を信用することです。相手を心の底から信用していないのに、どうして相手から信用されるでしょうか。もし、友達に愛されたいと思うなら、まず自分が本当にその友達を愛していくことです。人に尊重されたいと思うなら、自分がまずその人を尊重することです。イエスはまさにこれを行われたのです。しかし、私たちには、中々そのことは難しいのです。どうしても、自分中心的な求めになりがちです。
 そこで7節にかえって、「求めよ」というのは、この黄金律に従うことの出来るようなあり方を求めよ、ということではないでしょうか。私たちのいろんなことを求める探求心は、非常に重要ですが、それが自分だけのものとなるのでなく、他の人のことも考える心を持ちたいと思います。

 

  2016-06-29 6月29日(水) 全校礼拝

6月29日(水)全校礼拝が実施されました。
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讃美歌 18番(1,2番)

聖書:ローマの信徒への手紙5章1-5節   

「希望に生きる」

 皆さんは、何か困ったことや苦しいことに遭遇した場合どうされますか。普段信仰心がない人でも、そういう時には神や仏に祈ったりと言うことはないでしょうか。 「困った時の神だのみ」という言葉があります。普通宗教を求めるという場合、何か困った事が起こった時、苦しいことが起こった時に、それを取り除いて貰おうとして求める、ということが多いのではないでしょうか。普段は宗教には無関心であっても、苦しい事が起こった時に、神や仏に頼ろうとする人がいます。そして普通の宗教は、信仰すればこういう悩みを取り除きます、ということを言うのではないでしょうか。そういうものからは、聖書の言葉は少し理解出来にくい所があるかも知れません。
 先程読んだローマの信徒への手紙5章3節で、パウロは「苦難をも誇りとします」と言っています。しかい、苦難は、私達にとっては、決して歓迎すべきものではないでしょう。少なくとも、それを誇りにしたりするものではないでしょう。そういう事態は出来るだけ避けたいし、もし起こっても出来るだけ早く取り除いて欲しい、と思うものではないでしょうか。そして、そのために神仏に願ったりするのです。苦難を誇れという宗教は余りないと思います。
 しかしここでパウロは、「苦難をも誇りとします」と言っています。しかし、パウロは、この苦難を成功することの手段と考えているのではありません。苦難をステップにして何か成功しようというのではありません。かと言って、苦難それ自体を喜んでいるのでもありません。そうではなく、その苦難はそれに終わらず、希望へと通じていることを信じているからです。それは、神を信じ神に委ねることから与えられる希望です。人間、希望に生きることが、いかに大きな力を与えてくれるか、ということが分かります。
 希望を持って生きた一人の人のことを話します。それは、『夜と霧』という本を書いた心理学者のフランクルという人です。彼はユダヤ人ということで、第二次世界大戦の時、ドイツのナチスに捕らえられ、強制収容所に送られました。そこに於いては、過酷な条件のもとに多くのユダヤ人が死んでいきました。しかし、そのような過酷な条件の中にあっても死なずに生きていた人(自分もその一人でしたが)は、必ずしも肉体的に頑強な人ではなく、何かの希望を持っていた人であった、と言います。例えば、「今晩の食事には何が与えられるだろうか」というようなささいなことを連想するのです。ほんの些細な希望ですが、極限状況の中でそのようなことを考えることが生きる力になった、というのです。何の希望も持てなかった人は死んでいった、というのです。1944年のクリスマスが済んだ時に大勢の人が死んでいった、と言います。それは、彼らはクリスマスに家に帰れるという当てもない期待を抱いていたのですが、それが実現しなかったので、希望が挫かれ、気力も失われてしまった、と言うのです。フランクルは、心理学者として、それを冷静に観察し、希望を持っている時は病気に対する抵抗力を高めたが、それが失望になると抵抗力を低下させ、ついには死に至らせた、と言います。
 このローマの信徒への手紙を書いたパウロという人も、実にいろいろな苦難に遭遇しましたが、その苦難自体を見て絶望的な思いを抱くのでなく、その苦難は忍耐を通して、希望へとつながっていることを確信したがゆえに、大きな働きをなすことが出来たのです。苦難を経験しない人はいないと思います。私たちも長い人生の中に置いて、多かれ少なかれ何らかの苦難に遭遇します。あるいは皆さんの中にも、現在何らかの苦難を抱いている人もいるかも知れません。その時に、絶望に打ちひしがれてしまうのでなく、忍耐をしつつ、その中になんらかの希望を見いだすなら、それは大きな力となります。どんなときにも希望を抱くことが大切です。希望に生きる者でありたいと思います。

 

  2016-06-24 6月22日(水)全校礼拝

6月22日(水)全校礼拝が実施されました。

讃美歌 60番 (1、2番)
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聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12節~26節  
題名:「違いを大切に」  
夙川学院宗教主事 樋口 進 牧師

私たちは自分たちとは違った者に対して偏見を持つと言うことはないでしょうか。例えば、外国人に対してとか。今、ヨーロッパでは、シリアからの難民が大勢移動しています。これに対して、ドイツは難民を喜んで受け入れていますが、他の国ではそうではなく、むしろ排除しています。一方では、違いを排除する、一方では違いを受け入れるという態度です。今のイギリスでEUから離脱するか、残留するかで、国民投票をするということで話題になっていますが、それも移民の問題が大きいといわれています。
 さて、人間はいろんな違いがあります。そのとき大切なのは、そういう違いのある人々をよく理解し、そして尊重しなければならないということです。いろいろな国々や、いろいろな人種や、いろいろな宗教には、それぞれ違いがあります。人間、違いがある時には、違和感を覚えるのではないでしょうか。ある場合は、理解できない、ということが起こるのではないでしょうか。違和感を覚え、そして理解できない、ということになると、それを排除しようとするのではないでしょうか。そういう所から、民族間の紛争が起こったり、国と国との戦争が起こったり、それが極端になれば、ジェノサイド(大量殺りく)ということも起こります。その極端な例は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺でしょう。アンティ・セミティズムといって、ユダヤ民族は優秀なゲルマン民族とは違うのだ、と言って排除したのです。それで、600万人ものユダヤ人を虐殺していったのです。これは、極端な例ですが、しかし人間、違う人間に対しては、それを排除しようとする傾向があります。違いを理解し、それを尊重するということは、難しいことかも知れません。しかし、今のドイツは、過去の民族差別の反省から、差別のない世界になっているという印象を受けます。わたしは、6年ほど前に、ドイツで1年間在外研究をしました。ハイデルベルクという中世のお城で有名な所で、人気の観光地でもあります。ドイツでは、多くの人は、ナチスの時代の排外主義の反省から、外国人に対しては非常に寛容である、と言う印象を受けました。わたしのようなアジア人に対しても、何ら偏見なく接してくれました。
 先ほど、読んだのは、コリントの信徒への手紙で、これはパウロという人が、ギリシャのコリントという町の教会に送った手紙です。リントという町は、港町で、当時はいろんな人が出入りする国際的な町でした。そこで、コリントの教会に集まっていた人もいろんな人がいたようです。そして、この手紙から察する所、違った人には、違和感を持ったり、偏見を持ったり、排除しようとすることもあったようです。そういう人に対して、パウロは体の部分という比喩でもって、お互い理解し合い、また尊重し合うように勧めています。人間の体は、実にいろいろな部分からなっています。一つ一つはそれぞれ違いがあります。しかし、それらが合わさって、一つの調和の取れた体となる訳です。そしてそれらは、違いはありますが、不必要な物はないのです。また、優劣もないと思います。優劣となると、それは排除の論理になります。ここで、パウロは、「目が手に向かって、『お前は要らない』とはいえず、また頭が足に向かって『お前は要らない』とも言えません。」と言っています。違いにのみ目を向けると、また優劣ということになると、『お前は要らない』ということになります。かつてのナチス・ドイツは、そういう論理で「ユダヤ人はいらない」として虐殺したのです。また、かつての日本も、大和民族は優秀だということで、東南アジアに侵略した歴史があります。さらにパウロは、22節で、「それどころか、体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」と言っています。これは、優劣の考え、排除の論理とは逆です。さらにパウロは、26節で、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と言っています。このような精神が、「違いを大切にする」という精神が大切ではないでしょうか。スマップの「世界に一つだけの花」は、店先に並んだ花はみんな違うけれども、みな素晴らしいんだ、という趣旨で、このパウロの「違いを大切にする」の精神とよく似ていると思います。

 

  2016-06-21 6月20日(月)花の日礼拝

6月20日(月)5限目に花の日礼拝が実施されました。
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聖書:ルカによる福音書12章22-31節    

讃美歌:60番、575番、27番

題名:「野原の花」

 今日は、「花の日」です。
そこで前に飾られている美しい花を見ながら礼拝をします。私達は、花を見る時、何を感じるでしょうか。ただ奇麗だ、素晴らしい、というだけではありません。それは、神から私達に与えられたプレゼントであります。そこで、この花の日の礼拝において、私達は神の私達に対する愛に思いを馳せたいもと思います。花は、神が私達に下さった、素晴らしいプレゼントのひとつです。もし、この世に花がなければ、と言うことを想像してみてください。それは何と寂しいことでしょう。病気で入院している人にとって、花は大きな慰めとなります。職場における花は、仕事の疲れを癒してくれます。食卓に一輪の花があると、食事を一層おいしくさせます。道路に花が植えられていると、楽しい気分になります。また、礼拝においても、花は欠かすことの出来ない重要な要素です。結婚式における花は、新しいカップルを祝福するのにふさわしいものです。また、お葬式の時の花は、悲しみにある人を慰めます。私達は、生活のあらゆるところで、花によって喜びが与えられ、慰めが与えられ、力が与えられ、夢が与えられます。
 しかし、花の最も重要な働きは、私達に神の愛を教えてくれることです。星野富弘は、『風の旅』という本の中で、次のような詩を作っています。

  「花が上を向いて咲いている私は上を向いてねているあたりまえのことだけれど神様の深い愛を感じる」
この短い詩の中に、実に深い真理が言われていると思います。この星野富弘という人は、皆さんよくご存じだと思いますが、高校の体育の教師になって2か月後に、宙返りに失敗して、首の骨を負傷し、首から下がすべて麻痺してしまい、以来、寝たきりの生活になりました。この星野さんが、たったひとつ動く口を使って、病床で花を描いたのです。そして、先程引用した詩のように、花を見ることによって、神の深い愛を知った、というのです。そして彼は、後に洗礼を受けて、クリスチャンになりました。これは、まさに、神が花を通して、星野さんに神の愛を知らせたように思われます。
 さて、今日お読み頂いた所は、イエスが話をされた記事です。周りには、奇麗な花が沢山咲いていたことでしょう。イエスは、その花を見ながら、神の愛、神がいかに私達を養って下さるかを教えられました。今日の所に、「思い悩むな」という事が繰り返し言われています。25ー34節の間に、4回も出てきます。それだけ、私達は常日頃思い悩むことが多い、ということでしょう。「思い悩む」と訳されているギリシア語は、メリムナという語で、これは人間の奥深く抱いている心配、懸念、悩みを意味しています。私達は、常日頃、生活上のことで、色々思い悩みます。皆さんもきっと、いろいろなことに思い悩む時があると思います。もしも、この思い悩むということから解放されたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。
 しかし、現実は、というと、私達は、常に思い悩んでいるのです。職場での仕事のこと、人間関係、子供の教育のこと、病気に対する不安、老後の不安、皆さんだったら学校の成績、受験、就職、異性の問題、家庭のこと、友達との関係など、数えあげればきりがありません。私達は、絶えず、このような問題に思い悩んでいるのです。
 そして、この思い悩むというのは、昔からそうでした。ただ、現代は、思い悩ませる原因が実に多い、ということは言えるでしょう。
 古代においては、ここにあるように何と言っても食べること、着ることなど、明日をどう生きるか、という生活のことが多かったでしょう。
 釈迦は、生老病死ということを言いました。すなわち、生きていくことにおいても、老けていくことにおいても、病気になること、死ぬこと、これらは人生における苦しみだ、と言うのです。
 イエスは、ここで、食べ物とか着物のことで思い悩むな、と言っています。衣、食、住は、人間の生活において最も重要なことです。イエスは、ここで、食べ物とか着物はどうでもいいのだ、断食して、裸で暮らせ、と言っているのではありません。31節には、次のようにあります。
  ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。最優先するのは、神の国である、ということです。すると、私達に必要な物はすべて加えて与えられる、と言っています。私達がまず求めなければならないのは、神であって、食べ物や着物は、神の恵みとして与えられるものです。与え賜う神を忘れ、与えられる物にのみ目を向けるのは、本末転倒です。
 22-23節には次のようにあります。
  だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着よう  かと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。食べるのは、自分の命を保つためです。ところが、食物と自分の命とでは、命の方が大切です。そして、この命は、神に与えられたものです。旧約聖書の創世記2章のところには、神は土のちりで人を造り、それに命の息を吹き入れられた、ということが言われています。即ち、私達は、神によって命が与えられたのです。そして、神は私達を気まぐれに造られたのではありません。一人ひとりをかけがえのない者として、造られたのです。そうであるならば、この命を保つために食物も与えてくれないはずはありません。
 また、衣服は体を保護するものです。ところが衣服と体とでは、体の方が大切です。そしてこの体は、神から与えられたものです。神が大切な体を与えて下さったのです。そうであるならば、この体を保護するための衣服も与えて下さらないはずはありません。最初の人アダムとエバが「禁断の木の実」を食べて、楽園を追放された時にも、神はこの二人に皮の着物を造って着せられた、とあります。神に反逆した者にも、神は着物を与えて、守って下さったのです。そのように、神は私達を豊かに養って下さっているのです。私達は、心が鈍いために、あるいは本質的なことを考えないために、その神の保護に気付かないでいるだけです。
 イエスは、ここで、烏と野原の花で、そのことを教えようとされたのです。イエスは、ここで、自然を通して、神の愛を教えようとされたのです。実にイエスは、偉大な教師であったことが分かります。イエスは、この教えを大自然の中で語られました。周りには、鳥が飛びかっていたでしょうし、また奇麗な花が一面に咲いていたことでしょう。このような、だれにでも身近なものによって、神の深い愛を教えられたのです。烏も、野原の花も、神の創造されたものです。しかし、人間は、それらの被造物のなかで、最も大切なものとして造られました。神は、烏さえ養っているのだから、最も大切なものとして造られた、人間をそれ以上養って下さらないはずはない、と主イエスは言うのです。
 27-28節には、次のようにあります。
  野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。  しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに  も着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草  でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさ  らのことである。信仰の薄い者たちよ。
ここで「野原の花」と訳されているのは、クリノンというギリシア語です。かつては、「野の百合」と訳されていました。「百合」だとか、「アネモネ」だとか「グラジオラス」のことだ、と言われていますが、主イエスは、恐らくここでは、特定の花をさして言っているのでなく、ガリラヤの野に自然に咲いていた美しい花を総称して言っているのでしょう。しかしこれは、非常に美しく咲きますが、すぐに枯れてしまいます。しかし、ソロモンの衣服さえ、これほど美しくはなかった、と言います。ソロモンは、紀元前10世紀のイスラエルの王で、この時代がイスラエルは最も栄えました。「ソロモンの栄華」と言われているように、ソロモンは贅沢の限りを尽くした王でした。その宮殿は、絢爛豪華であり、アラビア(今のイエメンですが)から訪ねて来たシバの女王は、その豪華さに、全く気を奪われてしまった、と言われています。しかし、ソロモンの華麗な衣でさえ、このガリラヤの野原の花よりも美しくなかった、とイエスは言います。権力と財力の限りをつくして誇示したものには限界があります。神がこのように野原の花に与えてくれる美しさを考える時、同じ神が、神のかたちにかたどって創造された人間をより大切に養って下さらないはずはありません。私達は、神がこのように私達を大切に養って下さっていることに気づかない時、思い悩み、不平を抱き、不満を持つのです。そういう私達に、イエスは、「ああ、信仰の薄い者たちよ」と言われます。
 29-30節には、次のようにあります。
  あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである生活についての思い悩みは、現状の不満から来ます。しかし、不満を並べたてたところで何になるでしょうか。それは、新たな思い悩みにしかならなりません。
 25節には、次のようにあります。
  あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも  延ばすことができようか。
ここでイエスの言っているのは、思い悩みは、全く無益である、ということです。不満が起こるのは、状況が、境遇が、そうさせるのでしょうか。そういう場合もあるかも知れません。何ひとつ不満のないようの状況の人でも不平ばかり言っている人もいます。また逆に、本当に不幸な状況に置かれた人でも、感謝の生活を送っている人もいます。先程の星野富弘は、不治の病になってかえって神の愛を知るようになった、もし自分が健康で普通の生活をしていれば、一生神の愛を知らずに過ごしたかも知れない、と言っています。しかし、同じ状況に置かれても、神の愛を知らない者にとっては、それは不満に思い、神の愛を知る者には、それが感謝となります。同じ人生を歩むのであれば、不平、不満の人生よりは、喜びと感謝の人生の方がいいでしょう。デンマークの哲学者キエルケゴールは、「すべてこの世的な思い煩いは、人間が他の者との比較に悩みつつ、何とかして、自分が特別な者になろうともがき努めることに原因を持つ」と言っています。
 私達が、野原の花を見て教えられるのは、そのような他人と比較して自分がどうこうと思い悩むのでなく、創造者なる神が、常に私達を愛し、豊かに養って下さっている、ということです。私達は、ちょっとしたことにすぐに思い悩んだり、不平を述べたりするのでなく、神の養いを思い、自分に与えられた道を喜び、感謝出来る者になりたいと思います。この花の日礼拝において、わたしたちは、野原の花を美しく咲かせて下さる神の配慮に心を馳せると共に、それ以上に配慮して下さる神の愛に目を向け、感謝をしたいと思います。

 

  2016-06-20 6月15日(水) 全校礼拝

6月15日(水)全校礼拝が行われました。

讃美歌 575番 (1、2番)
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聖書:コリントの信徒への手紙一13章1-13  
題名:「愛とは」

  
夙川学院宗教主事 樋口 進 牧師

この言葉は、1号館1階の101教室(チャペル兼用教室)の廊下の十字架の右にある掛け軸に書かれて、有名な句です。キリスト教にとって、重要な三つのことです。これは略して「信・望・愛」と言います。皆さんにとって一番大事なものは何でしょうか。高度な知識を身につけること、友達、趣味、いろんなことがあると思います。しかし、人生においてもっとも大事なことは何でしょうか。そして、礼拝において、そのようなヒントが与えられるのではないかと思います。そして、聖書の言葉の中にその示唆を与えられるかも知れません。この建物の廊下には、有名な聖書のことが書かれた掛け軸がたくさんかけられています。

それらを読んでみてください。このコリントの信徒への手紙一は、パウロというキリスト教を伝道した人が旅の途上で書いたものです。そしてパウロはここで、私たち人間にとってもっとも大事なのは、信仰と希望と愛である、と言っています。恐らくパウロは人生にとって最も大切なものが、この信仰、希望、愛と思ったのでしょう。これらは決してお金で買えるものではありません。ですから、わたしたちが所有するものではありません。本当に大切なものは、お金で買えるものではありません。そして、目に見えるものでもありません。愛にしても、信仰にしても、希望にしても、真心にしても、親切にしても、優しさにしても、勇気にしても、喜びにしてもそうです。そしてパウロは、その中でも最も大いなるものは愛である、と言っています。8節には、「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」とあります。ここに「知識は廃れよう」とあります。これは日々実感するものです。特に最近の科学技術の発達は目覚ましいものがあり、私たちが学生の頃には想像もしなかったようなものが次々と現れています。パソコン一つにしても、今の学生でパソコンの使えない人は恐らくいないと思いますが、私たちが学生の頃は自分のコンピューターがもてるなどとは夢にも思いませんでした。知識を身につけるということはもちろん大切なことですが、せっかく身につけた知識もいつかは廃れるということもまた事実です。しかし、パウロは、人生を生きていく上で、廃れないもの、永遠のもの、本当に価値のあるものもある、と言います。そして聖書は、その本当に価値のあるものを私たちに示してくれます。しかし、実際のこの世の歩みにおいては、どれが永遠のものか、どれが本当に価値のあるものかは、目先のものにごまかされて分からないのです。鏡に映すように、おぼろにしか見えないので、どれが本当のものかみ分けがつかないのです。しかし、信仰によって、本当に価値のあるものに目が開かれていくのです。私たちにとって、本当に価値のあるものは、やがて廃れてしまうのではなく、いつまでも残るものです。「最も大切なものは何か」ということは、それぞれ違うと思いますが、それを探求することも皆さん方の課題だと思います。そしてそれは、信仰と希望と愛である、とパウロはいいます。そして、その中でも最も大切なものは、愛だと言います。このコリントの信徒への手紙一13章は、「愛の賛歌」と言われています。キリスト教式の結婚式では、よく読まれる箇所です。
ここの4-7節を読んでみます。
  愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
   礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
   不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
   すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
ここの「愛は」を「愛のある人は」に置き換えてみるといいかもしれません。また、これを「わたしは」におきかえることができれば、とてもいい人生を歩むことができるのではないでしょうか。

 

  2016-06-09 6月8日(水)全校礼拝

6月8日(水)全校礼拝が行われました。

讃美歌 575番 (1、2番)
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聖書:マルコによる福音書10章42-44節  
題名:「仕える者になる」  
夙川学院宗教主事 樋口 進 牧師

 

お読みした聖書の箇所は、イエスの弟子のゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスにお願をしたという記事です。
このヤコブとヨハネの兄弟は、イエスの十二弟子の中ではペトロに次いで重要な人物でした。
 さて、このヤコブとヨハネの兄弟は、常にイエスのそばに仕えていたので、イエスが栄光を受ける時、すなわち、この世の支配者になる時に、彼らは最も高い地位につくことを期待したのです。
 さて、この二人の願いを聞かれたイエスは、非常に悲しまれました。
また、このヤコブとヨハネの願いを聞いた他の弟子たちは皆、腹を立てたというのです。
41節には、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とあります。他の10人の者が何故腹を立てたかというと、彼らも実は同じことを願っていたからでしょう。
彼らは決して、イエスの思いに立って腹を立てたのではありません。
そうではなく、自分たちも同じ思いをもっており、それを二人に先を越されたという思いからでした。
そこでイエスは、御自分が何のためにこの世に来られたかということを弟子たちに教えられました。
42節には、次のようにあります。
  そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
異邦人の支配者というのは、ここではローマ帝国の支配者のことです。彼らは支配している国の民の上に権力を振るっていました。これは当時のユダヤ人が日頃実感していたことです。当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあり、特に重税で苦しんでいました。このような帝国の支配者は、被支配国に権力を振るって、自分の欲を満たしていたのです。すなわち、被支配国から富を吸い上げて、例えば自分の宮殿を建てるといったことをしていたのです。これがこの世の権力者の常の姿です。しかしその反面、権力者に支配されている人々は、非常に苦しい生活を強いられていました。権力を求めるということは、そのような非常に苦しい立場の人々を作り出すということなのです。
 そのように、権力を志向することが神の御旨でないことは、弟子たちも分かっていたはずです。しかし、現実には、弟子たちもやはり人間であり、イエスがただの人でないことが分かると、権力の座について欲しいと願ったのです。
そしてその暁には、自分が最も高い地位につけてもらいたい、と思ったのです。そして他の弟子たちも同じ思いをもったので、互いに相手のことに腹を立てたのです。しかしイエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」と言われます。この世ではそうであるかも知れないが、「あなたがたの間では」そうであってはならない、と言うのです。
 そして、次のように教えられました。
43-44節。
  しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。そしてイエスは自らこれを行われました。すなわち、イエスは最後の晩餐の席で、自ら弟子たちの足を洗われたのです。45節には、次のようにあります。
  人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエスは、人々から仕えられるためにこのように来られたのではなく、人々に仕えるためだ、と言うのです。そして、この仕えるというのは、聖書では、神に仕え人に仕えると教えています。自分の欲を満たすためではなく、人々のために働くと言うことが大切です。これは、イエスの教えられた「奉仕の精神」です。マザー・テレサは、インドにおいて、僕となっての貧しい人のために働きましたが、これはイエスの教えた「奉仕の精神」を実践したのです。わたしたちも、自分の欲のためだけに働くのでなく、人々のために働く人になりたいと思います。

 

  2016-06-04 6月1日(水)全校礼拝

6月1日(水)全校礼拝が行われました。

讃美歌 60番 (1、2番)
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聖書:ルカによる福音書12章16-20節  
題名:「いのちについて」  
夙川学院宗教主事 樋口 進 牧師

 

 今日は、皆さんと共に、“いのち”ということを考えてみたいと思います。
現在私たちは、「生きて」います。
それは、“いのち”が与えられているからです。
しかし、この“いのち”は、いつかは取り去られるものです。
人間は、すべて死すべき存在です。
これは誰も避けることのできない厳粛な事実です。
この点に関しては、人間はすべて平等だと思います。
どんなに財産があっても、どんなに知恵があっても、どんなに権力があっても、死を免れることのできる人はいません。
昔、秦の始皇帝は、自分の権力と財力でもって何とか自分の命を延ばそうとして、部下に不老不死の薬を全世界に探しに行かせたということですが、それは叶いませんでした。
死はすべての人に平等に訪れます。
そしてその時は、誰にも分からないのです。
弱々しそうな人が意外に長生きすることもありますし、元気はつらつとしていた人があるとき突然死ぬこともあります。
いつ命が奪われるかは分かりませんが、分かっていることは、私たちはいつかは“いのち”が取り去られる日がある、ということです。
この“いのち”は、私たちにはどうすることもできないものなのです。
私たちは、神によってこの“いのち”を与えられて、ある期間この世に生きますが、しかしいつかはこの“いのち”は神によって取り去られるのです。
それ故私たちは、この“いのち”に関しては、厳粛にならざるを得ません。
 そして重要なことは、この“いのち”を与えて下さった神との関係に生きる、ということではないでしょうか。
“いのち”の主は私たちではなく、神である、ということです。
 先ほどお読みしましたルカによる福音書に於いて、イエスは「愚かな金持ちのたとえ」をされました。
この金持ちは、自分の畑に沢山の作物ができたので、これを大きな倉に入れて、この後何年も生きていくことができる、と思ったのです。
その時神は、20節のように言われました。
  「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、  いったいだれのものになるのか」
この金持ちの農園主は、“いのち”の主は自分であると考えていたのです。
多くの財産をもったので、いくらでも生きられると思ったのです。
しかし、“いのち”の主は、人間ではなく、神なのです。
私たちの“いのち”は、この“いのち”の主である神によって与えられたのです。
そして、“いのち”の主は、また私たちから“いのち”を取り去ることもできるのです。
ここで“いのち”と訳されている語は、ギリシア語ではプシュケーと言います。これはまた「魂」とも訳されます。
これは単に動物的に生きるという意味での生命ではありません。
もちろんそれも含みますが、その根本は、神との関係における本来の人間の
“いのち”です。
この農園主は、沢山の食料を蓄えて、ただ動物的に生きることだけしか見えなかったのです。
そこには、その“いのち”が神から与えられたものという意識は全くありません。
私たちの“いのち”が、神から与えられたものと認識するならば、その“いのち”を与えて下さった神との関係に生きることが大切です。
神との関係に生きるということは、他の人との関係に生きるということでもあります。
この金持ちの農園主は、自分は沢山の食料が収穫できて何年でも贅沢に暮らすことができると喜んでいますが、食料にもありつけない貧しい人のことは何も思わないのです。
 “いのち”が神から与えられたものだと意識するなら、自分の“いのち”だけでなく、他の人の“いのち”も大切にします。
外面的な命ではなく、内面的な命、といっていいと思います。
外面的な体は至って健康であっても、内面的な魂が死んだようになっている人もいます。
私たちは、一番大切な“いのち”を神から与えられているということを認識して、それを内面的に大切にして生きていきたいと思います。

 

  2016-06-01 夙川学院スポーツ棟 竣工式

夙川学院スポーツ棟 竣工式が行われました。

夙川学院高等学校において、スポーツ棟完成における竣工式が行われました。

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◇前奏
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◇讃美歌210
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1 きよきところをつくれよと、
  あまつみかみの のたまいたし
  むかしの日より 今もなお
  み民にそえる めぐみかな。

2 めぐみの父の 住みたもう
  きよき宮居を きょうここに
  また見ることの たのしさよ
  いく千代かけて かわらざれ


◇聖書 詩篇126編5-6節
  涙と共に種を蒔く人は
  喜びの歌と共に刈り入れる。
  種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
  束ねた穂を背負い
  喜びの歌をうたいながら帰ってくる。


◇祈り
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◇感謝
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◇頌栄541
  父、み子、みたまの
  おおみかみに、
  ときわにたえせず
  みさかえあれ。


◇祝祷
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◇後奏
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このスポーツ棟は本校の体育、ダンスの授業での使用はもちろん、部活動としては柔道部や空手道部の練習場所となっております。

◇リズム室                             ◇柔道場

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◇空手道場

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  2016-05-20 参観ウィーク5日目

参観ウィーク5日目になりました。

本日の授業風景をご紹介いたします。


中学2年生 桜組(歴史)
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中学3年生 桜組(体育)
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高校1年生 菊組(音楽選択)
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高校1年生 萩組(数学A)
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高校2年生 美術科(情報デザイン)
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高校3年生 桜組(地学基礎)
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高校3年生 梅組(家庭総合)
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参観ウィークは本日が最終日でした。
たくさんの保護者の方の御来校、アンケートのご協力ありがとうございました。

 

  2016-05-19 5月18日(水)全校礼拝

5月18日(水)全校礼拝が行われました。

讃美歌 18番(1、2番)
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聖書 ルカによる福音書10章25-37節
メッセージ「隣人とは」
学院宗教主事 樋口 進 牧師

 

今日読んだ聖書は、イエスがされた「よいサマリア人のたとえ」と言われています。
ここに登場する律法の専門家は、イエスに、旧約聖書の中でどの教えが最も大切か、ということを問うたのです。
しかしイエスは、その問いを律法の専門家自身に答えさせています。
そしてその答えは、27節にあるように、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」ということでした。
これは、大正解でした。当時の法律の試験では、100点満点でした。
しかし、イエスはここで、正解を知っていても、それを実行しなければ何にもならない、ということを問題にされたのです。
「隣人を自分のように愛しなさい」ということを教えるために、この「よいサマリア人のたとえ」をされたのです。
ある人が旅の途中に追いはぎに襲われて半殺しにされ、道に倒れていました。
そこに三人の人が通りかかりました。最初に通りかかったのは祭司でした。
祭司は、神の教えで最も大切なものは何か、ということをよく知っていました。
しかし、強盗に襲われて苦しんでいる人を見たのですが、何も助けずに、道の向こう側と通って行ってしまいました。
何か急ぎの用があったのかもしれませんが、恐らく誰も見ていなかったので助けなかったのでしょう。次に来たのは、レビ人でした。
レビ人というのは、神殿に仕える人で、これも神の教えで最も大切なものをよく知っており、むしろ人々にそれを教えていた人です。
しかし、この人も、倒れている旅人を見ましたが、見ないふりをして通り過ぎて行きました。
この人たちは、恐らく、ややこしいことには関わりたくない、といった気持ちから見て見ぬふりをしたのではないでしょうか。
普段は、苦しんでいる人たちを助けなければならないということをよく知っていたし、そういうことを教えていたのですが。
わたしたちの身近においてもしばしばこのような事件が起こります。
時々新聞なんかで見ますが、誰かが道路に倒れていて、大勢の人が通っているのに誰一人助けようとしない、また誰一人救急車を呼んだり、人に知らせたりしない。
皆、そのうち誰かが知らせてくれるだろうと思って、自分のために急いでいた。
そのような無関心が、都会の真ん中で起こっていた、という報道です。
しかし、わたしたちも、ややこしいことに関わりたくない、という思いはあるのではないでしょうか。特に、関わっても自分に何のメリットもない、と思われる時には。わたしたちは、親切にする相手が自分にとって有利な人であれば親切にするが、そうでないと思われる人に対しては、煩わしいと思うのではないでしょうか。まして、普段憎たらしいと思っている人に対しては、たとえ相手が困っていてもなかなか手をさしのべません。
さて、3番目に通りかかったのは、サマリア人でした。
このサマリア人というのは、当時、倒れているユダヤ人とは犬猿の仲でした。
しばしば敵対関係にありました。
ですから、このサマリア人が倒れているユダヤ人を見て助けたいとは思わず、通り過ぎてもよかったのです。
ところが、このサマリア人は、「その人を見て憐れに思った」とあります。
たとえ、普段は仲が悪くても、半殺しにされて苦しんでいる人を見た場合、「憐れに思う」のは、人間の自然な感情ではないでしょうか。
しかし彼は、それだけではなく、親切に介抱し、また宿屋に連れて行き、デナリオン銀貨2枚を支払った、というのです。
そして、イエスは、律法の専門家に「誰が隣人になったか」と尋ねました。
すると、彼は、「その人を助けた人です」と答えました。
まさに正しい答えであり、この律法の専門家は、聖書の根本的な意味を十分理解していた、ということになります。
しかし、人を愛すると言うことは、論ずるのは易しいですが、行うのは実は非常に難しいのです。
それは、人間は、自分中心だからです。
相手の立場に立って考えるということがなかなかできないからです。
イエスは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」ということを言われました。そして、イエス自らこのことを行いました。
「隣人を愛する」というのは、その人と関わると言うことです。
その人に関心を持つと言うことです。
その人を無視しない、ということです。
マザー・テレサは、一番いけないのは、無関心になることだ、と言いました。倒れている人を見た場合、見たということで、その人の隣人となっているのです。そして、関心を持つと言うことは、その人に手をさしのべると言うことです。無関心にするのでなく、無視するのでなく。
そんな大それたことをしなくても、まずは関心を持つと言うことが大切です。大地震で苦しんでいる人の報道をテレビで見たならば、そのときにその人の隣人となっているのです。
だからといって熊本までボランティアに行かなくても、関心を持つ、自分に何ができるか考えること、募金に協力すること、その人のために祈るということでも、小さな「隣人を愛する」行為なのです。
大事なのは、関心を持つこと無視しないことです。

 

  2016-05-18 参観ウィーク3日目

参観ウィーク3日目になりました。

本日の授業風景をご紹介いたします。


中学1年生 桜組(国語)
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高校1年生 蘭組(聖書)
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高校2年生 桜組(数学Ⅱ)
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高校2年生 萩組(国語演習B)
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高校3年生 美術科(絵画)
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高校3年生 体育科(英語演習A)
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残り2日間ありますので是非、お越し下さい。

 

  2016-05-16 参観ウィーク1日目

本日より参観ウィークが始まりました。

本日の授業風景をご紹介いたします。


高校1年生 桜組(国語総合)
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高校1年生 梅組(数学Ⅰ)
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高校2年生 体育科(日本史B)
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高校3年生 桃組(英語演習A)
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高校3年生 萩組(ダンス)
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参観ウィークは5月20日(金)まで行っております。
是非、お越し下さい。

 

  2016-05-14 5月11日(水)全校礼拝

5月11日(水)全校礼拝が行われました。

讃美歌    484 番( 1、2 番)
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聖書    マタイによる福音書25章14-18節
メッセージ 「神の賜物」
学院宗教主事 樋口 進 牧師

同じ事態に直面してもそれをプラスに考える人とマイナスに考える人がいます。そして、プラスに考える方が、より豊かな人生を送れると思います。
先ほどお読みした聖書の箇所は、イエスが話された「タラントンのたとえ」という話の一部です。
タラントンというのは、当時のお金の単位で、最も大きな額でした。
そしてこれは、英語のTalentの語源になっていると言われています。
タレントは日本でもテレビなんかに出る人をタレントと言いますが、能力のある人のことを言います。
そして、このタラントンは、聖書においては、神によって与えられた賜物のことです。そして、この譬えでは、3人の人がそれぞれ5タラントン2タラントン1タラントンを預けられた、と言われていますが、私たちの能力は神によって預けられたものだ、と言うのが聖書の理解です。
ですからそれを、神のために用いるという課題が私たちには与えられているのです。そして、5タラントン、2タラントン、1タラントンというのは、与えられた能力には差があるというのでなく、それぞれにはそれぞれ違った能力が与えられている、と言うことではないかと思います。
それを能力の差と捉えるならば、多く与えられていると思う人は優越感を抱き傲慢になります。
また、少ししか与えられていないと思う人は、劣等感に陥り、せっかく与えられたタレントを見失ってしまいます。
それが、今日の譬えの1タラントンを預けられた人です。
1タラントンを預けられた人は、他の二人と比較して、自分には余りタレントが与えられていないと思い、それを活用せずに隠してしまった、と言うのです。
しかし、1タラントンというのは、実は莫大なものなのです。
1タラントンというのは、6000デナリオンに相当します。
1デナリオンは、1日の賃金に相当する額ですから、6000デナリオンというのは、6000日分の賃金になります。
すなわち1タラントンというのは16年分の賃金ですから、相当が額です。
これは、どんなに小さく見えるような能力でも、神からそれぞれに与えられているタラントは莫大なものである、ということが言われていると思います。
他の人と比較をするところからは、そのような積極的な行動は出てきません。そうではなく、神から自分に与えられている恵みに目を向けるのです。
ある場合は、これが恵みかと思われることもあるでしょう。
三浦綾子さんは、病気をも神から与えられた賜物と捉えました。
彼女の随筆は『この病をも賜物として』と言うのがあります。
病気などというものは、私たちは全くのマイナスのものだと思わないでしょうか。賜物だとは思わないでしょう。
病気などというものは、もう土の中に隠してしまいたいものです。
しかし、三浦綾子さんはそれをも神から与えられた賜物として受け取ったのです。これを書いた時、三浦さんは実にいろいろな病気に冒されていました。
癌もありましたし、パーキンソン病もありましたし、痛みを伴うものもあり、実に苦しかったのです。
ですから、自分で書くことが出来ず、自分は口述して、夫の光世さんが書いていたのです。
それも休み休みです。病気になるのはとても辛いことです。
しかし、病気になることによって、病気の人の苦しみや悩みが分かります。
三浦綾子さんは、そのような気持ちから、病気で苦しむ人を慰め、励ます文を書くことが出来ました。
そして、三浦さんの文章によって、励まされた人が大勢います。
私たちもそれぞれ、神から多くのタレントを与えられていると思います。
そしてそれは、それぞれに違うタレントが与えられているのです。
隠してしまわなければならないタレントはないのです。
たった3本の指にしても、三浦綾子さんのように病でさえも、神から与えられた賜物だと捉えるならば、それを土の中に隠してしまうのでなく、活用して、豊かな実りをもたらすことができるのです。
私たちに果たしてどのようなタラントが与えられているかを考えることも私たちの課題でしょうし、それを用いて、神のために、人のためにどのように用いていくかも私たちの課題だと思います。

 

   参観ウィークのお知らせ

参観ウィークのお知らせ

今年度も参観ウィークを開催いたします。

*日時*
5月16日(月)~5月20日(金)

*お願い*
公共交通機関を使ってご来校ください(校内に駐車場はごさいません)。
上履きをご持参ください。

 

 

  2016-05-10 育友会代議員会・総会・学級懇談会・中3修学旅行保護者説明会開催のご案内

今週末の14日(土)育友会代議員会総会学級懇談会中3修学旅行保護者説明会を開催いたします。詳細は以下の通りです。

 


第一回育友会保護者代議員会

日時:2016年5月14日(土) 10:00~11:00
場所:夙川学院中学高等学校チャペル教室 1号館1階
代議員会資料は当日受付にてお渡しいたします。


育友会総会

日時:2016年5月14日(土) 13:00~14:00
場所:夙川学院中学高等学校チャペル教室 1号館1階
総会資料は13日に生徒にお渡ししますので当日(14日)に必ずご持参ください。

 

学級懇談会
日時:2016年5月14日(土) 14:00~
場所:各クラスルーム

 

中3修学旅行保護者説明会
日時:2016年5月14日(土) 14:30~
場所:選択教室B

 

ご多忙のところ誠に恐縮に存じますが、万章お繰り合わせのうえ、ご出席賜りますようご案内申し上げます。
当日は上靴・靴袋を必ずご持参下さい。自動車でのご来校は固くお断りいたします。

 

  2016-05-09 母の日礼拝

母の日礼拝が行われました。
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樋口 進 牧師のメッセージ  「感謝の心」はこちらをクリック


アリーナにて礼拝を行い、学年ごとに選ばれた代表者は母の日作文を朗読しました。

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また、各教室で母の日プレゼント企画として食器用洗剤のチャーミー マジカを生徒一人につきそれぞれ一本ずつ渡されました。メッセージシールを書き、ラッピングバックに詰めて持ち帰っていただきました。生徒さんからご家族へ感謝の気持ちが伝われば、と思います。
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マタイによる福音書15章1-6節    「感謝の心」

 

昨日は「母の日」でした。
皆さんは、お母さんに何かプレゼントしましたか?
カーネーションを贈った人もいるかも知れません。
あるいは、物でなく、何かサービスした人もいるかも知れません。
例えば、肩たたきとか。
あるいは、感謝の気持ちを表わしたカードを送った人もいるかも知れません。
わたしの所にも、東京にいる娘から妻にきれいなエプロンとパジャマが送られてきました。
感謝のメッセージも添えられ、妻はとても喜んでいました。
「母の日」にお母さんの愛に感謝の気持ちを表わすことは、いい習慣だと思います。
ところで、この「母の日」はいつ始まったかご存じですか?
そして、「母の日」には、カーネーションが定番ですが、なぜカーネーションを贈るかご存じですか?
「母の日」がなぜ、5月の第二日曜日かご存じですか?
「母の日」は、今から108年前の1908年に、アメリカ・マサチューセッツ州のウェブスターという町のメソジスト教会で始まりました。
日曜学校の教師を26年間も勤めたクララ・ジャーヴィスという女性は、ある日「あなたの父母を敬え」という旧約聖書の「十戒」の教えについて語り、特に母の愛に心から感謝する方法があればよいと訴えました。
その後この女性は亡くなったのですが、この話を娘のアンナという人は、ずっと心に留めていました。
そしてアンナは、母親の追悼会の時に、1箱のカーネーションを持って来て、会場に飾りました。
これが、彼女の母の愛に感謝する方法だったのです。
列席者は大きな感銘を受け、今後こういう会を毎年開くことを申し合わせました。
やがてこれを知った有名な百貨店の社長のジョン・ワナメーカーという人が、5月の第2日曜日に自分の店で盛大な「母の日記念会」を催しました。
この日の模様を新聞などが広く報道したため、各地に広がり、
日本では1923年(大正12年)に最初の「母の日」が祝われたと言われています。
そして今や、世界中どこででもこの「母の日」は祝われています。
もっとも、国によって「母の日」が行われる日にちは違っていますが。
そして今やこれは、一種の年中行事と化しており、特に日本では、これを機会にいろいろな品物を売ることに利用されていますが、この精神というものを本当に考えなければならないと思います。
「母の日」という特定の日が定められたのは、20世紀に入ってからですが、「両親を大切にする」という習慣は、世界中どこででも、また古い時代からありました。
例えば、古代ギリシアにおいては、偉大な立法家ソロンという人が次のように書いています。
その両親が年老い、支持を必要としている時に、両親を支えないならば、彼は市民としての権利を喪失する。
ギリシア人は、両親を尊敬することは、国家のすべての市民の基本的な義務の一つであると考えていました。
日本においても、特に儒教の教えから、親への孝行ということが重んじられてきました。
古代イスラエルにおいても、その最も古い法律である十戒の5番目の教えに「あなたの父と母を敬え」と言われています。
これは旧約聖書の出エジプト記20章に言われています。
古代イスラエルの人たちも、この戒めを守って、自分たちの両親を敬うことが重んじられていました。
しかしこういう習わしもその精神が失われて、しばしば形式的になります。
こういうことは、法律を定めたり、「母の日」というのを制定したり、「敬老の日」という祝日を作ればそれで済むというものではありません。
問題は、そういう形ではなく、心です。
古代イスラエルにおいても、イエス・キリストの時代「父と母とを敬え」という十戒の教えが、当時のユダヤの社会において形式的になっていたということが言われています。
先ほど読んだマタイによる福音書の15章にそのことが言われています。
当時のユダヤ人の社会でユダヤ教の指導者たちは、昔からの教えによく通じていた人たちです。
しかし彼らは、法律や習慣の余りにも細かなことに目を向けていたので、戒めの本質的なこと、根本精神を見失っていました。
「木を見て森を見ず」という諺がありますが、当時のユダヤ教の指導者たちはまさにそうでした。
イエスはしばしば、このようなユダヤ教の指導者たちとぶつかりました。
ある時、ユダヤ教の指導者たちが、イエスの所に来て、「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」と言いました。
ユダヤ人は、食事を非常に大切にしました。
これは、単に食欲を満たすというよりも、一つの宗教的な行為でした。
その一つに人が食べてよい食物と食べてはならない食物が規定されていました。
この規定は、コーシェルと言って、今でも熱心なユダヤ教徒の間では厳格に守られています。
イスラム教の人たちのも同じような食事の規定があります。
例えば、豚肉は、ユダヤ教の人もイスラム教の人も食べてはいけないのです。
最近、特にインドネシアなどからイスラム教の人たちが日本に旅行に来ます。
その時に、ホテルなどで食事に困るということがあります。
それは、イスラム教で食べることを禁じられている食物を出すことができないからです。
そして、イスラム教で食べてもいい物をハラールと言いますが、最近ではハラールの認証を受けた食べ物を出すホテルが増えています。
大学でもインドネシアやサウジアラビアなどのイスラム圏から大勢の留学生が来ている所では、食堂でハラール認証の食事を用意している所も増えてきています。
とにかく、イエスの時代にもこのような食事の細かい規定があり、特に宗教指導者は、そのようなことに目を光らせていたのです。
さらに、食事の作法についても、いろいろ細かい規定がありました。
これは、最初はごく簡単なものでしたが、時代と共に非常に複雑なものとなっていきました。
そしてイエスの時代には、実に細々した規定があり、一般の庶民にはそれらを完全に守ることは不可能でした。
その一つに、手を洗うというものがあります。
食事の前に手を洗うのは当たり前ではないか、と思われるかも知れません。
しかし、この当時の手洗いは非常に複雑でした。
例えば、かける水の量が決められていたり、かける順番があったり、かける方法があったり、といったものです。
水をまず両手にかけ、次に指先を上に向けて指先から水をかけ、次に指先を下にしてかける、といったようなことです。
そして、厳格なユダヤ人は、これを食事の前にするだけでなく、食事の間も料理が変わる毎に行っていたというのです。
ですから、ユダヤ教の指導者たちといった特別これらの規定に通じた人以外は、厳密に守ることは不可能でした。
そしてこういう日常生活における細かな規定は、他にも非常に沢山あったのです。
そして、ユダヤ教の指導者たちは、これらの規定をよく知っており、それらを一つひとつ忠実に守っていたということで、非常に誇りがありました。
それと同時に、このような規定を守らない者を、軽蔑したのでした。
さてユダヤ教の指導者たちは、イエスの弟子たちがこのような細かな規定を守らないと言って、イエスを非難しに来たのでした。
しかしイエスは、これに対しては直接には答えていません。
ユダヤ教の指導者たちは、律法の非常に細かなことを重要にしていましたが、律法の本質を見失っているのだ、ということを指摘しました。
律法学者やファリサイ派の人たちにとって、宗教は、食前に正しい方法で手を洗うといった、一定の外面的な規則、規定、儀式を守ることでした。
一方イエスにとって、宗教とは、心の中にあるもの、そこから出される憐れみと親切、愛ということでした。
そこでイエスは、最も大いなる戒め、誰でもよく知っている戒めを引き合いに出します。
すなわち、十戒の5番目の教えの「あなたの父と母とを敬え」というものです。
これは十戒でも最も重要な戒めであるので、ユダヤ教の指導者たちに向かってことさら言うものではありません。
しかしイエスは、彼らがこの戒めを本当の意味で守っていなかったことを指摘したかったのです。
このように言いました。
それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。
「供え物」は、コルバンという語ですが、これは、神に捧げられたもの、聖別されたもの、というものです。
例えば、ある人の父か母が貧しく、年を取って金に困り、息子の所に助けを求めに来た場合、その人が両親への援助を断る道があったのです。
それは、金や財産をすべて神殿に「供え物」にすることでした。
するとそれがコルバン、すなわち神に捧げられ、神のために聖別されたものとなり、両親には、「大変お気の毒ですが、何もあげられません。わたしの持物は全部、神のものになっています」ということができたのです。
そしてユダヤ教の指導者たちは、親に援助するよりは、神殿に捧げる方が価値があると奨励していたようです。
親を助けるよりも、自分の名誉心のためにお金を用いたのです。
こう言う心をイエスは非難されたのです。
イエスは、形式や外面的なことではなく、内面的なこと、心を大切にされました。
贈り物をするというとき、その品物よりもその気持ち、心が大切です。
たとえ安物であって、心がこもっていれば、うれしいものです。
わたしは、娘が幼稚園のときに父の日に造ってくれた粘土の鉛筆立てを今でも遣っています。
その娘は、もう結婚もして、子どももいますが、先日久しぶりに
家に里帰りしたときに、その鉛筆立てを見て、「まだこんなもの使っているの?」とびっくりしていましたが、わたしにとっては、娘が小さいときに心を込めて造ってくれた鉛筆立ては、今でも宝物です。
皆さんは、アメリカの作家オー・ヘンリーの短編小説「賢者の贈り物」というのをご存じでしょうか。
ある貧しい夫婦がいました。
それぞれクリスマスプレゼントに何を贈るかを考えました。
夫は、妻が美しい金髪の髪を持っていたので、それをとく櫛を贈りたいと思いましたが、お金がなかったので、自分の一番大切にしていた懐中時計を売って、その櫛を買いました。
一方妻は、夫は、懐中時計は持っているもののそれにつける鎖がなかったのでそれをプレゼントしたいと思いました。
しかし、お金がないので、自慢の金髪を売って、それで鎖を買いました。
そして、クリスマスの日、お互いプレゼントを交換しました。
妻は立派な櫛をプレゼントされましたが、肝心の金髪がなく、役に立ちません。
夫は、時計につける鎖をプレゼントされましたが、肝心の懐中時計がありません。
2人はがっかりしたかと言うとそうではなく、お互いの気持ちを思って喜んだ、と言うことです。
心をこめてプレゼントすれば、たとえ今役に立たないものであっても、嬉しいものです。
親を敬うということも、ややもすれば形式的になってしまいます。
イエスの教えたのは、そういう宗教の形式的な儀式や細かい規定を守るということではなく、神に接し、人に接する真心であり、愛でした。
そしてそれは、律法の根本精神でした。
何故「母を敬わなければならないのか」というのは、「・・・だから」という理由があって敬うというのでなく、そうすることが自然なのです。
母親が子供を愛するのは、理由がありません。
自分の子であるから愛するのです。
母は子どものことをいつも心配しています。
母がわが子を心配する時は、どんな時でしょうか。
わが子が病気になったり、怪我をした時、最も心配するでしょう。
あるいは、わが子が人にいじめられたり、また人とうまくいかずに孤独になったり、落ち込んだりした時もほんとうに心配するでしょう。
また、わが子が何か悪いことをした時、罪を犯した時なども、ほんとうに心配するでしょう。
この場合は、何とかして、その悪い道から離れるようにとお願いしたり、説得したり、また神に祈ったりするでしょう。
よく新聞で少年が例えば人を殺したとか、自分がいじめたために
相手が自殺したとか、盗みを働いたとかいう記事が載ります。
そういう時、私はいつも、その人の親はどんな気持ちであろうかと思います。
恐らく夜も寝られないでありましょう。
さっき歌った讃美歌で「主われを愛す」とありましたが、その主を母に変えて歌うと、母の愛が分かるでしょう。
そのようなその愛に答えて、子が母を敬うのは、自然な事です。
十戒には、「子供を愛せよ」という戒めはありません。
これは、そのような戒めを作らなくても、自然なこととして皆自分の子供は愛するからです。
最も、最近では自分の子どもに虐待して死なせてしまう親もいますが。
そういうニュースを聞くと、ほんとうに信じられない思いです。
しかし、「あなたの父母を敬え」とわざわざ法律に規定されているのは、そうでない現実が多くあったからでしょう。
否、歴史において、特に母がないがしろにされた時が多くあったのです。
旧約聖書にも、そのようなことが記されています。
社会が混乱した時、親を大切にするというよりも、皆自分のことに必死であった時代です。
この混乱期に、母親は、ことさらないがしろにされたのです。
いつでも変わらないのが母の愛です。
マタイによる福音書7章9-11節に次のようにあります
あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
今は「母の日」は広く普及して、どこを歩いていても「母の日、お母さんありがとう」という文字が見えます。
しかし、それが形式的に終わらずに、最初に言った人アンナという人が自分の母親に心から感謝する気持ちで、母の好きであったカーネーションを会場いっぱいに飾った母に対する心を大切にしたいと思います。

 

  2016-05-06 保護者説明会開催のご案内

本校のポートアイランドキャンパスへの移転に関連して、前回説明会から後の状況につきまして、下記の要領で明日、説明会を開催させていただきます。

日程:2016年5月7日(土)10時より

場所:ポートアイランドキャンパス チャペル教室

お忙しいところご足労をおかけすることになり大変恐縮ではございますが、是非ともご出席賜りますよう何卒よろしくお願い申し上げます。

 

  2016-04-16 参観授業

本日は参観授業・学級懇談会・進路説明会が行われました。

参観授業でのクラスの様子を学年ごとで紹介します。

<<中学生>>
一年桜組(英語)               二年桜組(国語)
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三年桜組(理科1)
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<<高校1年生>>
桜組(数学Ⅰ)                梅組(保健)
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菊組(国語総合)               萩組(物理基礎)
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蘭組(数学Ⅰ)
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<<高校2年生>>
桜組(英語演習A)              萩組(現代文B)
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美術科(日本史A)             体育科(古典A)
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<<高校3年生>>
桜組(家庭総合)              梅組(数学Ⅱ)
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桃組(聖書)                 萩組(英語演習C)
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美術科(コミ英語Ⅱ)            体育科(世界史B)
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どのクラスもしっかり授業を受けていました。
月曜日にはクラスの集合写真があります。服装を正して元気に登校してくださいね。
(※個人写真が未撮影の生徒は、白カッター・ネクタイ・ブレザーで撮影しますのでお忘れなく。)

 

  2016-04-13 全校礼拝

全校礼拝が行われました。

今年度から毎日礼拝が行われることとなり、今日はアリーナにて樋口進学院宗教主事による礼拝が行われました。
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月・水はアリーナにて、火曜日は各教室にて、木・金は各教室にて放送礼拝という礼拝内容となっています。礼拝は大切な時間であるという自覚を持って参加していきましょう。

 

  2016-04-12 部活動紹介

文化部長、文化副部長の挨拶と共に自分たちの部活動について
パフォーマンスをしながら新入生に紹介をしていきました。


宗教部                          ダンス部
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テニス部                         放送部
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吹奏楽部                         ボランティア部
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クッキング部                       柔道部
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フォークソング部                    軽音楽部
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自治会
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男子生徒を募集している部活動もたくさんあります。
少しでも気になった部活動があれば見学に行ってみてくださいね!

 

  2016-04-09 平成28年度 夙川学院中学校・高等学校入学式

4月9日(土)平成28年度夙川学院中学校・高等学校の入学式が行われました。

新入生入場                        入学式の様子
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誓約(新入生総代)                 一年生の先生紹介
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新入生退場
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男女共学になったことにより男子生徒の数も多い入学式となりました。
新しい制服に身を包んで緊張した面持ちで入場されていました。
これからの学校生活を楽しんでいきましょう!!

 

  2016-04-08 平成28年度 1学期始業式

4月8日(金) 本学院アリーナにて1学期始業式が行われました。

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新しい校長先生から訓話を聞き、新しくなった讃美歌も歌いました。
また、今年度着任された先生の紹介もありました。

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今年度も心機一転、頑張っていきましょう!!

 

  2016-04-05 住所・電話番号・FAX変更のお知らせ

ポートアイランドへ移転したことにより、住所・電話番号・FAXが変更しました。
お間違えのないようにお願い致します。

 〒650-0045
兵庫県神戸市中央区港島1-3-11
夙川学院中学校高等学校

TEL:078-940-1131 FAX:078-940-1160

 

   4月4日(月) 防災訓練を行いました


本日は全校登校日であり、初めてのポートアイランドキャンパスへの登校でした。

それぞれの教室で担任と顔合わせをした後、校舎見学を行い教室にて地震が発生したという状況から防災訓練を行いました。

担任の指示に従って机の下に隠れ、放送の指示に従い全クラス一斉に建物の一番高い4階へと向かい、階段や通路では混み合うという経験をしました。

安全確認をした後全クラスともアリーナに集合し、地震や津波に関する講話を聞きました。今日の講話や訓練したことを忘れずにもしもの時に備えられるようにしておきましょう。

 

   3月19日(土)・20日(日)キャンパスさよならday

 3月19日(土)・20日(日)に夙川学院記念館にて「神園キャンパス さよならイベント」が行われました。

NBL2015-2016レギュラーシーズン公式戦が本校で開催され、プロのバスケットボール選手達が記念館にて西宮ストークスvs千葉ジェッツの試合を行いました。
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試合前の様子
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始球式では本校卒業生のバスケットボール部の生徒に行ってもらいました。
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試合中ではストークスチアリーダーズが試合を盛り上げてくれました。
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20日(日)には特別ゲストとして神戸発の5人組アイドルグループ、KOBerrieS♪コウベリーズ)が参戦され、ハーフタイムショーとしてパフォーマンスを披露し、ストークスの勝利を後押ししてくださいました。
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会場は終始盛り上がっていました。
神園キャンパスでの最後のイベント。皆様ご協力ありがとうございました。

 

  2016-03-07 国際バカロレア(IB)中等教育プログラム(MYP)候補校に認定

夙川学院中学校は、2016年3月1日、国際バカロレアMYP候補校になりました。

夙川学院中学校は、国際バカロレア(IB)中等教育プログラムの候補校(※)です。本校は、IBワールドスクール(IB認定校)としての認定に向けた申請段階にあります。IBワールドスクールは、「質の高い、チャレンジに満ちた国際教育に信念をもって取り組む」という理念を共有する学校です。夙川学院中学校も、このような教育に取り組むことが、生徒にとって大切であると信じています。
(※)IBの「初等教育プログラム」(PYP)、「中等教育プログラム」(MYP)、「ディプロマプログラム」(DP)の3つのプログラム(および「IBキャリア関連サーティフィケイト」)を実施することができるのは、国際バカロレア機構に認定された学校のみです。候補校であることは、IBワールドスクールとして認定されることを保証するものではありません。IBおよびIBのプログラムの詳細については、ウェブサイト(http://www.ibo.org)をご覧ください。

 

  2016-03-05 平成27年度夙川学院中学校卒業式

本日、平成27年度夙川学院中学校卒業式が執り行われました。
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神園キャンパスで最後の行事。
今年は25人の生徒が夙川学院中学校を巣立って行きました。
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今日まで3年間学んだことを忘れず、これからも日々成長していきましょう。
これからの皆さんの未来が良いものになりますように祈ってます。

 

  2016-03-04 平成27年度三学期終業式

本日平成27年度夙川学院三学期終業式が執り行われました。
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《讃美歌》                         《祈り》

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《三学期の振り返り》
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《頌栄》                         《祈祷》
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神園キャンパス最後の終業式。
皆さんの心に神園キャンパスで学んだ日々が残ることを願います。

 

  2016-03-02 生徒指導講演会を行いました

本日の指導講演会では兵庫県警の方にお越しいただき、
スマートフォンや携帯ゲーム機などで気軽に利用できるインターネットに、
どんな危険があるか、どうすることで危険を回避できるかを詳しく教えていただきました。
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身近な例も多く、皆真剣に聞いていました。
この講演会を活かし、SNSや無料通話アプリの使い方を意識してほしいと思います。

 

  2016-02-29 送別ドッジボール大会を行いました

本日、中学校では送別ドッジボール大会を行いました。
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《ドッジボール大会》

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学年対抗で行いました。
先生も混じってとても楽しそうです。

《逃走中》
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テレビで見たことのあるこの姿・・・
2年生の何人かが1年生、3年生を追いかけます。

このメンバーで過ごせるのは残りわずか。
たくさん思い出を作ってください。

 

  2016-02-25 もちつき大会をおこないました

本日、中学校ではもちつき大会を行いました。
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みんなでおもちをついたり、中に入れる餡子やきなこを準備するなど
楽しく実施できました。
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つきたてのおもちはおいしかったです。

 

  2016-02-24 表彰伝達、学年末指導を行いました。

《表彰伝達》
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表彰を受けたのは中学バレーボール部、高校空手道部でした。

バレーボール部は県大会、空手道部は全国大会へ出場します。

《学年末指導》
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教務部の先生からは春休み中の課題や教科書などについて、

生徒指導部の先生からは春休み中の過ごし方や、普段からの心構えについてお話をききました。

 

  2016-02-06 平成27年度卒業式

本日平成27年度夙川学院高等学校卒業式が執り行われました。
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132名の生徒たちが夙川学院を巣立っていきました。
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夙川学院で学んだことを胸にこれからがんばってください。

 

  2016-02-03 卒業送別礼拝が行われました

卒業を間近に控えた中学3年生、高校3年生を送るために
卒業送別礼拝を行いました
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校長先生、前生徒自治会長、生徒自治会、全体へと
渡った炎はとても幻想的な魅力を持っていました。

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今日のこの火が卒業生の心に残ればと思います

 

  2016-02-01 進路ガイダンス(高2)が行われました

本日、進路ガイダンスが行われました。
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総合的な学習の時間を利用し、高校2年生を対象に、「進路ガイダンス」を実施しました。
各講座に分かれて真剣に話しを聞いていました。
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来週も同じく進路ガイダンスを行います。
今日の話をしっかり聞いて、進路決定に役立ててください。

 

  2016-01-30 土曜講座が行われました

本日、土曜講座が行われました。
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《楽しもう科学実験》
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《センター数学~1年後、2年後に向けて~》
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楽しい実験や来年の受験に向けた授業でした。
今年度の土曜講座もあと1回。
どんどん参加していきましょう!

 

  2016-01-28 第47期生美術科卒業制作展 最優秀賞作品紹介

最優秀賞作品を紹介いたします。

2016年1月26日(火)~1月31日(日)の期間、西宮市立市民ギャラリーにて開催されている第47期生美術科卒業制作展。
今回は数ある作品のなかで最優秀賞となった作品を紹介します。

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<ビジュアルデザイン>少女の理想の姿

最優秀賞に輝いた生徒のコメントを紹介します。

【コメント】
 
私が卒業制作展の作品テーマに選んだのは「拒食症」です。100〜150人に1人はいるとも言われ、最近ではBMI等の数値が条件に満たないモデルを雇ってはいけないという法律がフランスで立法されました。
 悩み苦しみながらも憧れを追う少女達の姿を描きました。一見ピンクが華やかに映る作品ですが、所々隠れる毒のある場面を大切にしています。自分が作品でよく使うピンク色、どうすれば見ている人に伝わるのか、少女の魅力、3年間積み上げてきたものが詰まった作品になりました。
この度はこのような素敵な賞をいただけて大変光栄です。これをバネに今後も精進していきたいと思います。
 
 
他にもたくさんの生徒出展作品が西宮市立市民ギャラリーにございますので是非とも足を運んでみてください。

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※お車でお越しの際は、大谷記念美術館駐車場をご利用ください。
たくさんのご来場お待ちしております。