全校礼拝 Ⅰコリントの信徒への手紙12章12-17節 「違いを大切に」 | 夙川学院中学校・高等学校

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  2018-10-19 全校礼拝 Ⅰコリントの信徒への手紙12章12-17節 「違いを大切に」

2018年10月19日(金) 全校礼拝が行われました。
宗教主事の樋口学院長が、Ⅰコリントの信徒への手紙12章12-17節 「違いを大切に」と題して、お話をしてくださいました。

 私たちは自分たちとは違った者に対して偏見を持つと言うことはないでしょうか。例えば、外国人に対してとか。今、ヨーロッパでは、難民の問題が大きな問題となっています。国によって態度が違います。ドイツは難民を喜んで受け入れていますが、他の国ではそうではなく、むしろ排除しています。一方では違いを排除する、一方では違いを受け入れるという態度です。

 さて、人間はいろんな違いがあります。そのとき大切なのは、そういう違いのある人々をよく理解し、そして尊重しなければならないということです。いろいろな国々や、いろいろな人種や、いろいろな宗教には、それぞれ違いがあります。人間、違いがある時には、違和感を覚えるのではないでしょうか。ある場合は、理解できない、ということが起こるのではないでしょうか。違和感を覚え、そして理解できない、ということになると、それを排除しようとするのではないでしょうか。そういう所から、民族間の紛争が起こったり、国と国との戦争が起こったり、それが極端になれば、ジェノサイド(大量殺りく)ということも起こります。

 その極端な例は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺でしょう。ユダヤ民族は優秀なゲルマン民族とは違うのだ、と言って排除したのです。それで、600万人ものユダヤ人を虐殺していったのです。これは極端な例ですが、しかし人間、違う人間に対しては、それを排除しようとする傾向があります。LGBT(性的少数者)に対しても、理解がないところから差別的な発言をする人がいます。違いを理解し、それを尊重するということは、難しいことかも知れません。

 先ほど読んだのは、コリントの信徒への手紙で、これはパウロという人が、ギリシャのコリントという町の教会に送った手紙です。コリントという町は、港町で、当時はいろんな人が出入りする国際的な町でした。そこで、コリントの教会に集まっていた人もいろんな人がいたようです。そして、この手紙から察する所、違った人には違和感を持ったり、偏見を持ったり、排除しようとすることもあったようです。そういう人に対して、パウロは体の部分という比喩でもって、お互い理解し合い、また尊重し合うように勧めています。

 人間の体は、実にいろいろな部分からなっています。一つ一つはそれぞれ違いがあります。しかし、それらが合わさって、一つの調和の取れた体となる訳です。そしてそれらは、違いはありますが、不必要な物はないのです。また、優劣もないと思います。優劣となると、それは排除の論理になります。

 ここでパウロは、「目が手に向かって、『お前は要らない』とはいえず、また頭が足に向かって『お前は要らない』とも言えません。」と言っています。違いにのみ目を向けると、また優劣ということになると、『お前は要らない』ということになります。かつてのナチス・ドイツは、そういう論理で「ユダヤ人はいらない」として虐殺したのです。また、かつての日本も、大和民族は優秀だということで、東南アジアに侵略した歴史があります。

 さらにパウロは、22節で、「それどころか、体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」と言っています。これは、優劣の考え、排除の論理とは逆です。さらにパウロは、26節で、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と言っています。

 このような精神が、「違いを大切にする」という精神が大切ではないでしょうか。

 

  2018-10-04 柔道 世界選手権 報告会を行いました。

本日、アゼルバイジャンで行われました柔道世界選手権に出場した本校在校生の3名が揃い、報告会を行いました。
日本代表として出場し、優勝した阿部 詩さん
韓国代表として出場し、団体3位になった金 知秀さん
フィリピン代表として出場した高橋 麻莉弥さん
そして柔道部顧問の松本先生が登壇し、報告と今の心境などについて語りました。

    
早朝にもかかわらず、たくさんの報道陣の方にも来ていただきました。    そして大歓声の中、登場。


校長先生からの激励の言葉の後には、生徒を代表して生徒自治会長が3人にむけて質問をしました。

    

報告会終了後には、会見を行い、報道陣の質問に丁寧に答えていました。

 

今後も活躍に期待です。応援よろしくお願いします。

 

  2018-10-01 体育祭が行われました。

10月1日(月)、県立総合体育館にて体育祭が行われました。

台風接近に伴い、開催も危ぶまれましたが無事に行うことが出来ました。

    
左:大混戦のキャタピラレース!     右:クラスパフォーマンスではそれぞれのクラスが思い思いのダンスで表現しました。

   
クラブパフォーマンスでは、体操競技部と空手部が披露しました。

    
左:大玉転がしでは協力し合い全速力で走りました。   右:学年ダンスでは観客席から完成や、一緒に踊る人たちもあり大盛り上がり。


最後はグローバルアスリートコースによるダンス。
圧巻のパフォーマンスでした。

 

この日のために一生懸命練習してきたのを見てきているので、当日晴れてくれることを願っていました。
当日、良い結果がでても、そうでなくても、そこまでに努力してきたこと。練習してきたこと。団結したことは変わりません。
結果ではなく、そこまでのプロセスが大事です。それがまた自分やクラスの力になるのだと思います。

 

  2018-09-22 柔道・世界選手権 阿部 詩 優勝!

バクーのアゼルバイジャンで行われています、柔道・世界選手権に本校から3名出場しています。

その中でも女子52キロ級において本校3年生在籍の阿部 詩がオール一本勝ちで初出場優勝を飾りました!

男子66キロ級で優勝した兄の阿部一二三(日体大)選手と日本史上初めて同大会で兄妹そろって世界一に輝きました。

おめでとうございます。

 

  2018-09-14 全校礼拝 ローマの信徒への手紙8章28-30節 「万事が益となる」

 2018年9月14日(金) 全校礼拝が行われました。
 宗教主事の樋口進学院長が、ローマの信徒への手紙8章28-30節 「万事が益となる」 と題して、お話をしてくださいました。

 人生には、自分の計画通りでないこともあります。そのようなとき、自分の目指していたことは違うと言って、受け入れたくないと思うかも知れません。しかし、自分の思っていない事態になってもそれを受け入れるならば、そこから新しい道が開けてくることがあります。大事なことは、与えられたものを受け入れると言うことです。

 人生には、自分の意志でないのに受け入れなければならないことがあります。それは、自分が生まれてきたことです。私たちは、自分の意志で生まれてきたのではありません。芥川龍之介の小説に『かっぱ』というのがありますが、そこでカッパは生まれるときにお腹の中で、お前は生まれたいか、と聞かれると言うことがいわれています。今の世の中は暮らしにくく、いやだと思えば、生まれたくない、と言うことができるというのです。しかし、現実にはそんなことはありません。私たちは、自分の意志とは関係なく、この時代に、日本に、それぞれの両親の元に生まれてきたのです。これは、受け入れるしかないのです。

 しかし、このようにして生まれてきたことを、神によって与えられたものとして、受け入れるのです。私たちは、自分で決められることももちろんありますし、決めなければならない場合もあります。しかし、自分で決められないこともあります。あるいは、自分の望んでいない事態になることもあります。そのような時、たとえ自分の望んでいなかったことでも、受け入れるということが大切なことです。そして、それが神から与えられたものだと受け入れるならば、自分の望んでいないことでも神が良きに導いてくださるのです。

 先ほど読んだ聖書のローマの信徒への手紙8章28節に、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とありました。ここでは、神は万事(すべてのこと)を益(良いように)としてくださる、と言われています。ローマの信徒への手紙は、パウロという人が書いた手紙ですが、これはパウロの実際の経験から出た言葉です。

 パウロは、初期のキリスト教の伝道者でした。彼は実に多くの地方に伝道し、キリスト教を広く伝えました。パウロのお陰でキリスト教が世界の宗教になった、と言ってもいいくらいです。彼は、綿密に計画を立てて伝道したのですが、しかし計画通りに行かなかった場合も多くありました。ある時は、北の方に行く計画をしていたのですが、何かの差し障りが起きてそちらに行くことができずに、逆の方に行かざるを得ないこともありました。そして、最初の計画を諦めて、別の方向も神によって与えられたものと受け入れて、そちらに行くと、そちらで思わない成果が得られたと言うこともありました。この「万事を益としてくださる神」ということは、そのようなパウロの実際の体験から出た言葉なのです。

 私たちは、時には、とても辛いこと、苦しいことが与えられることもあります。そのようなときも、それを受け入れるならば、神が万事を益としてくださるのです。パウロは、神は万事を益としてくださる、と言いました。自分の考えていたことと違う事態になっても、その事態を受け入れ、それを神に与えられたものと受け止めるときに、神は万事を益としてくださるのです。パウロは、そのことを実際に何度も体験しました。

 私たちの人生に於いても、私たちの計画通りに行かないこともあると思いますが、そのことも神によって与えられたものだと受けいるれならば、神は万事を益として下さることを覚えたいと思います。

 

  2018-09-10 全校礼拝 ルカによる福音書12章16-20節 「“いのち”を考える」

2018年9月7日(金) 全校礼拝が行われました。
宗教主事の樋口進学院長が、
ルカによる福音書12章16-20節 「“いのち”を考える」と題して、お話をしてくださいました。

 今日は、皆さんと共に “いのち” ということを考えてみたいと思います。
 
現在、私たちは「生きて」います。それは、“いのち” が与えられているからです。しかし、この “いのち” は、いつかは取り去られるものです。人間は、すべて死すべき存在です。これは誰も避けることのできない厳粛な事実です。この点に関しては、人間はすべて平等だと思います。どんなに財産があっても、どんなに知恵があっても、どんなに権力があっても、死を免れることのできる人はいません。

 昔、中国の秦の始皇帝は、自分の権力と財力でもって何とか自分の命を延ばそうとして、部下に不老不死の薬を全世界に探しに行かせたということですが、それは叶いませんでした。死はすべての人に平等に訪れます。そしてその時は、誰にも分からないのです。弱々しそうな人が意外に長生きすることもありますし、元気はつらつとしていた人が、あるとき突然死ぬこともあります。

 また、先日の豪雨や台風や地震などの自然災害において、突然命を奪われる場合もあります。いつ命が奪われるかは分かりませんが、分かっていることは、私たちはいつかは “いのち” が取り去られる日がある、ということです。この “いのち” は、私たちにはどうすることもできないものなのです。私たちは、神によってこの “いのち” を与えられて、ある期間この世に生きますが、しかしいつかはこの “いのち” は神によって取り去られるのです。それ故私たちは、この “いのち” に関しては、厳粛にならざるを得ませんし、与えられた命を大切にしなければならないと思います。

 そして重要なことは、この “いのち” は、神によって与えられたのだ、とおもうことです。 “いのち” の主は私たちではなく、神である、ということです。

 先ほどお読みしましたルカによる福音書に於いて、イエスは「愚かな金持ちのたとえ」をされました。この金持ちは、自分の畑に沢山の作物ができたので、これを大きな倉に入れて、この後何年も生きていくことができる、と思ったのです。その時神は、20節のように言われました。

 「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」

 この金持ちの農園主は、“いのち” の主は自分であると考えていたのです。多くの財産を持っていたので、いくらでも生きられると思ったのです。しかし、“いのち” の主は、人間ではなく、神なのです。私たちの “いのち” は、この “いのち” の主である神によって与えられたのです。そして、“いのち” の主は、また私たちから “いのち” を取り去ることもできるのです。

 ここで “いのち” と訳されている語は、ギリシア語ではプシュケーと言います。これはまた「魂」とも訳されます。これは単に動物的に生きるという意味での生命ではありません。もちろんそれも含みますが、人間としての尊厳ある “いのち” です。

 この農園主は、沢山の食料を蓄えて、ただ動物的に生きることだけしか見えなかったのです。そこには、その “いのち” が神から与えられたものという意識は全くありません。私たちの “いのち” が、神から与えられたものと認識するならば、その “いのち” を与えて下さった神との関係に生きることが大切です。

 神との関係に生きるということは、他の人との関係に生きるということでもあります。この金持ちの農園主は、自分は沢山の食料が収穫できて何年でも贅沢に暮らすことができると喜んでいますが、食料にもありつけない貧しい人のことは何も思わないのです。 “いのち” が神から与えられたものだと意識するなら、自分の “いのち” だけでなく、他の人の “いのち” も大切にします。それは、どんな “いのち” も魂として尊厳のあるものだからです。

 体は至って健康であっても、魂が死んだようになっている人もいます。イエスの譬えの金持ちの農園主は、 “いのち” は神によって与えられたもので、尊厳のあるものである、ということは考えなかったのです。

 そうではなく、私たちは、一番大切な “いのち” を神から与えられているということを思い、尊厳のあるものとして大切にしたいと思います。

 

   休校のお知らせ

午前10時現在、兵庫県神戸市に気象警報発令により、本日は休校となります。

 

   本日の登校について

午前7時現在、兵庫県神戸市に気象警報が発令中ですので生徒は自宅待機とします。
午前10時までに警報が解除された場合、午後1時にSHRにて出席確認を行い、5限目より授業を行います。
なお、スクールバス利用者については、12時30分三宮発のバスを1本のみ運行予定です。

 

  2018-09-08 休校と中学校説明会 中止のお知らせ

午前7時現在、兵庫県神戸市に気象警報発令により、本日は休校となります。

なお、本日予定されておりました中学校説明会は中止とさせていただきます。

 

  2018-09-03 臨時休校のお知らせ

ご存じの通り台風21号が非常に強い勢力を維持して、9月4日昼頃に兵庫県に接近する見込みが非常に強まってまいりました。また、公共交通機関も明日の午前10時には運転を取りやめるという報道もあります。

そのため、生徒の安全を考慮いたしまして、明日は気象警報の有無にかかわらず臨時休校とさせていただきます。
なにとぞご理解を賜りますようお願い申し上げます。

 

  2018-08-24 明日25日(土)の特別授業について

明日(25日)の特別授業は、台風による被害が校舎にでているため休校とします。

なお、中学のサマーキャンプは予定通り実施します。

 

  2018-08-09 夙川学院中学高等学校の設置者変更の認可申請および校舎移転について(設置者変更認可申請中)


夙川学院中学高等学校の設置者変更の認可申請および校舎移転について
(設置者変更認可申請中)

 夙川学院中学高等学校は2019年4月より、法人の設置者を須磨学園に変更し、「学校法人須磨学園 夙川高等学校・中学校」とする『設置者変更認可申請書』を7月3日に兵庫県に提出いたしました。
 また、校舎を現在の神戸市中央区港島から神戸市兵庫区会下山町に移転し、新たな教育活動に取り組んでまいります。
 今後、兵庫県より正式に認可を受けましたら、改めてご報告させていただきます。
 皆さまにはこの間、色々とご迷惑ご心配をおかけすることとなり、誠に申し訳ございません。
 今までいただいたご厚情に深く感謝するとともに、今後新しい地での高等学校・中学校の教育活動にご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。

 なお、すでに一部出版等されている学校情報には、認可申請前の情報が掲載されている場合がありご迷惑をおかけしますが、ご了承ください。

2018年7月吉日                                   
学校法人 夙川学院
理事長 増谷 昇

 

  2018-07-06 明日の保護者会について

保護者の皆様へ
明日7月7日(土)に予定されていました保護者会ですが、5日より神戸市はもとより兵庫県全域に気象警報が発令され、多くの地域で避難勧告や避難指示が出されております。
また、公共交通機関で運休や遅れが発生し、高速道路・一般道路においても通行禁止が続き、学校にきていただくのが困難な状態にあります。
このような状況では、保護者会を開催することはできないと判断し、延期したいと存じます。
すでに参加を予定をされていた方には大変恐縮ですが、何卒ご理解の程、よろしくお願いいたします。
日程などの詳細につきましては、フェアキャストをご参照ください。
 
 
 
学校法人 夙川学院 理事長 増谷 昇
夙川学院中学校高等学校 校長 荻野 太

 

   6日(金)の気象警報に対する対応について

本日は、気象警報発令、また交通機関の大幅な乱れにより登校に影響があると判断し休校となります。
今後の日程の変更についてはフェアキャストを参照ください。追加連絡についても、フェアキャストにて連絡いたします。

 

   気象警報発令に伴う登校について

現在、神戸市に大雨・土砂災害警報が発令されております。

生徒の皆さんは、10時まで自宅待機となります。

今後の対応に関しては、10時の段階で再度、ホームページおよび、フェアキャストで連絡いたします。

 

  2018-07-05 5日(木)の気象警報に対する対応について

午前10時現在、神戸市に気象警報が発令されてますので5日(木)は休校となります。

6日(金)は、高校は日程通りの試験、中学は通常授業となります。

なお、5日(木)実施予定の試験は12日(木)に実施します。

また、中学は12日(木)が出校日となり、通常授業を行います。

 

   在校生の皆様へ

現在、神戸市に大雨・土砂災害警報が発令されております。

生徒の皆さんは、10時まで自宅待機となります。

今後の対応に関しては、10時の段階で再度、ホームページおよび、フェアキャストで連絡いたします。

 

 

  2018-06-22 全校礼拝 詩編46編2~8節 「苦難のとき」

 

2018年6月22日(金) 全校礼拝が行われました。
宗教主事の樋口進学院長が、
詩編46編2~8節 「苦難のとき」と題して、お話をしてくださいました。

去る18日(月) 7時58分頃、大阪府北部を震源とするマグニチュード6.1、最大震度6弱の地震が起こりました。私はちょうど学校に来る途中、ポートライナーに乗っていた時で、中公園で止まってしまい、そこから歩いて学校に来ました。交通はすべて止まってしまい、学校は休校になりました。この地震で、高槻市、茨木市でブロック塀や家具の下敷きになって5名の方がなくなり、400人以上の方が怪我をされたと言うことです。私たちはまず、尊い命をなくされた方々に哀悼の意を表したいと思います。また、今なお1,500人もの人が避難生活を強いられているということで、被災されている方々のためにも支えを祈りたいと思います。

また、2011年3月11にはマグニチュード9.0という東日本大震災に見舞われ、地震と大津波とそれに原発の事故という、いまだかつて経験したことのない惨劇を受けました。この大震災のために死者と行方不明者を合わせると、2万人を超えているということです。
また私たちは、23年前に阪神淡路大震災も経験しています。この時は6千人以上の方が犠牲になり、夙川学院の高校生も2名犠牲になっています。私たちはこのような多くの「苦難のとき」を過ごしている人のことを覚え、神の助けを祈りたいと思います。
 

このような大震災でつくづく思わされることは、私たち人間の力は大自然の力の前には無力である、ということです。今や宇宙にまで行けるようになり、さまざまな難病を克服し、さまざまな便利な品があふれている現代文明ですが、自然の威力にはなすすべもありません。そういう意味では、人間は謙虚にならなければなりません。私たちには、祈ることしかできません。

さて、聖書にも自然災害については多く記されています。先ほどの詩編46編3-4節には、次のようにありました。

   わたしたちは決して恐れない
  地が姿を変え
  山々が揺らいで海の中に移るとも
  海の水が騒ぎ、沸き返り
  その高ぶるさまに山々が震えるとも。

ここでは、地震と津波が暗示されています。ここにおいても、このような自然の大災害には人間は全くの無力です。神に祈るしかありません。そしてこの詩人は、神は必ず助けてくださる、と信じています。

2節には、
  神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
  苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

とあります。また、6節を見ますと、

   もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、
  神がその声を出されると地は溶ける。

とあります。
ここには天変地異、あるいは戦争による激動があります。敵の攻撃にあった時の動揺は、想像を絶するものです。2節で、「山は海の真中に移るとも」と言われているのは、大地震のことかも知れません。「山」というのは、動かないもの、泰然としているものです。しかし、大地震によってそれが海の中に移るというのです。もしそんな大地震が来れば、私たちはあわてふためくでしょう。東日本大震災においても、地震や津波によって多くの家が破壊されたり、空港や石油施設が一瞬にして破壊されたりしました。私たちも大地震の恐ろしさというものを実感しました。

しかし、私たちを恐れさせているのは、そのような戦争とか天変地異だけではありません。私たちの普段の生活においても、いろいろなことで動揺したり、不安な気持ちになったりするのではないでしょうか。自分のちょっとした失敗や、人から言われたいやな言葉などによっても動揺したりするのではないでしょうか。

しかし、この詩編の詩人は、「たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。」と言っています。どんなことに遭遇しても、動揺したり不安な気持ちをもたずに、泰然としていられればいいな、と思います。しかし、中々そんなことは出来ないでしょう。この詩人がどんな時にも泰然と出来たのは、この詩人がどんな時にも神が共にいて下さる、と確信していたからでしょう。

8節には、次のようにあります。

   万軍の主はわれらと共におられる、
  ヤコブの神はわれらの避け所である。

 聖書の言葉というのは、「苦難の時」に大きな力を与えてくれるものです。

 

 

 

   空手部 インターハイ兵庫県予選 結果報告

6月8日~10日で行われました、空手インターハイ兵庫県予選の結果を報告いたします。

団体 組手 優勝
    形 優勝

個人 組手 優勝
    形 3位

応援、ありがとうございました!

 

   空手部 KARATE1ユースリーグ・ソフィア大会にて銀メダル

5月25日~27日にブルガリア・ソフィアにおいて開催された『KARATE1 ユースリーグ2018 ソフィア大会』が行われました。
71の国と地域から、延べ1858名のエントリーがありました。この大会は、世界空手連盟(WKF)が今年からスタートさせたジュニア世代の国際シリーズ大会「ユースリーグ」の第一回目の大会です。

本校からは、高校3年の田畑梨花さんがエントリー。
ジュニア女子組手-48kgにて銀メダルを獲得しました。

おめでとうございます。

    

 

  2018-06-21 柔道部 インドネシア代表チームと合同練習を行いました。

柔道部にインドネシアのナショナルチームが来校し、合同練習を行いました。

はじめて外国の選手と組む生徒も多く、非常に緊張していましたが、世界で戦っていくためと練習に励んでいました。

英語が苦手な生徒も、身振り手振りでなんとかコミュニケーションをとろうとする姿がみられ、柔道以外の部分でも学ぶことが多かったのではないでしょうか。

ナショナルチームは、本日まで合同練習を行う予定です。

    

 

  2018-06-19 花の日礼拝を行いました。

本日、本校アリーナにて花の日礼拝を行いました。

 「花の日」の礼拝は、19世紀中頃、アメリカ合衆国の教会で、6月第2日曜日に礼拝堂を美しい花で飾り、子供を祝福する礼拝を行うようになったのが始まりです。

本校でも花の持ち寄りをお願いし、たくさんのお花が集まりました。ご協力ありがとうございました。

日本基督教団京都教会 伝道師の大川 祈先生にお越し頂き、「野に咲く花のように」という題でお話ししていただきました。

    

全校生徒が持ち寄った美しい花の中で礼拝を行い、その後、その花を本校生徒及びご家族の長期療養者、市内の社会福祉施設、医療施設、公共機関などへ、お見舞いと感謝の気持ちを込めてお配りしました。
市内の施設からも「この日を楽しみにしている。」との声をいただき、本当に感謝です。

 

  2018-06-18 地震発生に伴う学校状況と明日について

交通機関が再開しだし、生徒の帰路の確保ができました。ご協力ありがとうございました。

明日の登校について連絡します。
明日、特に問題がなければ通常通り授業を行います。
ただし、自宅周辺が危険な状態な場合、及び登校に支障をきたすような状態であれば自宅で待機してください。その場合、必ず保護者から学校に連絡をお願いいたします。
また今後緊急を要する事態があった場合、明日の朝6時に判断をし、フェアキャストを配信する予定としています。

 

   地震発生に伴う学校状況について 2

現在学校に待機している生徒で、交通機関が動いて帰路が確保されている生徒については、帰宅させます。また、保護者の方で学校にお迎えが可能な方はお願いいたします。

なお、山陽電鉄が西代駅から西方面が運行しています。神戸電鉄も運行しています。

そこでスクールバスにて新開地駅・西代駅へ送迎をします。(13時学校発)

 

保護者との連絡を引き続きとれるようにしておいてください。

帰宅したら、学校に必ず連絡するようにしてください。

 

   地震発生に伴う学校状況について

7:58に大阪部北部を震源地とした地震発生により、本校でも大きな揺れを観測しましたが、被害はありません。現在、出席状況の確認を行っております。

学校に登校している生徒は、学校待機としています。

交通機関も不通の状況が続いておりますが、保護者におきましても、生徒におきましてもできる限り連絡がつくようにしておいてください。

 

  2018-06-15 全校礼拝 ルカによる福音書15章8~10節 「かけがえのないもの」

2018年6月15日(金) 全校礼拝が行われました。
宗教主事の樋口進学院長が、
ルカによる福音書15章8~10
節 「かけがえのないもの」 と題して、お話をしてくださいました。


今読んでいただいた話は「無くした銀貨」のたとえ、と言います。
ある女の人が銀貨10枚もっていて、その1枚を無くしたところ、それが見つかるまで家中をひっくり返して一生懸命捜した、という話です。これは当たり前のように思われます。私たちだって、お金を無くした場合には一生懸命捜すでしょう。しかし、ここでこの女の人の態度が不思議に思えるのは、無くした銀貨が見つかった時の態度です。この喜びの態度です。

見つかった時に、友達や近所の人を集めて「一緒に喜んで下さい」と言った、と言うのです。私たちもお金を亡くした時に、それを一生懸命捜しはしますが、それが見つかった時に、友達や近所の人たちを集めてこういうことをするでしょうか。莫大なお金を無くして、それが戻ってきた場合には、あるいはそういうこともするかも知れません。しかし、ここの銀貨というのは、そんなにびっくりするほど高価なものではありません。

これは、ギリシアのドラクメ銀貨というもので、労働者の一日の賃金に相当する位であると言われています。当時の低賃金から考えて、仮に千円、あるいは2千円とします。そのくらいのお金が一生懸命捜して見つかった時に、近所の人や友人を呼んで、この当時の習慣として、そういう場合は必ず大判ふるまいをするのです。費用としては、当然見つかったお金よりもはるかに多くの費用がかかるのです。このような喜びを果たして私たちはするでしょうか。

それは、この女の人にとってその無くした1枚の銀貨は、他のものには代えられない、かけがえのないものであったからです。他の人にとっては、ただの1枚のそれほど価値のない銀貨かも知れませんが、この女の人にとっては、他のものに代えられない大切な銀貨だったのでしょう。千円、2千円位のものであれば、無くしても、またそれを手に入れてそれで代わりをすればいいと思うかも知れません。しかし、この女の人にとっては、それが出来なかったのです。それには、この銀貨には、この女の人にとって、何か特別の訳があったのです。

10枚の銀貨をもっていた、とあります。ここにあるいは特別な意味があるのかも知れません。当時のパレスチナの貧しい娘が結婚する時、10枚の銀貨を鎖に通して、結婚の記念として両親がもたせた、と言われています。恐らくここでも、この女の人が結婚する時に、その記念として両親からもらった銀貨の10枚だったのでしょう。それであるなら、他の人にとってはただの、それほど価値のない銀貨であったかも知れないが、この女の人にとっては、他の何ものにも代えられない貴重なものだったのです。

さて、この譬えでイエスが言おうとしていることは、神は私たち一人ひとりを他の何ものにも代えることのできないかけがえのないものとされている、ということです。親が自分の子を気に入らないから、それをだれかにあげて、もっと気に入る他の人をもらう、ということはないでしょう。たとえどんな子であっても、親にとって子はかけがえのないものです。それと同じように、神にとって私たち一人ひとりは、それ以上にかけがえのないものとして下さっている、というのが、この譬えでイエスが言わんとすることです。

しかし、私たちは、神からそんな大切にされていることに気がついていないかも知れません。もし、そのことに気付いたら、神は大喜びをしてくれる、と言うのです。そこで、10節を見て下さい。
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」とあります。罪人とか悔い改めと言われていますが、要するに、わたしたちが神によってかけがえのないものとして愛されているのだ、ということに気がつくことが出来るならば、神はとても喜んで下さる、ということです。

また、明後日は「父の日」ですが、普段あまり気がついていないかもしれませんが、皆さんのお父さんも皆さんをかけがいのなない者として大事にして下さっていると思います。何らかのかたちで感謝の気持ちを表してはいかがでしょうか。

 

 

   高3研修旅行 帰国

11日(月)よりマレーシア、シンガポールへ研修旅行に出発していました高校3年生。

悪天候のため飛行機到着が10分弱程遅れましたが、その後入国手続きを済ませ予定通り6:30頃に到着ロビーへ。

長旅の疲れもありましたが、元気な姿で帰国してくれました。

それぞれがこの一週間で学んだこと、経験したことをはとても貴重なものになってのではないでしょうか。

帰って家庭や学校でたくさん思い出話を聞かしてくれることでしょう。

    

 

  2018-06-11 高校3年生 研修旅行に出発

本日より高校3年生が研修旅行のため出発しました。

早朝7時45分、関西国際空港に集合し、これから始まる研修旅行での注意事項をもう一度確認し、日本を出発しました。
まだ日本にいるのにも関わらず、出国手続きの前に「先生、ここは日本語が通じますか?」と緊張している生徒もいました。
海外初体験の生徒も多いようで、楽しみと期待半分、不安半分というようなところでしょうか?
    
    

日本では味わえない体験をたくさんして、無事に帰ってきてもらいたいと思います。

 

  2018-06-08 全校礼拝 ルカによる福音書14章11-19節 「謝ること」

 

2018年6月8日(金) 全校礼拝が行われました。

宗教主事の樋口進学院長が、
ルカによる福音書14章11~19節 「謝ること」 と題して、お話をしてくださいました。

今日読んでいただいた聖書の物語は、イエスが話された「放蕩息子のたとえ」という話です。
長いので、今日は途中まで読んでいただきましたが、有名な話なので皆さんも聞かれたことがあると思います。ある人に二人の息子がいましたが、弟の方がお父さんから財産を分けてもらい、それを全部遊びに使ってしまって無一物になった、という話です。

この弟は、食べる物に困った時にもお父さんのことを思い起こして、お父さんに全部正直に話して心から謝ろうとして家に帰りました。そしてお父さんに、先ほど読んでいただいたように言って謝った、というのです。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』それを聞いたお父さんは、腹を立てたのではなく喜んで、赦してくれただけでなく大ごちそうをしてくれた、というのです。

何か間違ったことをした時、悪いことをした時、約束を破ってしまった時、私たちはどうするでしょうか。まず考えることは、何とかごまかそうとする、そのために嘘をついてしまうということではないでしょうか。正直に話して謝るということは、なかなか勇気のいることです。

先日の日大と関学のアメリカンフットボールの試合で、違法なタックルをして、関学の選手にけがを負わせた日大の選手は、記者会見の席で自分のした過ちを正直に言って謝罪しましたが、とても勇気のいることだったと思います。しかし、この態度は多くの人に非常に好感を持たれたと思います。

最近よく読まれている本に『君たちはどう生きるか』というのがあります。この著者は、吉野源三郎という人でもう80年以上も前に書かれた本です。そんな昔の本が今またブームになり、漫画にもなっているそうです。

この主人公は、コペルくんという旧制中学生の生徒です。コペルくんというのはあだ名で、彼のおじさんが天文学者のコペルニクスからとったあだ名です。コペルくんには、北見君、水谷君、浦川君という仲良しの友達がいました。この中学校には、たちの悪い上級生がいました。特に北見君は、上級生ににらまれていました。そこで四人はある約束をします。それは、一人が上級生にいじめられた時には、名乗り出て一緒に制裁を受けよう、という約束です。

そしてある雪の日に、北見君は上級生に言いがかりをつけられて殴られます。それを見ていた水谷君と浦川君も仲間だと言って名乗り出ます。コペルくんも見ていたので名乗り出ようとするのですが、怖くなって足が動きません。そうこうするうちに三人は、上級生に乱暴されました。コペルくんは何度か名乗り出ようとするのですが、どうしても出ることができなくなります。そうこうするうちに授業の鐘が鳴って、上級生たちは引き上げていきます。そして、乱暴された三人は、肩を組んで行ってしまいました。

コペルくんは、とうとう三人の前に出ることはできませんでした。友達を裏切ってしまったという後悔の念に襲われ、夜も寝ることができず、とうとう病気になってしまいました。コペルくんは、最初言い訳をしようと思いました。じつは、あの現場を見ていなかったのだ、と。しかし、それは嘘になってしまいます。

そこでコペルくんは、一番信頼していたおじさん(お母さんの弟)に相談します。するとおじさんは、正直な気持ちを手紙に書いて送ることを提案してくれました。そしてコペルくんは、言い訳をするのでもなく、ごまかしたり嘘を書くのでもなく、正直な気持ちを書いて、心から謝ったのです。それを読んだ三人は、その手紙を喜んでくれ、後日コペルくんの家を訪ねて再び友情が保たれた、ということです。

先ほどの放蕩息子の話でも、コペルくんのことでも、なにか間違ったことや悪いことをしてしまった時、また約束を破ってしまった時は、言い訳したり、ごまかしたり、嘘をついたりせずに、正直に言って謝ることが大切です。それは、非常に勇気のいることですが、そのことによって本当に信頼が回復すると思います。また、放蕩息子のお父さんが大喜びしたように、神が喜んでくれると思います。

 

 

  2018-05-30 5月25日柔道 グランプリフフホト(シニア国際大会)に-52kg級で優勝しました。

5月25日に中国で行われましたシニアの国際大会であるグランプリフフホトに-52kg級の阿部詩が出場しました。
結果はオール一本で優勝!!
世界選手権へ向けいいスタートがきれました!

 

   5月20日柔道 マルちゃん杯近畿予選にて3位入賞しました。

5月20日に行われました、マルちゃん杯の近畿予選で男子中学生団体において3位入賞を果たし全国大会への切符を獲得しました!
夙川柔道部史上初めての男子での全国大会出場です!これからも応援よろしくお願いいたします。

 

   5月20日柔道 ポーランドカデ国際大会-70kg級 優勝しました。

ポーランドにて行われたカデカテゴリーの国際大会に-70kg級で日本代表として出場した本校高校1年の桑形萌花が優勝しました!

応援していただいていた皆様ありがとうございました!

 

  2018-05-18 全校礼拝 マタイによる福音書7章7~12節 「求めなさい」

2018年5月18日(月) 全校礼拝が行われました。

宗教主事の樋口進学院長が、
マタイによる福音書7章7~12節 「求めなさい」 と題して、お話をしてくださいました

私たちにとって、探求心というのは、非常に大事だと思います。
今お読みしましたマタイによる福音書7章7節には、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」とありました。

この言葉は、習字で書かれたものが額に入れられて、学内のどこかに飾られていますが、ご存じでしょうか。音楽室の前の階段の横の壁に飾られていますので、また見ておいて下さい。これは、以前に習字を教えておられた米田先生という書道の先生が書いて下さったもので、とても値打ちのあるものです。

この言葉は非常によく知られている言葉ではないでしょうか。キリスト教を知らない人でも、この言葉を知っている、と言う人も多いのではないでしょうか。これは、一生懸命探求すれば必ず与えられると解釈されて、多くの人の心に留められているのではないでしょうか。

ここでイエスは、単なる処世訓を言っているのでありませんが、しかし私たちが神に一生懸命求めるならば、神は必ずそれを与えて下さる、ということを言っているのです。それでは、私たちがどんなことを求めても、神は与えて下さるのでしょうか。

例えば、自分の嫌いな人が不幸になることを求めても、神はそれに答えてくれるのでしょうか。恐らくそんな自己中心的な求めには答えてくれないでしょう。今、ニュースで話題になっている関学と日大とのアメリカンフットボールの試合で、日大の選手が違反のタックルをして関学の選手に怪我を負わせたという事件は、試合に勝ちたいという求めが相手を不幸にさせるということで、これは神に認められる求めとはいえません。「求める」という場合、自分のことだけを求めるなら、それは自己中心的になり、他の人を苦しめるという結果になりかねません。

そこで、イエスは、相手の立場に立って考えるべきだとして、12節において、次のように言われました。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
宮沢賢治は、「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と言いました。自分の幸福が他の人を不幸にしているということがよくあります。戦争なんかはそうでしょう。こちらが勝利すれば、相手は不幸になっている訳です。自分が何かを求める時、他の人も同じ求めをもっている、ということを考える必要があります。

イエスが教えた「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という言葉は、一般に「黄金律」(Golden Rule)と言われています。その名の通り、最も高い人間の倫理でしょう。もしすべての人がこれをすることが出来れば、世の中は幸福になると思います。これと同じような教えは他の宗教にもあります。

例えば、中国の孔子は論語の中で、「己の欲せざるところは、人に施すなかれ」と教えました。これは、儒教の教えとして、日本人にも深く浸透しているのではないでしょうか。親が子によく言うことは、「とにかく、人に迷惑をかけないように」ということではないでしょうか。
ユダヤ教のタルムードに於いてもこの論語の言葉とよく似たものがあります。「あなたの望まぬことを、あなたの隣人に対してしてはならない。これが法のすべてである」という言葉です。いずれも、自分にとっていやなことを他人にしてはならない、という教えです。これは重要なことであり、人間が社会生活を営んでいく時には守らねばならない基本的なことでしょう。

しかし、イエスの教えた黄金律は、これと少し違います。すなわち、自分にとっていやなことを他人にするなというのは、少し消極的な態度です。他人に迷惑にならないように、当たり障りのない生き方をする、ということになります。これに対してイエスの「人にしてもらいたいことは、人にもしなさい」というのは積極的な態度です。しかし、それはなかなか困難なことです。

イエスの姿勢は、人に求める前に、自らがその人になしていく、というものです。もし、人に信用されたいと思うなら、自分がまずその人を信用することです。相手を心の底から信用していないのに、どうして相手から信用されるでしょうか。もし、友達に愛されたいと思うなら、まず自分が本当にその友達を愛していくことです。人に尊重されたいと思うなら、自分がまずその人を尊重することです。イエスはまさにこれを行われたのです。

しかし、私たちには、なかなかそのことは難しいのです。どうしても、自分中心的な求めになりがちです。そこで7節にかえって、「求めよ」というのは、この黄金律に従うことの出来るようなあり方を求めよ、ということではないでしょうか。私たちのいろんなことを求める探求心は、非常に重要ですが、それが自分だけのものとなるのでなく、他の人のことも考える心を持ちたいと思います。

 

 

  2018-05-12 文化祭2018

本日、本校にて2018年度の文化祭が行われました。

天候にも恵まれ、生徒も汗を流しながら来てくださった方々のために一生懸命動く姿がすごく印象的でした。

    

             
模擬店には開場から終日多くの人で賑わいました。

         
展示会場にも多くの人に来ていただき、日頃の成果を見ていただきました。

    
ステージ発表にも多くの人で空席の方が少ないくらいでした。どのクラブも大盛り上がりのうちに終えることができました。

来場者は約800人でした。本当に多くの方に来ていただきました。ありがとうございました。

 

  2018-05-11 ただいま文化祭準備中!

明日、本校では文化祭ですが、その前に全校生徒でステージ発表は鑑賞しました。

   

午後からはそれぞれの準備を行いました。

   

   

来てくださった方々が楽しんでいただけるよう、心を込めて準備中です。

 

  2018-05-02 2018年度 小学生保護者対象学校説明会

2018年度学校説明会のご案内

5月15日(火)19日(土)25日(金)に開催される

小学生保護者対象学校説明会につきましては、こちらのフォームからお申し込みください。

 

  2018-04-28 学級懇談会・進路説明会が行われました。

本日、本校にて学級懇談会が行われました。
高校3年生は学級懇談会に先立って、進路説明会も行われました。

      

クラスの保護者が集まって話せる貴重な機会とあって、たくさんの保護者の方が参加してくださいました。
ありがとうございました。

 

  2018-04-27 全校礼拝 ローマの信徒への手紙5章1~5節 「苦難から希望へ」

2018年4月27日 全校礼拝が行われました。

宗教主事の樋口進学院長が、
ローマの信徒への手紙5章1-5節  「苦難から希望へ」
と題して、お話をしてくださいました。

 皆さんは、何か苦難にぶつかったことがあるでしょう。そういう時、どうしますか?
そういう時には神や仏に祈ったりと言うことはないでしょうか。「困った時の神だのみ」という言葉があります。何とかして、その苦しみから救われたいと祈るのではないでしょうか。

 しかし、先程読んで頂いたローマの信徒への手紙5章3節で、パウロは「苦難をも誇りとします」と言っています。以前に訳された口語訳聖書では、「患難をも喜んでいる」と訳されています。患難とか苦難は、私達にとっては、決して歓迎すべきものではないでしょう。少なくとも、それを喜んだり、誇りにしたりするものではないでしょう。そういう事態は出来るだけ避けたいし、もし起こっても出来るだけ早く取り除いて欲しい、と思うものではないでしょうか。そして、そのために神仏に願ったりするのです。

 しかしここでパウロは、「苦難をも誇りとします」と言っています。どうしてでしょうか。それは、その苦難はそれに終わらず、希望へと通じていることを信じていたからです。それは、神を信じ神に委ねることから与えられる希望です。

 皆さんもよくご存じだと思いますが、星野富弘という人がいます。彼は元々、運動のすごく出来る人でした。そこで、体育の先生になろうと思って、群馬大学の体育科に入り、そこを無事卒業して、念願の通り群馬県の高校の体育の教師になりました。
 
そして、2カ月たったある日、クラブ活動の指導中、器械体操をしていて、誤って墜落し、首の骨を折り、肩より下がすべて麻卑するという障害を負いました。念願の体育の教師になったのもつかの間、たった2カ月で、不治の病にかかったのです。星野さんは、もう目の前が真っ暗になってしまいました。
首の骨の所には、体中の神経をつかさどる中枢があって、彼の場合、肩から下に行く神経がやられてしまったので、手も足も一切動かすことが出来なくなりました。ベッドに横になって、ただ天井を見つめるだけの生活でした。
 
ただ、首から上の神経はやられなかったので、口を動かしたり、目で見たり、耳で聞いたり、また頭で考えたり、ということは出来ました。目で本を読むことは出来たので、最初はお母さんに本を持ってもらって、後には本を乗せる道具を作ってもらって本を読みました。
 
彼を励ます人もたくさんいて、病院にお見舞いに来ては、励まし、本も置いていきました。そんな中で、教会の人が聖書を置いて行きました。星野さんは、聖書を所々読むうちに先程のローマの信徒への手紙5章3~5節を読んだのです。口語訳聖書で読みました。そこには次のようにありました。

「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。」

 これを読んだ時、彼は自分は手も足も動かないけれども、自分にも何か希望があるように思えてきました。そこで、たった一つ動かすことのできる口を使って、何かをしようとしました。それは、口にサインペンをくわえて、字や絵を描くことでした。そして、本当によく努力をして、字を書くことを拾得しました。また、絵も描きました。そして、今や何冊もそのような絵と詩の書かれた本が出されています。こんな素晴らしい絵を口で描いているとは信じられないほどです。人間、希望に生きることが、いかに大きな力を与えてくれるか、ということが分かります。

 このローマの信徒への手紙を書いたパウロという人も、実にいろいろな苦難に遭遇しましたが、その苦難自体を見て絶望的な思いを抱くのでなく、その苦難は忍耐を通して、希望へとつながっていることを確信したがゆえに、大きな働きをなすことが出来たのです。
 
苦難を経験しない人はいないと思います。私たちも長い人生の中に置いて、多かれ少なかれ何らかの苦難に遭遇します。あるいは皆さんの中にも、現在何らかの苦難を抱いている人もいるかも知れません。その時に、絶望に打ちひしがれてしまうのでなく、忍耐をしつつ、その中になんらかの希望を見いだして、希望に生きる者でありたいと思います。

 

 

 

  2018-04-25 イースター礼拝が行われました。

4月24日(火)6限 本校にてイースター礼拝が行われました。

・イースター(復活祭)とは・・・
十字架で死んだイエスが、3日目の早朝に復活したという出来事を記念する日です。
移動祝日(年によって日が異なる祝日のこと)で、毎年春分の日の後の最初の満月の次の日曜日と決められています。今年は、4月1日でした。
イースターの前日までの日曜日を除く40日間を受難節(レント)といい、イエスの十字架の苦難や死の意味について(ひいては自分の周りにもある苦難や死についても)心静かに考える期間を過ごします。それを考えることは、生きることの意味を考えることにつながります。最近では、様々な場所でイースターを春のお祭りとして祝うことも多くなってきていますが、正確にはまだイースターではなく、レントの期間ということになります。
イースターには、新しい命の象徴(命が生まれる)としてゆで卵をデコレーションしたイースターエッグを飾りお祝いします。その卵はイースターの前日にイースターバニーが運んでくる(ウサギは多産の象徴である)という伝説があるため、卵とうさぎがお祝いに使われます。キリスト教の三大祭りの一つでクリスマスより大切にされています。
神がイエスを死から復活させたということは、具体的には、死に象徴される悲しみ、不安、絶望から、喜び、安心、希望へと神が転換させてくれることを信じて希望をもって生きよう、というメッセージがあります。

 

聖書    エゼキエル書37章1~10節(旧1357 ページ)
メッセージ    「絶望から希望へ」 樋口 進 学院長

今日はイースター礼拝です。今日はイースター礼拝です。イースターは、キリスト教の三大祭りの一つです。
イースターは、年によって日が違うのですが、今年は、4月の1日でした。ちなみに来年は、4月21日にあたります。年によっては3月の末になることもあります。とにかく、イースターは、イエス・キリストの復活を記念する日です。復活とは、死んだ人が生き返ることです。そんなこと私たちの頭では考えられないことです。これを科学的に証明する方法はありません。具体的にどういうことが起こったのか、それは聖書にもはっきりとは書かれていないのです。書かれているのは、それぞれの弟子たちが、復活のイエスに出会ったというそれぞれの体験が書かれているのです。それぞれが違う体験をしているのです。ある人は、道を歩いている時に復活のイエスに出会ったのだが、最初のうちはそれが誰か分からなかった。だが、一緒に食事をしている時に、それがイエスだと分かった、しかしその瞬間に消えてしまったというのです。
しかし、共通して言えるのは、その体験によってみんな希望が与えられた、ということです。弟子たちにとって、イエスが一番大事であり、一番頼りにしていたのです。そのお方が、突然、十字架にかけられて殺されてしまったのです。ここで、彼らはみんな、絶望状態に陥ったのです。しかし、復活のイエスに出会うという体験をすることによって、絶望が希望に変えられたのです。そして、イエスの教えていたことの意味がはっきりと分かったというのです。そして、そのイエスの教えを他の人に伝えていく力が与えられたというのです。 さて、今日お読みしたのは、旧約聖書のエゼキエル書です。これは、イエスよりも600年位前の預言者が見た幻の記事です。この幻も、イエスの弟子たちが体験したのと同じようなことが言われています。どんな幻かというと、ある谷に多くの骨が散らばっていた、というのです。おそらくここで、かつて戦いがあり、多くの兵士が殺されたのでしょう。しかし、それから相当時が経ち、もう骨は白骨化していた、というのです。しかし、その枯れた骨に、預言者が神の言葉を語りかけ、神の霊が吹きかけられると、それらは生き返り、多くの兵士となった、と言うのです。ただこれは、幻であって、実際にこのようなことが起こった、というのではありません。それでは、この幻が意味していることは何か、ということです。それは、その後に書かれているのですが、「枯れた骨」というのは、当時のイスラエルの人々の絶望状況を表しているのです。当時のイスラエルは、バビロニアという国に滅ぼされ、多くの人が捕虜として、敵の地に連れて行かれたのです。そこで人々は、絶望状況に陥ったのです。
しかし、この預言者が、その絶望している人々に神の言葉を語り、神の霊が働いてくれるように祈ったところ、生きる希望を与えられた、ということなのです。絶望が希望に変えられた、これが復活の体験なのです。まさに絶望状況にある人に希望が与えられた、これが復活の体験だったと思います。 「アンパンマン」という漫画の作者であるやなせたかしさんは、92歳で亡くなりましたが、彼の自伝的な本に『絶望の隣は希望です』というのがあります。彼は、次のような詩を作っています。
  絶望のとなりに
  だれかがそっと腰かけた
  絶望はとなりのひとに聞いた
  「あなたはいったい誰ですか」
  となりのひとはほほえんだ
  「わたしの名前は希望です」
これは、やなせさんの実際の体験から作られた詩です。彼は、漫画家になったのですが、40代、50代の頃は、代表作がなく、いろんな仕事をしながら、生計を立てていたそうです。そしてしばしば絶望状態に陥ったそうです。そんなとき、ある漫画家の先輩からこう言われたそうです。
「やなせ君、きみが落ち込む気持ちは分からんでもないが、人生はね、一寸先は光だよ。いいね、途中でやめちゃったら終わりだよ」と。ここでやなせさんは、先輩の「一寸先は光」と言われた言葉に、非常に励まされ、地道に漫画を書き続け、ついに「アンパンマン」で大ヒットした、ということです。これはもう、60歳になる頃だったということです。ここから、絶望のとなりに希望がある、という詩を書いたのです。イースターの時に弟子たちが体験したことも、先ほどのエゼキエル書の幻においても、絶望が希望に変えられたことが言われていました。私達も、絶望に陥ることなく、希望をもって人生を歩みたいと思います。それが、私たちにとっての「復活」と言えるのではないでしょうか。

 

礼拝後には、「振り返りとこれからの思い」というテーマで、中1、高1は新しい学校でどんな目標・夢をもって過ごしたいか、中2、3 高2は去年を振り返って、これからどんなことを頑張りたいか、やりたいか、高3はこれからの希望、夢、進路へ向けて考えていることなどを全校生徒が作文を書きました。その中から学年の代表者が作文発表を行いました。

それぞれの想いがつまった文章は、聞いている方も心を動かされました。
この想いを大切に、新年度を歩んでいってほしいと思います。

 

  2018-04-20 全校礼拝 マタイによる福音書25章14-18節  「プラスに考える」

本校では週3日、全校生とが集まって礼拝の時間をもっています。
本日は礼拝で話された内容を紹介します。

 

マタイによる福音書25章14-18節  「プラスに考える」
学院宗教主事 樋口進

皆さんが学校の帰りに財布を見て、五百円入っていたとします。
するとどう思うでしょうか。
ある人は、「あっ、五百円もあったのか。そしたらこれを有効に使おう」と考えて、何に使うかあれこれ考える人もいるでしょう。こういう人はプラスに考える人でしょう。
また、ある人は、「なんだ、五百円しかないのか。これでは何も出来ないわ」と言って、何もせずに家に帰る人もいるかも知れません。こういう人は、マイナスに考える人でしょう。
同じ事態に直面しても、それをプラスに考える人と、マイナスに考える人がいます。
そして、プラスに考える方が、より豊かな人生を送れると思います。

田原米子さんという人は、非常に数奇な運命を歩んだ方です。彼女は、16歳の時、非常に慕っていた母を脳溢血で亡くしました。非常に慕っていた母を突然失ってしまったことで、彼女は絶望的になり、人生に希望を見いだせず、ついに鉄道自殺を図りました。
人間は、長い人生の中で、絶望的になることもあります。そして、いっそのこと死んでしまいたいと思うこともあります。彼女は、東京・新宿駅で、ホームに入ってくる電車に身を投げたのです。
一命は取り留めたものの、両足と左の腕を切断しなければなりませんでした。彼女が病院で気付いた時には、右手に巻かれた包帯の先から、わずかに残った3本の指だけだったのです。
これを知った彼女は、「たった3本の指で何が出来るのか」という思いで、再び絶望状況に陥り、死ぬことばかりを考えていた、と言うことです。
しかしその後、熱心に病院にお見舞いに来てくれる宣教師とクリスチャンの青年から聖書の話を聞き、キリスト教に触れ、神の愛を知るようになりました。
そして、今までは、「自分にはたった3本の指しかない」とマイナスに捉えていましたが、「神は自分に3本の指を残してくれた」とプラスに捉えるようになったのです。
そして、神が自分に指を3本も残して下さった、この指で自分に出来ることをしよう、と思うようになったというのです。
そして田原米子さんは、それから病院に見舞いに来てくれていたクリスチャンの青年と結婚し、たった3本の指を一生懸命訓練して料理も上手にするようになりました。その後二人の女の子も与えられ、3本の指で子育ても立派にされたのです。そして、自分の体験を積極的に多くの人に講演して、特に障害のある人たちに多くの希望と力を与える活動もしてきました。
「3本の指しかない」とマイナスに捉えていた時は、死ぬことだけしか考えていなかったと言います。しかし、「神様が3本も指を残してくれた」とプラスに捉えるようになってからは、実に積極的な生き方に代わり、多くの人に希望と力を与える人生になったのです。
「3本しかない」とマイナスに捉えるのと「3本もある」とプラスに捉えるのでは、人生が大きく違ってくるのです。

先ほど読んだ聖書の箇所は、イエスが話された「タラントンのたとえ」という話の一部です。タラントンというのは、能力のことです。
そして、この譬えでは、3人の人がそれぞれ5タラントン2タラントン1タラントンを預けられた、と言われていますが、これは与えられた能力には差があるというのでなく、それぞれにはそれぞれ違った能力が与えられている、と言うことではないかと思います。
それを能力の差と捉えるならば、多く与えられていると思う人は優越感を抱き傲慢になります。
また、少ししか与えられていないと思う人は、劣等感に陥り、せっかく与えられたタレントを見失ってしまいます。それが、今日の譬えの1タラントンを預けられた人です。
1タラントンを預けられた人は、他の二人と比較して、自分には1タラントンしか与えられていないとマイナスに考え、それを活用せずに隠してしまった、と言うのです。しかし、1タラントンというのは、実は莫大なものなのです。本当は、1タラントンも与えられたのだ、とプラスに考えていい額なのです。

田原米子さんは、3本の指しか残されなかったのです。しかし彼女は、「3本の指しか」と捉えないで、3本も指があることは神の恵みだとプラスに捉えたのです。そして、3本の指を土の中に隠すのではなく、それを十分に用いて、素晴らしいことを行ったのです。
他の人と比較をするところからは、そのような積極的な行動は出てきません。そうではなく、神から自分に与えられている恵みに目を向けるのです。そうするとそれをプラスに捉えることができると思います。そうすると、素晴らしい人生が歩めると思います。

 

  2018-04-19 4月19日(木)新入生オリエンテーション合宿に出発しました。

本日から2日間、今年度夙川学院に入学した高校1年生と中学1年生がオリエンテーション合宿に出発しました。
天候もよく、穏やかな気候の中、学校に集合した新入生。
クラスで朝礼後、合宿先にむけてバスに乗り出発しました。
本日から1泊2日で、学習やアクティビティを行う予定です。

                  

 

  2018-04-16 4月16日(月)芸術鑑賞会が行われました。

4月16日(月)芸術鑑賞会が本校アリーナにて行われました。
今年度は大阪交響楽団の方に来ていただき、オーケストラの生演奏を披露していただきました。
目の前で聞く迫力のある演奏に、生徒達も聞き入っていました。

【 演 目 】
1:歌劇「フィガロの結婚」序曲
2:「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲
3:バレエ組曲「くるみ割り人形」より  ”小序曲、行進曲、花のワルツ”
4:ラデツキー行進曲
6:オーケストラの仲間たち(楽器紹介メドレー)
7:交響曲9番「新世界より」第4楽章
8:校歌

  
演奏中に拍手で参加する場面などあり盛り上がりました。

  
最後は全員で校歌斉唱。大迫力の校歌はまた違った印象を与えていただきました。

 

  2018-04-12 4月9日(月)始業式が行われました。

4月9日(月)、本校にて始業式がおこなわれました。

久しぶりの友人との再会に笑顔で「おはよう」と挨拶し合い、クラスや教室が変わり新しい気持ちで一年をスタートさせました。

始業式のあとは、2・3年生は1年生との対面式を行い、続いてでクラブ紹介を行いました。

   

クラブ紹介では、各クラブが活動場所などの紹介を行いました。中には実演をするクラブもあり、これから何のクラブに入ろうかと迷っている生徒にはイメージがつきやすかったのではないでしょうか。

1年生だけでなく、2年生などの入部も大歓迎です。運動部だけでなく、文化部も入部する生徒も多くなり活性化してきています。

ぜひ体験入部をしてそれぞれのクラブの特徴を知り、学校生活がより充実したものになればと思います。

 

  2018-04-07 4月7日(土)2018年度 入学式が挙行されました。

4月7日(土)本校にて、入学式が挙行されました。

高校は10:00~、中学は14:00~行われ、それぞれ真新しい制服に身をつつんだ新入生たちが夙川学院の門をくぐり、新たな生活をスタートさせました。
   

夙川学院での1日1日を大切に、勉強にクラブに頑張ってほしいと思います。

 

  2018-03-16 平成29年度三学期終業式

本日、平成29年度夙川学院三学期終業式が行われました。
 

1年の締めくくりと振り返りを行いました。
4月までの休み期間は、来年度の準備期間でもあります。新入生を明るく出迎えられるよう、全員が先輩としてこの期間にしっかり備えておきましょう。

 

  2018-03-12 3月10日(土)中学校卒業式が行われました。

3月10日(土)に、2017年度夙川学院中学校卒業式が執り行われました。
今年度は19人の生徒が夙川学院中学校を卒業しました。

《卒業証書授与》

《理事長祝辞、校長式辞》
 
《送辞、答辞》

在校生による送辞、卒業生による答辞では、中学3年生はほとんど全員が涙を流していました。
後輩と同級生の言葉から、中学校生活の思い出が頭をめぐったのでしょう。

《卒業生による歌、最後の花道の様子》

本校で3年間学んだことを忘れず、未来に向かって元気に羽ばたいてください。
新しい場所でも、皆さんが皆さんらしく、幸せに過ごせることを祈っています。

 

  2018-03-06 学年末指導・生徒指導講演会

本日、学年末指導生徒指導講演会が行われました。



学年末指導では、追試験・再試験についてのお話しや、”出席・成績・ルール”の3つの大切さについても聞きました。来年度はより多くのことに挑戦し、時間を有効活用してもらいたいと思います。

 

 
生徒指導講演会では、インターネットを使うときに気をつけることと考えることについて、スライドを使ってLINE会社の方に紹介して頂きました。
会話はキャッチボールと同じで、実際にキャッチボールをして体験してもらいました。
ネットは顔が見えないので、誤解されやすいものです。特に写真をあげるときは、二呼吸置いてからトラブルをおこさないように気をつけておきましょう。

 

  2018-02-16 2月14日(水)卒業送別礼拝が行われました。

2月14日(水)に卒業送別礼拝が行われました。

本校は、中学3年生、高校3年生が卒業するにあたり、毎年キャンドルを灯す礼拝を行っています。
 「希望の光」と題して、樋口牧師が卒業生にメッセージを贈りました。

 メッセージの後には、生徒自治会がろうそくの火を付けにまわり、在校生は隣の人に火を付けていきました。ろうそくの火を静かに見つめ、何を思ったでしょうか。
 
 
 卒業していく生徒達の心の中に、夙川で過ごした日々の思い出と、未来への希望の光が輝き続けることを願います。

 

 「希望の光
エフェソの信徒への手紙5章6-8節  

今日は、中学高校の卒業送別礼拝です。
夙川学院では、卒業送別礼拝においてローソクに火を灯します。
これはもう70年くらいの歴史があります。

なぜ、こんなことをするのでしょうか。
ローソクの火は、光を象徴します。聖書においては、光は希望や救いを表します。
クリスマスにおいても、ローソクに火を灯しましたが、これは暗い世の中にキリストは、光としてこの世に来られ、私たちに希望や救いをもたらして下さったということ意味します。

皆さんは、真っ暗ということを経験したことがあるでしょうか。
真っ暗の中にいますと、本当に底知れない恐怖に陥ります。
皆さんは、停電を経験したことがありますか。
わたしの小さい頃は、よく停電がありました。
夜、停電になると、あたりが真っ暗になり、周りに何があるか一切分かりません。
ちょっとしたものにつまずいたりして、とても不安と恐怖に陥りました。
そして、しばらくして電気がつくと、ほっとしました。
旧約聖書の一番最初の所で、神は何もなかった所に、まず最初に光を造った、ということが書かれています。
これは、神はわたしたちに救いと希望を与えたということを言おうとしているのです。

卒業生は、今から、新しい進路に向かいます。
不安があるのではないでしょうか。
ローソクの火は、そのようなときに希望を持って歩んでください、というメッセージなのです。
不安を持ったとき、聖書を読んでください。
きっと、聖書の言葉は、皆さんに希望の光を与えてくれるでしょう。

それから、光には、もう一つ意味があります。
先ほどの聖書に、「光の子として歩みなさい」という言葉がありました。
これは、正しい歩みをする、ということです。人に恥じない正しい歩みです。
暗闇だと、何をしているのか分かりません。
不正なことは、闇として表現されます。
闇に支配されると不正が横行します。
先ほどの聖書に、「むなしい言葉に惑わされてはなりません」とありました。
闇に支配されると、空しい言葉に惑わされて、間違った方向に歩んでしまいます。
そのような所に行かないで正しい道を示してくれるのが光です。
光は正々堂々とした歩みです。
皆さんも、これからの歩みにおいて、正々堂々と正しい歩みをしてください。
その正しい歩みも、きっと聖書を読めば教えてくれるでしょう。

卒業する方々は、今後の歩みに不安や恐れがあるかも知れませんが、ローソクの光を思い出し、希望を持って、正しい道を歩んでください。
在校生の皆さんも、先輩にならって、希望を持って、勉学生活を続けて下さい。

そしてもう一つは、校長先生のもつ親火から次々と火が移されていきます。
これは、受け継いでいくということを意味しています。
皆さんは、夙川学院で学んで、上級生や先生方から夙川学院の伝統を受け継いできました。
夙川学院は、いまから137年前、増谷かめという18歳の女性が創立した学校です。
彼女は、生徒にこういう人になって欲しいという目標を持っていました。
それは、「徳の高い人を育てる」ということでした。
してこれは、夙川学院の教育理念として、ずっと継承されてきました。
最近ではそれに少し付け加えられ、「正義と平和を愛する徳の高い人を育てる」と言い表されました。
そしてその伝統を下級生にバトンタッチして行くのです。
下級生は、皆さんのよい伝統をしっかりと受け継いでいくのです。
そういう意味では、皆さんは、誇りを持って、自分に与えられた道を歩んでいって欲しいと思います。
そして、光を創造した神の恵みと希望を信じて、これからの道をしっかりと歩んでいっていただきたいと思います。

 

  2018-02-08 2月6日(火)放送礼拝メッセージ「思いやり」

 
ィリピの信徒への手紙2:1-4節  「思いやり」
学院宗教主事 樋口進

今日は、「思いやり」と言うことについて考えてみましょう。
この思いやりというのは、聖書の精神でもあります。
今お読みいただいたフィリピの信徒への手紙2章3-4節に、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」とありました。
「自分のことだけでなく、他人のことにも注意をする」、これは思いやりの精神と言うことができます。
これはとても大切なことであると思います。「思いやり」というのを『広辞苑』で調べてみると、「自分の身に比べて、人の身について思うこと」とあります。別の言葉で言うと、「その人の立場に立って思う」ということです。
イエスの有名な言葉に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。」というのがあります(マタイ7:12)。
これは最も大切な教えだということで「黄金律」と言われています。
「その人の立場に立って思う」ということはとても大切なことですが、それが中々出来ないというのもまた人間の悲しい現実です。これが出来れば、世の中は幸せになると思います。
今の日本は、このような「思いやり」の心に欠けているのではないでしょうか。
そのために心を痛めるような悲しい事件が、次から次へと起こっています。
人間はしばしば言葉に傷つきます。
人から言われた厭な言葉に落ち込むこともよくあります。
それがひどい場合には、自殺にも追い込まれます。
最近では、ツイッターなどインターネット上の書き込みで、個人を非難中傷したりと言うことがよくあります。
そして、そういうことを書かれた人は非常に苦しみます。
書く方は、軽い気持ちで書くのかもしれませんが、書かれた方は本当に死ぬ位つらい気持ちになります。実に思いやりの精神に欠けた行為だと思います。
こういうとき、思いやりの精神をもつことができれば、つまり、もし自分がこのようなことを書かれたら、と相手に気持ちに立つことができれば、こういうことは起こらないと思います。
旧約聖書の箴言12章18節に、「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。」という言葉があります。
人に対する一言の言葉がひどく傷つけることもあります。また逆に一言の言葉が人を癒すこともあります。
精神科医で執筆活動もされている斉藤茂太という人の本に『いい言葉は、いい人生をつくる』というのがあります。
相手に対していい言葉をかけるなら、それはその人の人生もいいものにするということが書かれています。
人の立場に立って、「思いやり」のある生き方をしたいものです。
今日の聖書の言葉にあるように、私たちも「自分のことだけでなく、他人のこともよく考える」思いやりの精神をもちたいと思います。

 

 

  2018-02-05 1月30日(火)放送礼拝メッセージ「結果を出せなくても」

フィリピの信徒への手紙2:25-30節  「結果を出せなくても
学院宗教主事 樋口進

今の世の中は、業績主義です。
入学試験はまずそうですが、企業もまた、激しい業績主義の世界です。
何か業績を上げなければ、尊重されず、出世も出来ません。
皆さんも、そうです。
一生懸命勉強して、よい結果を出すと評価されます。
スポーツでもそうです。
一生懸命練習して、結果を出せば評価されます。
しかし、いろいろな事情によって業績を上げられない場合もあります。
一生懸命努力していても、途中で病気になったり、けがをしたりすると、結果を出せない場合もあります。
そしてそういうとき、人から評価をされません。
これが、業績主義の社会です。
この業績主義の社会では、目に見えて何か具体的に業績をあげないと評価されないのです。
ただ忠実に仕事を行っている、真面目に働いている、というだけでは駄目なのです。
この業績社会は、あくまで自分の業績を上げることが至上命令です。
そこからは他人を思いやるという態度は出てきません。
否、他人を犠牲にしてまで、自分の業績を上げようとします。
しかし、たとえ業績を出すことができなくても、その人自身の人格、その人自身の気持ちを見てくれて、評価してくれるということもあります。
今日読んでいただいたフィリピの信徒への手紙は、パウロという人が牢獄で書いた手紙です。
パウロは、キリスト教をいろいろな地方に伝えた人ですが、その伝えているときに、権力者に誤解されて、捕らえられ、牢獄に入れられたのです。
当時の牢獄の生活は、苛酷で食事も十分に与えられないようなこともありました。
しかし、その囚人の世話をする人を送るということもできたのです。
そこで、パウロが牢獄に捕らえられていることを聞いたフィリピの教会の人たちは、パウロの世話をする人として、25節にあるエパフロデトという人を送ったのです。
このエパフロデトという人は、とてもパウロを尊敬し、一生懸命パウロの世話をしたのですが、途中で病気にかかり、パウロの世話をできなくなっただけでなく、逆にパウロにいろいろ世話にならなければならなくなりました。
先ほどいった、業績をあげることができなくなったのです。
そこで、エパフロデトを送ったフィリピの教会の人たちは、エパフロデトを全く評価せず、役立たずとして、非難したのです。
しかし、パウロは、このエパフロデトの気持ちを評価して、彼は病気のために何の働きもできなくなったが、かれの気持ちを評価すべきだ、といって弁護するために、この手紙を書いたのです。
パウロは、自分の世話をすることができなくなり、かえって足手まといとなったエパフロデトを、役立たずとして非難するのでなく、エパフロディトの気持ちを見て、かれの人柄を評価して、深い配慮を示します。
パウロは、こういう人々こそ尊重しなければならないのだ、と主張します。
こういう人こそ、自分の弱さを知り、謙遜を身につけ、パウロを心から尊敬したのだ、と評価したのです。
パウロ自身にも一つの持病があり、それを自分で「一つのとげ」と言っていますが、それがかえって恵みであった、と話しています。
「キリストのわざのために命をかけ」とあります。
エパフロディトは、そういう業績主義ではなく、純粋な気持ちを第一にしていたのである、と。
パウロは、エパフロディトに深い配慮をもって弁護しているのですが、それはもしかすると業績主義の目でもってエパフロディトを何の役にも立たなかったではないかと批判的な目で見るかも知れないフィリピの人々に、彼は最も大切なもの、純粋な気持ちをもっていた、こういう人達こそ尊重しなければならない、ということを言っているのです。
業績主義の社会に生きている皆さんも、何かの事情で思うような業績を上げられなくても、決して落胆せず、皆さんの純粋な気持ちを評価してくれる人も必ずいるということを思って勇気を出して欲しいと思います。

 

  2018-01-25 1月22日(火)放送礼拝メッセージ「小さい愛の行為」


マタイによる福音書25章35-40節  「小さいの行為」
学院宗教主事 樋口進

イエスの生涯の歩みは、「最も小さい者に愛を示された」と総括できるのです。
私たちは、いろんな人に評価されています。
そして、評価する人によって、評価がいろいろ違うのです。
今日読んだ話は、キリストの評価、と言えるでしょう。
そして、キリストの評価は、世間一般の評価とは違うのです。
この世においては、一国の総理大臣のような高い地位についた人、出世した人、財産を積んだ人、いろんな業績を上げて有名になった人などが評価されるかもしれません。ノーベル賞などは、最大の評価かもしれません。

さて今日の話では、キリストは、ほんの小さな愛の行為をした人を評価されるのです。
40節には、つぎのようにあります。。

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟である この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

ここでキリストは、最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたのだ、と言って評価しています。
しかし、この人は、キリストに評価された行為には全然気づいていないのです。

37-39節には次のようにあります。

すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

すなわち、この人にとっては、自分のしたことが特別愛の行為だとは意識されておらず、それが当然のこととしているに過ぎないのです。
親が子どもを愛する場合、そうでしょう。
別に自分は特別愛の行為をしているという意識はありません。
子どものことを思って、すべきことをしているに過ぎないのです。
今日のテキストにおいても、キリストにほめられている人は、王に対して小さな愛の行為を指摘されるまで、自分がそういうことをしたことに気づいていないのです。
今日の所では、そういう自己主張ではありません。
自分でも忘れてしまっていることを、神がご覧になっていて、評価してくださっている、というのです。
ここで、王から祝福を受けた人は、指摘されなければ自分でも気がついていないのです。
空腹な人に食物を与え、病気の人を見舞い、獄に捕らえられている人を見舞うといったことです。
貧しい人、困っている人に、自分のできる小さなことをしただけです。

ここで思い出すのは、トルストイの「靴屋のマルティン」という話です。
このマルティンは、貧しい靴屋でした。彼の家族は、次々と亡くなり、とうとうマルティン一人になってしまいました。
ある時、マルティンは夢でイエスの声を聞きました。
それは、イエスがクリスマスにマルティンの家を訪ねるということでした。
クリスマスの日、マルティンはごちそうを用意して窓から外を見ながらイエスの来るのを待っていました。
そこを雪掻き人夫が疲れた様子で通りかかりました。
マルティンは、その姿を見て、可愛そうに思い、その人を家に入れて、温かいお茶を1杯飲ませてあげました。
そうすると、その人は元気になって出ていきました。
その次に赤ん坊を抱いた貧しい身なりの母親を見ました。
また、マルティンは可愛そうに思い、その親子を家の中に入れ、パンとスープをあげ、赤ん坊にはミルクを飲ませました。
親子は喜んで帰っていきました。
次に、マルティンはリンゴを盗んで逃げてくる貧しい子どもを見て、その盗んだリンゴのお金をリンゴ売りに代わって払ってやりました。
結局、この話では、イエスはこの貧しい3人の人に姿を変えてマルティンの所にやってきた、というのです。
この貧しい3人にほんの小さな愛の行為をしたマルティンは、キリストによって、今日のテキストにあるように、

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言って、祝福されたのです。

ここで言われているのは、ほんの小さな愛の行為です。
全財産をなげうつとか、生命を危険にさらせて何かをする、という大げさなことではありません。
困っている人や貧しい国に多額の寄付をする人がいます。
それは非常に偉いと思いますが、自分の名誉心からしている人もいます。
いかに自分が大きな慈善事業をしているかという宣伝をし、多くの人から名誉を得るのです。
わたしたちはここで、ほんの小さな愛の行いをする者に、とても大きな祝福を与えてくださる神のことを思うべきです。
インドで貧しい人に小さな愛の行為を行ったマザー・テレサもこのキリストの言葉に従って、小さな愛の行為を行ったのだと思います。
私たちも小さな愛の行為をすることによって、キリストに評価される者になりたいと思います。

 

  2018-01-23 1月16日(火)放送礼拝メッセージ「熱心な求め」

ルカによる福音書11章5-9節  「熱心な求め」
学院宗教主事 樋口進


今日の話は、イエスのたとえ話です。
たとえには、イエスが伝えたい目的があります。
この譬えでは、「熱心な求めは必ず聞かれる」ということが言いたいのです。
この譬えでイエスが言わんとすることは、
9節の「
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」ということです。

そしてそれを言うために、この譬え話しをされたのです。
このたとえ話は、少し変な話かも知れません。
真夜中に友達の所にパンを貸してくれ、とたのみに行った、というのです。
真夜中にパンを借りに行くというのは、はなはだ非常識なことではないか、と思われるでしょう。
何もわざわざ真夜中に借りに行かなくても、パンがなければ、一晩辛抱して、次に日に行けばいいではないか、と思われます。
友達ということをいいことに迷惑をかける人もいます。
友達ならある程度の迷惑はかけたり、かけられたりするものです。
パンを三つ貸す位のことなら、何でもないかも知れませんが、それを真夜中に借りに行くのは、いささか非常識だと思われます。良識ある者なら、そのようなことは差し控えるでしょう。
この当時のパレスチナの普通の庶民の家は、お粗末なもので、一つの部屋に家族全員で寝たのです。
真ん中にいろりのようなものがあって、その回りにござのようなものを敷いて、地面にそのまま寝たのです。家族は肩を寄せ合って寝たのです。
したがって
、皆が寝込んだ時に、自分がごそごそ起きて用事をすると、家族全員を起こしてしまいます。
そして、朝は早くから起きて仕事をしなければなりません。夜はぐっすり寝る必要がありました。
そこでこの友達は、7節のように言いました。
面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。
起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。
今ここで起きてごそごそすると、家族全員の睡眠を妨げてしまう。そんな面倒はかけないでくれ、と言うのです。もっともな話です。 
普通ならここで引き下がります。
多少の迷惑を掛けたりかけられたりするのが友達かも知れませんが、そこにも限度というものがあります。
しかし、この男は、なおドアをたたき続けて求めたので、とうとうこの家の主人は根負けして、パンを与えた、というのです。
この男は、その友達に恐らく、しつこい奴だ、迷惑をかける奴だ、といやがられたでしょう。
恐らく嫌な顔をされ、無愛想にパンを貸してもらったことでしょう。
それ位なら、いっそ借りなければよかった、と私達には思えます。
この男は、なぜ、そんなにいやがられてまでも、真夜中にパンを借りに行ったのでしょうか。
彼は、5-6節の所で次のように言っています。
友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち  寄ったが、何も出すものがないのです。」
実は彼は、自分のためにパンを借りに来たのではありませんでした。
彼の所に、遠くから友達が訪ねて来たからでした。
その旅人は、夜、彼の所に到着したのです。
夜中に旅人が訪ねて来るというのもおかしな話かも知れません。
しかしこの時代のパレスチナでは、そういうことも珍しい事ではありませんでした。
パレスチナの夏は、昼間はとても暑く、太陽の照っている時、旅をすれば病気になるので、日が沈んでから、夕方に旅をするということがよくありました。ここでの旅人も恐らくそうだったのでしょう。
そして、この男の家に夜中に着いてしまったのでしょう。
の男も実は、訪ねて来た旅人に大変迷惑をかけられたのでした。
しかし彼は、この旅人を迷惑がって追い払うのでなく、家に入れて泊めようとしたのです。
それだけでなく、お腹をすかしているこの旅人に食べる物を出そうとしたのです。
泊めてやるだけでも十分なのに、その上食事を出そうとしたのです。
しかし自分の家に何も出すものがなかったので、真夜中ではありましたが、友達の所にパンを借りに行ったのです。
この男は何と友達思いでしょうか。
こういうのが真の友情というのではないでしょうか。
しかしこのたとええ話でイエスは、麗しい友情について教えようとされたのではありません。
このたとえのポイントは、8節にあります。
しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」

ここで言われているのは、明らかに友情ではありません。
「友人だからというのでなく、しきりに願うので」とあります。
これは、友情の限界を超えた所での神を動かす力とでも言うことができます。
熱心な求めということです。
あきらめない、ということです。
ある場合は、人に迷惑をかけてでも、求めるべきものがあるのです。
もちろん、迷惑をかけると言うことは、褒められたものではありませんが。
子供を愛する親であれば、自分の子が病気したならば、真夜中であっても、医者に頼みに行くでしょう。
私達は、このような熱心な、というよりは執拗求めというのを余りしません。
そんなに熱心に求めなくても、大方のものは満たされている、ということもあるかも知れません。
あるいは、求めてもかなわないものはかなわない、と簡単に諦めてしまっているのかも知れません。
オリンピックでメダルをもらった選手は、しばしば、最後まで諦めなかったのでメダルを取ることができました、と言うことを言っていました。
イエスはここで、「熱心な求めは必ず聞かれる」と言うことを言っているのです。

 

 

  2018-01-17 神戸市シェイクアウト訓練

本日、神戸市シェイクアウト訓練が行われました。
 
 

大規模地震が起こり、校内で火災が発生したという状況を想定し、防災訓練を行いました。
担任の指示に従い、生徒たちは静かな状態でアリーナに集合し、安全確認を行うことができました。
今日の訓練をいかし、地震発生時に備えられるようにしっかり覚えておきましょう。

 

  2018-01-09 2017年度 3学期始業式

本日、本学院アリーナにて3学期始業式が行われました。

 

 

来年度からの新しい生徒自治会役員が、壇上にて紹介されました。

明日から授業が始まります。インフルエンザが流行していますが、体調管理に気をつけて、元気な姿で登校してくださいね。

 

  2017-12-22 12月19日(火)終業式

12月19日(火)終業式が行われました。


冬休み中は今日聞いた話をしっかり意識してもらい、今後もより良い学校生活が送られるようにしましょう。
3学期に元気な姿で登校してください。

 

  2017-12-20 12月18日(月)クリスマス礼拝が行われました。

12月18日(金)に、アリーナにてクリスマス礼拝が行われました。
壇上には大きなクリスマスツリーとアドベントクランツが飾られています。

今年は関西学院中学・高等学校の宗教主事である福島旭先生をお招きし、「なるほど・ザ・クリスマス」という題で、クリスマスにまつわるクイズとメッセージをいただきました。
全員でクイズに挑戦し、最後まで全問正解したのは、たったの一人です!

また、中学1年生と高校1年生の有志によるハンドベル演奏がありました。 
中学1年生は『もろびとこぞりて』、高校1年生は『生命の奇跡』を演奏してくれました。

アリーナに、ハンドベルの繊細な音が響き渡り、場が華やかに彩られました。

クリスマスまであと一週間です。
良いクリスマスをお過ごしください。
 

  
   

 

 

 

   12月4日(月)点灯式が行われました。

12月4日(月)点灯式が行われました。

アドベントを迎え、本校もクリスマスツリーのライトアップをしました。
アドベント」 とは、キリスト教において、クリスマスを待ち望む期間のことをいいます。
正門に立つもみの木に光が灯り、より一層クリスマスの雰囲気へと近づけてくれました。

  
参加者は赤いキャンドルを持ちながら、一同で賛美歌を歌い、クリスマスのメッセージを聞きました。

高校3年生が高校生活の最後の思い出に参加していた姿が多く見られました。
 

クリスマスまでのアドベントの期間、こころ穏やかに過ごせたらいいですね。

 

  2017-12-01 11月28日(火) 高2進路ガイダンス

11月28日(火)に高校2年生対象の進路ガイダンスが実施されました。

来年度は受験生となる高校2年生に、近畿圏内の大学、短期大学、そして専門学校の講師の方から貴重なお話をいただきました。


 
興味のある学校の話を聞くことが出来て、生徒たちの顔も真剣でした。
この機会をきっかけにして、定期テストや受験勉強に臨んでもらいたいです。

 

  2017-11-29 11月28日(火)放送礼拝メッセージ「人に仕える」

ヨハネによる福音書13章1-5  「人に仕える」
学院宗教主事 樋口進

イエスは、十字架にかけられる前の晩、弟子たちと食事をされました。
これが、「最後の晩餐」と言われているものです。
今日の記事は、この最後の晩餐の席でイエスが弟子たちの足を洗われたという話です。
この当時、足を洗うというのは、召使いの仕事でした。
お客を食事に招くとき、お客が食事の席に着く前に、召使いがまず、お客の足を洗ったのです。
従って、食事の席で足を洗うということは、身分の低い人のする事だと考えられていました。
しかし、先生であるイエスがこの人に仕える仕事をされたから、皆びっくりしたでしょう。
これは、弟子たちに人に仕えるということを身をもっておしえようとされたのです。
しかし、そういうことは誰もやりたがらないことです。

誰もやりたがらないことをする。
これは、難しいことです。
ノーベル平和賞を受賞したインドの聖人マザー・テレサは、「誰にでも出来ることをしただけだ」と言いました。「しかし、それを誰もしなかった」とも言いました。それでは、どんなことをしたのでしょうか。
それは、死に行く人の手を握る、ということでした。

そのきっかけはこうでした。
彼女はあるとき、インドの道ばたに倒れている一人の男の人を拾い上げ、自分の家に連れて行き、静かに見守ったのです。その人は最後にこう言いました。

「私はずっと道ばたで動物のように生きてきました。でもいま、私は天使のように死んでいくのです。愛され、大切にされながら。」

そう言って美しいほほえみを浮かべて亡くなった、というのです。
そこで彼女は、こういう人に寄り添うということをされました。
これは特別なことではありません。
しようと思えば、誰にでもできます。

しかし、誰もしなかった、というのです。
マザー・テレサは、相手の立場に立ち、身寄りのないただ死を待つ人に愛の手を差し延べ、しばしの喜びと安らぎを与えました。
そして「死を待つ人々の家」を作り、そういう人に寄り添ったのです。
それは、己にプライドがある限り出来ません。
先ほどの所で、イエスは、弟子たちの足を洗うに先立って、「上着を脱いだ」とあります。
これは、己のプライドを捨てた、ということです。

「足を洗うなんて、召使いのする仕事だ」というプライドがある限り、足を洗うことは出来ません。
イエスは、まず上着を脱いだのです。
一方弟子たちは、この晩餐の席で、自分たちの中で誰が一番偉いか、と論じ合っていた、とあります。
弟子たちは、中々自分のプライドを捨てられない。いや、それどころか、自分以上に見せようとします。
マザー・テレサは、イエスから人に仕える、ということを学び、そしてそれを実行しました。
これは、思いやりの精神だと思います。彼女は、次のように言っています。

人間にとっていちばんひどい病気はだれからも必要とされていないと感じることです。
人は一切れのパンではなく、愛に、小さなほほえみに飢えているのです。
だれからも受け入れられず、だれからも愛されず、必要とされないという悲しみ。

これこそほんとうの飢えなのです。
そして、イエスが弟子たちの足を洗ったと言うことから学んで、このような人に仕えることを行ったのです。
私たちも、小さいことでいいと思います。人に仕えることをしたいと思います。

 

   11月21日(火)放送礼拝メッセージ「愛とは」

11月21日(火)に、放送礼拝が実施されました。

コリントの信徒への手紙一13章4-13 「愛とは」
学院宗教主事 樋口進

皆さんにとって一番大事なものは何でしょうか。
勉強をして知識を身につけること、友達、趣味、部活、家族、お金、といろんなことがあると思います。
このコリントの信徒への手紙を書いたパウロというキリスト教の伝道者は、私たち人間にとってもっとも大事なのは、信仰と希望と愛である、と言っています。
これらは目に見えるものではありません。
そしてこれらは決してお金で買えるものではありません。
ですから、持とうと思えば、誰でももつことができます。
本当に大切なものは、お金で買えるものではないと思います。
そしてパウロは、その中でも最も大いなるものは愛である、と言っています。
8節には、「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」とあります。
ここに「知識は廃れよう」とあります。
これは日々実感するものです。
特に最近の科学技術の発達は目覚ましいものがあり、私たちが学生の頃には想像もしなかったようなものが次々と現れています。
パソコン一つにしても、皆さんはパソコンの使えない人は恐らくいないと思いますが、私たちが学生の頃は自分のコンピューターがもてるなどとは夢にも思ってもいませんでした。
今は、スマートフォンでいろんなことができます。
スマートというのは、「賢い」という意味ですが、まさにこれは賢いと思います。
こんなものを自分がもてるなどとは、少し前までは思いもしませんでした。
このように、新しい知識が次から次へと出て来ます。
知識を身につけるということはもちろん大切なことですが、せっかく身につけた知識もいつかは廃れるということもまた事実です。
私たちが学生の頃、最も新しく、最も便利だと思っていたものが、今やもうどこにも見ることができなくなったものがたくさんあります。
しかし、パウロは、人生を生きていく上で、廃れないもの、永遠のもの、本当に価値のあるものもある、と言います。
そして聖書は、その本当に価値のあるものを私たちに示してくれます。
しかし、実際のこの世の歩みにおいては、どれが永遠のものか、どれが本当に価値のあるものかは、目先のものにごまかされて分からないのです。
鏡に映すように、おぼろにしか見えないので、どれが本当のものかみ分けがつかないのです。
しかし、信仰によって、本当に価値のあるものに目が開かれていくのです。
私たちにとって、本当に価値のあるものは、やがて廃れてしまうのではなく、いつまでも残るものです。
「最も大切なものは何か」ということは、それぞれ違うと思いますが、それを探求することも皆さん方の課題だと思います。
そしてパウロはそれが信仰と希望と愛である、と言います。
その中でも最も大切な者は、愛だ、と言います。
それでは、パウロが考える愛とはどういう事でしょうか。

4-7節には、次のようにあります。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。  礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

これを私と置き換えてみましょう。

私は忍耐強い。私は情け深い。ねたまない。私は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

そして、このようなことの一つでもできる人は、きっと素晴らしい人生を送ることができると思います。

 

  2017-11-20 神戸マラソンでの吹奏楽部合同演奏

11月19日(日)本校吹奏楽部が神戸マラソンにて合同演奏を行いました。

19日(日)に実施されました神戸マラソンにて、本校中学、高校生徒がゴールランナーを音楽で応援してきました

今回は、神戸学院大学・付属中学校・高等学校、兵庫医療大学の皆さんと合同演奏ということで、最初は緊張気味でしたが、元気に演奏していました。

 

  2017-11-15 11月3日(金)文化祭が行われました。

11月3日(金)に夙川学院の文化祭が行われました。

昨年度に引き続き、高校3年生が文化祭入場アーチと、看板を作成してくれました。

◇模擬店◇

高校2,3年生による模擬店です。真剣に来場者の方に声をかけていました。

◇ステージ発表◇

吹奏楽部、高校1年蘭組、軽音楽部、ダンス部(写真)、その他たくさんの文化部による発表で盛り上がりました。

◇作品展示◇

中学生、高校3年美術科による作品展示です。

約800人の方が来場してくださいました。たくさんのご来場ありがとうございました。

 

  2017-11-14 11月14日(火)収穫感謝礼拝が行われました。

 11月14日(火)に、アリーナにて収穫感謝礼拝が行われました。
 
 

今回の特別礼拝は、日本基督教団 神戸イエス団教会の牧師をされている上内鏡子先生をお招きしました。上内先生は学生時代に、フィリピン人の出稼ぎ女性を通して、キリスト教に出会われました。
1992-2002年まで、フィリピン合同教会で宣教師として働かれ、今現在、神戸イエス団教会の牧師として働かれています。

 本日は「絵本にかける思い」という題で、メッセージをいただきました。
今日紹介された絵本は、ボンペレスさんと松井友さんが共同で書かれた『サダムと世界一大きなワニ』です。皆でワニからサダムと水牛を助ける最後の場面では、皆の力を合わせて、困難を乗り越えていく姿が描かれており、力を合わせれば何でもできるということを教わりました。

この絵本は、これからの未来を担っていく日本とフィリピンの子どもたちのために作られた絵本です。
平和な世界を創っていく者として、私たちは互いに助け合う姿勢を持ち続けたいです。

上内先生、このたびはお忙しい中、本校にお越しいただき、ありがとうございました。  

礼拝の後には、生徒自治会の生徒たちが、果物をそれぞれ自分たちで分けて、日頃お世話になっている学校内・近隣の施設、そして先生たちに配りに行きました。
 
  
  皆さん、果物の持ち寄り、ありがとうございました。

 

 

  2017-11-13 11月7日(火)放送礼拝メッセージ「求めなさい」

11月7日(火)に、放送礼拝が実施されました。


マタイによる福音書7章7-12節 「求めなさい」
学院宗教主事 樋口進

私たちにとって、探求心というのは、非常に大事だと思います。
今読んでいただいたマタイによる福音書7章7節には、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」とありました。

これは非常によく知られている言葉ではないでしょうか。
キリスト教を知らない人でも、この言葉を知っている、と言う人も多いのではないでしょうか。
この聖書のことばは、音楽室の前の階段の所の壁に習字で書かれた額があります。
是非見ておいて下さい。
これは、一生懸命探求すれば必ず与えられるというふうに解釈されて、多くの人の心に留められているのではないでしょうか。
ここでイエスは、単なる処世訓を言っているのでありませんが、しかし私たちが神に一生懸命求めるならば、神は必ずそれを与えて下さる、ということを言っているのです。

それでは、私たちはどんなことを求めても神は与えて下さるのでしょうか。
例えば、自分の嫌いな人が不幸になることを求めても、神はそれに答えてくれるのでしょうか。
恐らくそんな自己中心的な求めには答えてくれないでしょう。
「求める」という場合、自分のことだけを求めるなら、それは自己中心的になり、他の人を苦しめるという結果になりかねません。
そこで、イエスは、相手の立場に立って考えるべきだとして、12節に於いて、次のように言われました。
「だ
から、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」

宮沢賢治は、「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と言いました。
自分の幸福が他の人を不幸にしているということがよくあります。
戦争なんかはそうでしょう。
こちらが勝利すれば、相手は不幸になっている訳です。
自分が何かを求める時、他の人も同じ求めをもっている、と言うことです。
イエスが教えた「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という言葉は、一般に「黄金律」と言われています。
その名の通り、最も高い人間の倫理でしょう。
もしすべての人がこれをすることが出来れば、世の中は幸福になると思います。
これと同じような教えは他の宗教にもあります。
例えば、孔子は論語の中で、「己の欲せざるところは、人に施すなかれ」と教えました。
これは、儒教の教えとして、日本人にも深く浸透しているのではないでしょうか。
親が子によく言うことは、「とにかく、人に迷惑をかけないように」と言うことではないでしょうか。
ユダヤ教のタルムードに於いてもこの論語の言葉とよく似たものがあります。
「あなたの望まぬこととを、あなたの隣人に対してしてはならない。これが法のすべてである」という言葉です。
いずれも、自分にとって嫌なことを他人にしてはならない、という教えです。
これは重要なことであり、人間が社会生活を営んでいく時には守らねばならない基本的なことでしょう。

しかし、イエスの教えた黄金律は、これと少し違います。
すなわち、自分にとって嫌なことを他人にするなというのは、少し消極的な態度です。
他人に迷惑にならないように、当たり障りのない生き方をする、ということになります。
これに対してイエスの「人にしてもらいたいことは、人にもしなさい」というのは積極的な態度です。
しかし、それは中々困難なことです。
イエスの姿勢は、人に求める前に、自らがその人になしていく、というものです。
もし、人に信用されたいと思うなら、自分がまずその人を信用することです。
相手を心の底から信用していないのに、どうして相手から信用されるでしょうか。
もし、友達に愛されたいと思うなら、まず自分が本当にその友達を愛していくことです。
人の尊重されたいと思うなら、自分がまずその人を尊重することです。
イエスはまさにこれを行われたのです。
しかし、私たちには、中々そのことは難しいのです。
どうしても、自分中心的な求めになりがちです。

そこで7節にかえって、「求めよ」というのは、この黄金律に従うことの出来るようなあり方を求めよ、ということではないでしょうか。
私たちのいろんなことを求める探求心は、非常に重要ですが、それが自分だけのものとなるのでなく、他の人のことも考える心を持ちたいと思います。

 

  2017-11-08 11/25(土)学校説明会

高校:10:00~11:30(予定)
中学:14:00~15:30(予定)

場所 本校にて

申込み不要

送迎バス運行  ポートライナー「みなとじま駅」発

9:00 ・ 9:15 ・ 9:30 ・ 9:45

送迎バス運行  三宮発

9:00 ・ 9:15 ・ 9:30 ・ 9:45

皆様のお越しをお待ちしております!!

 

  2017-10-31 11/5(日)学校説明会

開始時間 10:00~

場所 本校にて

申込み不要

送迎バス運行  ポートライナー「みなとじま駅」発

9:00 ・ 9:15 ・ 9:30 ・ 9:45

送迎バス運行  三宮発

9:00 ・ 9:15 ・ 9:30 ・ 9:45

皆様のお越しをお待ちしております!!

 

  2017-10-25 学校説明会

2017年度学校説明会は、全て終了しました。

 

 
※個別相談会を随時受け付けております。
お気軽にお電話ください。
電話番号 078-940-1131

 

  2017-10-10 10月3日(火)放送礼拝メッセージ「希望に生きる」

10月3日(火)に、放送礼拝が実施されました。

 
ペテロの手紙Ⅰ 1章22-25節 
「希望に生きる」
学院宗教主事 樋口進

皆さんは、何か困ったことや苦しいことに遭遇した場合どうされますか。
普段信仰心がない人でも、そういう時には神や仏に祈ったりと言うことはないでしょうか。「困った時の神だのみ」という言葉があります。
普通宗教を求めるという場合、何か困った事が起こった時、苦しいことが起こった時に、それを取り除いてもらおうとして求める、ということが多いのではないでしょうか。
普段は宗教には無関心であっても、苦しい事が起こった時に、神や仏に頼ろうとする人がいます。

しかし、聖書はそういうのと少し違います。
先程読んで頂いたローマの信徒への手紙5章3節で、パウロは「苦難をも誇りとします」と言っています。以前に訳された口語訳聖書では、「患難をも喜んでいる」と訳されています。
患難とか苦難は、私達にとっては、決して歓迎すべきものではないでしょう。
少なくとも、それを喜んだり、誇りにしたりするものではないでしょう。
そういう事態は出来るだけ避けたいし、もし起こっても出来るだけ早く取り除いて欲しい、と思うものではないでしょうか。そして、そのために神仏に願ったりするのです。
苦難を喜べ、という宗教は余りないと思います。

しかしここでパウロは、「苦難をも誇りとします」と言っています。
しかし、パウロは、この苦難を成功することの手段と考えているのではありません。
苦難をステップにして何か成功しようというのではありません。かと言って、苦難それ自体を喜んでいるのでもありません。
マゾヒズムという言葉があります。自虐的と言います。
自分が苦しめられたり、虐待されたりすることに快感を覚えるという異常心理です。
勿論パウロは、そのようなマゾヒズム的な喜びを言っているのではありません。
そうではなく、その苦難はそれに終わらず、希望へと通じていることを信じているからです。
それは、神を信じ神に委ねることから与えられる希望です。
人間、希望に生きることが、いかに大きな力を与えてくれるか、ということが分かります。

希望を持って生きた一人の人のことを話します。
それは、『夜と霧』という本を書いた心理学者のフランクルという人です。
彼はユダヤ人ということで、第二次世界大戦の時、ドイツのナチスに捕らえられ、アウシュビッツの強制収容所に送られました。
そこに於いては、過酷な条件のもとに多くのユダヤ人が死んでいきました。
しかし、そのような過酷な条件の中にあっても死なずに生きていた人(自分もその一人でしたが)は、必ずしも肉体的に頑強な人ではなく、何かの希望を持っていた人であった、と言います。
例えば、「今晩の食事には何が与えられるだろうか」というようなささいなことを連想するのです。
ほんの些細な希望ですが、極限状況の中でそのようなことを考えることが生きる力になった、というのです。何の希望も持てなかった人は死んでいった、というのです。
1944年のクリスマスが済んだ時に大勢の人が死んでいった、と言います。
それは、彼らはクリスマスに家に帰れるという当てもない期待を抱いていたのですが、それが実現しなかったので、希望が挫かれ、気力も失われてしまった、と言うのです。
フランクルは、心理学者として、それを冷静に観察し、希望を持っている時は病気に対する抵抗力を高めたが、それが失望になると抵抗力を低下させ、ついには死に至らせた、と言います。
このローマの信徒への手紙を書いたパウロという人も、実にいろいろな苦難に遭遇しましたが、その苦難自体を見て絶望的な思いを抱くのでなく、その苦難は忍耐を通して、希望へとつながっていることを確信したがゆえに、大きな働きをなすことが出来たのです。

苦難を経験しない人はいないと思います。
皆さんも長い人生の中において、多かれ少なかれ何らかの苦難に遭遇します。
あるいは皆さんの中にも、現在何らかの苦難を抱いている人もいるかも知れません。
その時に、絶望に打ちひしがれてしまうのでなく、忍耐をしつつ、その中になんらかの希望を見いだしてみてください。きっと、その先に道が開けると思います。

 

   10月3日(火)高1進路ガイダンス

10月3日(火)に、チャペルにて高1進路ガイダンスが行われました。

 

2学期になり、学校生活にも慣れてきて、将来のこと考える余裕が出てきたのではないかと思います。
そのような中で、吉本の若手芸人の方をゲストに、進路の考え方についてコントを通じて教えていただきました。

 
最初は戸惑う様子も見られた生徒のみなさんも、お笑い要素満載のコントに大盛り上がりでした。


緊張気味の生徒らに血液型アンケート。何型が多い?


笑いをとりながらも進路についての真剣な話しに生徒も考えるきっかけになったのではないでしょうか。

まだ高校1年生ですが、もう高校1年生です。2年後の自分のことを少しずつイメージしてもらえばと思います。

 

  2017-10-07 10月7日 高等学校学校説明会

10月7日(土)に夙川学院高等学校学校説明会が実施されました。


今回は2回目の開催となります。

◇校長挨拶・教育内容説明◇
 

◇生徒からの学校説明◇

◇コース説明◇

◇施設見学◇

次回の開催は、10月28日(土)10:00~第3回高等学校の学校説明会となっております。
皆様のお越しをお待ちしております。

 

  2017-10-04 タウンミーティング予定

10月中旬から11月下旬にかけて、校長タウンミーティングを予定していたのですが、
 諸事情により中止となりましたことをご報告いたします。

 大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

 

  2017-10-03 2017年度体育祭を実施しました。

9月29日(金)体育祭がグリーンアリーナ神戸にて実施しました。

体育祭にむけて、生徒たちは放課後ダンスやリレーの練習をしていました。
体育祭の様子をご覧ください。

◇入場行進

◇開会式

◇集団行動

◇クラスパフォーマンス

◇中学・高1男女ダンス
 
◇体育科・グローバルアスリートダンス

今年も多くの方に来場していただきありがとうございました。
11月3日(金)は本校にて文化祭が実施されます。是非ご来校ください。

 

  2017-09-28 9月22日(金)生徒による全校礼拝

9月22日(火)に、アリーナにて生徒による礼拝が行われました。

中学、高校1・2・3年生の代表生徒4名に
1学期末に池間哲郎さんの講演を聞いた時に書いた感想を発表してもらいました。

**************************
マタイによる福音書 5章9節 
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
**************************

池間さんは、アジア途上国(ネパール、ミャンマー、カンボジアなど)の貧困地域に暮らす人たちの支援活動をされている方です。本校でも、池間さんが20年以上に渡って撮りためた写真や映像を用いて、貧困地域に暮らす人たちの様子を見せてくださいました。

 

皆さんそれぞれ自分の思いと合わせて、
池間さんの講演から受け取った「一生懸命、生きること」の大切さを語ってくれました。

講演会でのお話や、代表者の感想から聞いたことを聴くだけでなく、
自分の課題として受けとめ、自分には何ができるかをこれから考えて生きることが出来たらいいですね。

 

  2017-09-26 9月24日(日)東南アジア交流会

9月24日(日)本校にて東南アジア交流会が行われました。

 

インドネシア、ネパール、バングラディッシュの理事長、学校長が、
今後夙川学院と進めていく交換留学制度の現地調査と契約書締結の為の意見交換会の為に
学院を訪れました。

上記学校と今回は参加出来なかったカンボジアの2校を合わせた5校で
今後、様々な交流を行って行く予定です。

24日は、お互いの学校や国の事をプレゼンし、紹介し合いました。
夙川学院の生徒もパワーポイントを用意し、英語で学校紹介をしました。

当日は学校説明会もあったので、参加者は英語でプレゼンをする夙川の生徒に驚いていました。

 

   赤ちゃん先生プロジェクトを実施しました。

9月25日(月)に赤ちゃん先生プロジェクトが実施されました。


高校3年生幼児教育・保育選択コースの生徒を対象としたプロジェクトです。
日々のお世話や接し方について、母親から想いやアドバイスを、お話してもらいました。
 
育児体験と託児体験の2つの体験を通して、子どもを抱えて生活することの難しさや、必死に子育てをしている母親の気持ちを学びました。
 
生徒の体験した感想の中には、母親にこれまで同じように育ててもらったことへの感謝や、今後母親になるうえで、還元していきたいといったものがありました。

次回の実施は11月を予定しております。

 

   9月24日(日)中学高等学校学校説明会

9月24日(日)に夙川学院中学高等学校学校説明会が実施されました。


中学校は2回目、高等学校は1回目の開催となります。


校長挨拶・教育内容説明

 生徒からの学校説明


施設見学

コース説明や、個別相談等も実施させていただきました。
次回の開催は、10月7日(土)10:00~高等学校の学校説明会となっております。
中学校のプレテストを10月8日(日)13:00~実施いたします。
皆様のお越しをお待ちしております。

 

  2017-09-20 10/8(日)中学入試プレテスト申込み受付中

10/8(日)13時から中学入試プレテストを実施いたします。

試験の難易度を知るのに持ってこいのイベントです。

夙川学院中学校にご興味をお持ちの小学5.6年生は是非ご参加ください。

プレテストでは選択制テスト(約2時間) と 思考力テスト(約1時間) の2種類の方式があります。

(プレテストではグローバルテストとポテンシャルテストは実施しません)

申込みは↓↓↓こちらから

https://mirai-compass.net/usr/shukgwj/event/evtIndex.jsf

 

   9月9日(土) 夙川学院高等学校オープンスクール

9月9日(土)に夙川学院中学校 学校説明会
               
高等学校 オープンスクールが実施されました。

中学校は1回目の学校説明会、高校は2回目のオープンスクールです。
たくさんの方に参加していただきました。

◇全体説明

 
全体説明では、在校生が学校の魅力について、作成したパワーポイントを使用し、説明してくれました。

◇体験授業

 
   理科「理科は嫌だが役に立つ!」           英語「ネイティブと話そう!」
 
     保健体育「身体表現」

◇施設見学
   

次回の開催は、9月24日(土)10:00~の学校説明会となっております。
皆様のお越しをお待ちしております。

 

  2017-08-29 2017年度 夙川学院高等学校オープンスクール

8月27日(日)に夙川学院中学高等学校オープンスクールが実施されました。

中学校は2回目、高校は1回目のオープンスクールです。たくさんの方に参加していただきました。

◇全体説明
 

◇体験プログラム

情報「ホンマでっか!?PC~プログラミングをしてみよう!~
音楽「ピアノ入門~簡単なピアノ演奏が1曲できるようにチャレンジしよう!~」


理科「科学と生活のつながり」

◇施設見学
 

◇食堂試食・制服展示試着
 

次回の開催は、9月9日(土)10:00~です。
皆様のお越しをお待ちしております。

 

  2017-07-20 夙川学院中学高等学校 Facebookのご紹介

夙川学院中学高等学校のFacebookを紹介します。


夙川学院の学校行事の様子や、生徒の日々の活動などを随時アップしていきます。
是非以下のURLからアクセスしていただき、『いいね!』をお願いします。
 
夙川学院Facebook URL
https://www.facebook.com/夙川学院中学高等学校-308882336227385/

 

  2017-07-07 2017年7月4日(火)放送礼拝 メッセージ「言葉の大切さ」

 7月4日(火)、放送礼拝が実施されました。


現在、校内では短大生の企画で、七夕に向けて笹竹が置かれています。
短大生をはじめ、中高生も企画に参加し、それぞれ色とりどりの短冊に自分の目標や願い事を書いていました^^

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ペテロの手紙Ⅰ 1章22-25節 「言葉の大切さ」
学院宗教主事 樋口進

わたしたちは往々にして、人の言葉によって失望したり、傷ついたりします。
そういう意味では、言葉というのは、非常に大事です。
たった一言の言葉によって、ひどく傷つき、ある場合には絶望状況に陥ることもあります。

斉藤茂太という人の本に『いい言葉は、いい人生をつくる』というのがあります。
さて、この『いい言葉は、いい人生をつくる』において、彼はことばについていろいろ洞察していますが、文字通り、いい言葉がいい人生をつくることを主張しています。
彼は、人から聞いたいい言葉、あるいは本から得たいい言葉によって、力や希望が与えられた経験によって、人にもいい言葉をかけるように心がけている、と言います。
たった一言の言葉によって、大きな希望や力を与えられる、と言うこともあります。

また逆に、たった一言の言葉によって、力や希望を失うこともあります。
言葉には、そのような力があります。
逆に、たった一言の言葉によって、窮地を救われることもあります。絶望状況の中にある人が、優しい言葉に触れて、力を得、また希望を与えられるということもあります。

私自身も、人の言葉によって非常に落ち込んだ経験があります。
おそらく皆さんも多かれ少なかれ、そのような経験があるのではないでしょうか。
また、逆に自分の言葉が人を傷つけているという場合もあるかもしれません。
そのように、言葉というのは、非常に大切であると思います。
ですから、できるだけ人を傷つけない言葉を発したいと思います。また、できるだけ人に希望を与えるような言葉を発したいと思います。

聖書においては、言葉に関することが多く言われています。
そもそも聖書は、神の言葉とされており、これを読むことによって慰めや希望や救いを与えられます。
旧約聖書に箴言というのがあります。これは、古代イスラエルのことわざを集めたものです。
この箴言の中に言葉に関するものが多くあります。
例えば、「軽率な一言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。」というのがあります。
これは、たった一言の軽率な言葉は人を深く傷つけるが、配慮のある言葉は、逆にたった一言の言葉によって人を癒す、ということが主張されています。
昔も今も、人の言葉によって、傷つけられたり、また反対に力づけられたりということがあります。軽口ということがありますが、無責任に調子のいいことを言う人は信用されません。

また、先ほど読んでいただいたペトロの手紙一1:24-25には、「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」とあります。
これは、人間の言葉は、「草が枯れ、花が散る」ように、はかないけれども、神の言葉は永遠に変わることがない、ということです。

この時代も、人のの言葉は、人々に期待を抱かせたり、しかしすぐに失望させたりということが多かったのですが、そのような中で、神の言葉は永遠に変わらない、と言ったのです。
私たちも言葉には、責任をもつようにしたいものです。
斉藤茂太さんが言ったように、「いい言葉は、いい人生をつくる」ということは、本当です。
わたしたちも、極力いい言葉を語り、いい言葉を聞くことによって、いい人生を歩みたいと思います。

 

  2017-07-01 2017年7月9日(日)特別講演会を実施します。

7月9日(日)、本校アリーナにて沢松奈生子さんの特別講演会を実施します!!(リンク先をクリックすると、画像が大きく表示されます)

  

夙川学院高等学校の卒業生である沢松奈生子さんをお招きして、講演会を実施します。

また、当日は夙川学院中学校夙川学院高等学校夙川学院短期大学の3校が同時にオープンキャンパスを開催いたします。講演会と合わせて、是非ご参加ください。

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<中学校>
  9:30-  受付開始
10:00-  特別講演(本校卒業生:沢松奈生子さん)
11:15-  学校説明
11:40-  体験プログラム
12:10-  校内見学/個別相談

※夙川学院中学校のプログラムは、事前に申し込み必要になります。
体験プログラムは定員があり、先着順となります。参加を希望される方は、お早めにお申し込みください。
申し込みは7月7日(金)16:00までとなります。学校まで電話にてご連絡ください。

お申し込み・お問い合わせ      
0789401131
※受付は平日月曜日から金曜日 8:30~16:30まで

 
<高校説明会>
  9:30-  受付開始
10:00-  特別講演(本校卒業生:沢松奈生子さん)
11:15-  学校説明
11:45-  校内見学/個別相談
  

 

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当日は送迎バスを運行いたします。

三宮(スクールバス乗り場)発 → 学校行き
9:00 / 9:15 / 9:30 / 9:45
 
神戸市役所の向かい側の通りをまっすぐ進むと、「大和ハウス工業株式会社神戸支社」のビルがあります。そのビルの前に送迎バスが停まります。JR「三ノ宮」駅、阪急・阪神「三宮」駅より徒歩10分です。
   

プログラム終了後
学校発 → 三宮(スクールバス乗り場)行き
11:15 / 11:30 / 11:45 / 12:00 / 12:15 / 12:30 / 12:45 
13:30 / 13:45 / 14:15 / 14:30 

 

皆様のご参加を、教職員一同、心よりお待ちしております。
この機会に、
是非本校へお越しください!
   

 

 

  2017-06-30 2017年6月28日(水)芸術鑑賞会が行われました。

2017年度の芸術鑑賞会が、6月28日(水)に実施されました。
今年度は本校アリーナにて、『 お笑いからみるコミュニケーション 』というテーマで、お笑い芸人の方に来ていただき、ネタとトークショーを開催しました。

当日は、全校生徒をはじめ、在校生の保護者・家族、そして教職員が鑑賞し大いに盛り上がりました。

内容も、漫才だけでなくコントや大道芸など多岐にわたり、出演者も人気急上昇中の方から、実力実績一級品の方、師匠クラスの方ととても豪華。

【出演者】
  9:00~   9:20   もりやすバンバンビガロ
  9:20~   9:35   ゆりやんレトリィバァ
  9:35~   9:50   ミキ
  9:50~10:05   吉田たち
10:05~10:35   コント坂田SP(坂田利夫、シンクタンク、服部ひで子)
10:35~10:50   学天即
10:50~11:05   藤崎マーケット
11:05~11:20 笑い飯

 


最初は教員2人が前説を担当しました。


もりやすバンバンビガロさんは、お馴染みのリンゴをかじる芸から、生徒も参加できる芸で、盛り上がりました!


夙川生徒に1番人気のゆりやんレトリィバァさん、大歓声の中、先生と生徒の悩みを解決してくれました。

 
こちらも大人気、息の合った兄弟漫才で沸かせてくれたミキのお二人。


双子漫才師の吉田たちさん。双子ならではの漫才で会場も大爆笑でした。


続いてはコント坂田SP。坂田師匠の登場の瞬間、大歓声が!そしてみんなでアホダンスを教わりました!


宝塚出身の学天即さん、テンポがよく、地元ネタもあり、爆笑の渦に。


藤崎マーケットさんの ラララライ体操に大盛り上がり。そして、おるおるモノマネは爆笑と共感をよびました。


最後はM-1王者の笑い飯さん。さすがの漫才で会場を魅了してくれました!

最後には、事前に生徒から集めた質問を芸人さんに答えていただくトークコーナーを行いました。
様々な質問が出て、こちらも盛り上がりました。

 


ミキの昴生さんは流れで音響さんとコラボギャグを披露!? 最後にはアリーナ2階まで行ってやってくださいました。

 

終演後には生徒もすごく笑顔で教室にもどっていく様子がとても印象的でした。
関西の伝統文化である「お笑い」を生で見て、話しを聞くことで、今後の生活に何か活かせるものを得れたら嬉しいです。

 

 

 

  2017-06-23 2017年6月20日(火)花の日礼拝が行われました。

  6月20日(火)に、アリーナにて花の日礼拝が行われました。
  

今回の特別礼拝は、関西学院 聖和短期大学教授・宗教主事の小見のぞみ先生をお招きしました。
「タネくんの旅-そして花ちゃんになること」という題で、メッセージをいただきました。

小見先生の教え子が作った絵本の内容を織り交ぜながら、お話して頂きました。タネくんが自分は何の花になるのかを探し出す物語です。

自分は何のために生まれたのか。そのことを知りたいし、それを一緒に考えてくれる人、悩んでくれる人、助けてくれる人を私たちも心のどこかで探しているかもしれません。人と関わることで傷つくことも沢山あるけれど、それでも人と関わり続ける勇気をもつことの大切さを、タネくんは教えてくれました。

私たちも、お話に出てきた花ちゃんのように、自分を受け止めて、励ましてくれる人、そのような人を見つけたいし、誰かにとってはそのような人になりたいですね。
小見先生、このたびはお忙しい中、本校にお越しいただき、ありがとうございました。
 

礼拝の後に、生徒自治会・宗教部の生徒たちが、自分たちで花束をつくり、日頃お世話になっている学校内・近隣の施設、そして先生たちに配りに行きました。
 
 日頃の感謝の気持ちをこめてメッセージを書き、それをお花と一緒に渡しました。

 

保健室、音楽室、図書館に、色鮮やかな花が飾られています^^
 
今年は、持ち寄って頂いたお花の数が多く、礼拝をとても華やかに飾ることができました。
皆さん、お花の持ち寄り、ありがとうございました。
 

 

 

  2017-06-20 中学1・2年 高校3年美術科 遠足

6月16日(金)、中学1・2年生と高校3年美術科は徳島へ行きました。
  
 午前中は渦の道を見学。渦の道とは、大鳴門橋の車道下に設置 された海上遊歩道です。ところどころにガラス張りの床があり、鳴門海峡に発生する渦潮を、約45mの高さから覗き込むことができます。

 

午後からは、大塚国際美術館に行きました。大塚国際美術館は世界の名画を陶板に写した、国内最大級の美術館です。自由時間だけでは回りきれないほど、たくさんの作品がありました。

徳島の大自然や、世界の名画に触れて、普段の学校生活では味わえない貴重な時間を過ごしました。

 

  2017-06-12 6月28日(水)芸術鑑賞会における保護者鑑賞席について

2017年度の芸術鑑賞会が、6月28日(水)に下記要領で実施されます。
今年度は本校アリーナで開催されるため、より多くの保護者の方にもご鑑賞いただきたいと考えております。
つきましては、事前申し込み制とさせていただきたいと思いますので6月23日(金)までに申し込み書を担任にまでご提出くださいますようお願い申し上げます。
※申込書は生徒に配付しております。

【開催日時】  2017年6月28日(水)9:00~11:45(予定)
        ※ 8:45までには来校ください。
【場  所】  本校アリーナ (スリッパをご持参ください。)
        ※ アリーナ2F観客席が保護者席になります。
【テ  ー  マ】  お笑いからみるコミュニケーション
【内  容】  お笑い芸人によるネタとトークショー
        ※ 公演中の撮影・録音はできません。ご了承ください。
【申込対象】  本校在校生の保護者およびその家族

 

【出  演  者】  ※下記画像・チラシをご参照ください。

      
コント坂田スペシャル
(出演:坂田利夫、シンクタンク、新喜劇女性座員)

      
笑い飯                   学天即

      
藤崎マーケット           もりやすバンバンビガロ

      
吉田たち                   ミキ


ゆりやんレトリィバァ

※出演者は、都合により変更になる場合があります。 

 

  2017-06-08 2017年6月6日(火)放送礼拝 メッセージ「仕える者になりなさい」

 6月6日(火)、放送礼拝が実施されました。

雨は上がり、青空が広がっています。
  

今週は、賛美歌21の60番『どんなにちいさいことりでも』を歌っています。
メロディが覚えやすく、歌詞もやさしいので、思わず口ずさんでしまう人も多いようです♪

1番 「どんなにちいさいことりでも かみさまはそだててくださる」って、イエスさまのおことば。
2番 「なまえもしらない野のはなも かみさまはさかせてくださる」って、イエスさまのおことば。
3番 「よいこになれないわたしでも かみさまはあいしてくださる」って、イエスさまのおことば。

子どもたちは、特に3番の歌詞が好きだそうです。

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マルコによる福音書 10章42-45節 「仕える者になりなさい」
学院宗教主事 樋口進

今日お読みいただいた聖書の箇所は、イエスの弟子のゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスにお願いをしたという記事です。
どんなお願いをしたかというと、イエスが栄光を受ける時、すなわち、この世の支配者になる時に、彼らは自分たちを最も高い地位につけてほしい、とお願いしたというのです。
さて、この二人の願いを聞かれたイエスは、非常に悲しまれました。
また、このヤコブとヨハネの願いを聞いた他の弟子たちは皆、腹を立てたというのです。
41節には、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とあります。
他の10人の者が何故腹を立てたかというと、彼らも実は同じことを願っていたからでしょう。
彼らは決して、イエスの思いに立って腹を立てたのではありません。そうではなく、自分たちも同じ思いをもっており、それを二人に先を越されたと思ったので、腹を立てたのでしょう。そこでイエスは、42節のように言われました。

 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

異邦人の支配者というのは、ここではローマ帝国の支配者のことです。
彼らは支配している人々の上に権力を振るっていました。
当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあり、特に重税で苦しんでいました。
このような帝国の支配者は、被支配国に権力を振るって、自分の欲を満たしていたのです。
すなわち、被支配国から富を吸い上げて、例えば自分の宮殿を建てるといったことをしていたのです。
これがこの世の権力者の常の姿です。

しかしその反面、権力者に支配されている人々は、非常に苦しい生活を強いられていました。
権力を求めるということは、そのような非常に苦しい立場の人々を作り出すということなのです。
そのように、権力を志向することが神の御旨でないことは、弟子たちも分かっていたはずです。
しかし、現実には、弟子たちもやはり人間であり、イエスがただの人でないことが分かると、権力の座について欲しいと願ったのです。そしてその暁には、自分が最も高い地位につけてもらいたい、と思ったのです。さらに、他の弟子たちも同じ思いをもったので、互いに相手のことに腹を立てたのです。
しかしイエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」と言われます。
そして、43-44節のように教えられました。

  しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

そしてイエスは自らこれを行われました。すなわち、イエスは食事の席で、自ら弟子たちの足を洗われたたのです。
当時、食事の時に足を洗うのは、召使いの仕事でありました。
イエスは、弟子たちからすれば、先生であったので、むしろ弟子たちがイエスの足を洗うべきでした。
しかし、イエスは、弟子たちの足を洗うことによって「仕える者になりなさい」ということを自ら実践されたのです。
インドで貧しい人のために仕える仕事に一生をささげ、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサは、イエスのこの「仕える者になりなさい」という教え、実践したのです。
彼女は、身寄りもなく、誰にも看取られない人に、愛の手をさしのべて、しばしの安らぎと喜びを与える、という活動をしたのです。
イエスの教えた「仕える者になりなさい」というのは、奉仕の精神と言われます。自分の権力や自分の利益を求めるのでなく、人のためにする、人に喜んでもらえることをする、ということです。
マザー・テレサは、自分は誰にでも出来ることをしたに過ぎません、と言っています。
路上で死に行く人の手を優しく握ってやる、ということは誰にでも出来ます。
しかし、人間は、プライドが邪魔してなかなか出来ません。

人のためにする、たとえば、ボランティア活動などはそうでしょう。
災害に遭って困っている人のために、ちょっと手伝ってやる。
あるいは、電車でお年寄りに席を譲ってやる、ということも奉仕の精神と言えるでしょう。
このようなちょっとしたことは、私たちの周りにたくさんあると思います。
みんなの使っているところが汚れていたとき、みんなのためを思ってちょっと掃除をする、といったことも「奉仕の精神」であると思います。
そんなオーバーなことでなくていいのです。しかしその時、ちょっと恥ずかしいとか、自分のプライドを少し捨てなければなりません。
奉仕というのは、英語でServiceと言いますが、Serviceを辞書で引くと「礼拝」という意味もあります。
礼拝というのは、神への奉仕なのです。今、皆さんは礼拝をしていますが、礼拝において神の言葉を聞く、お祈りをする、讃美歌を歌う、これも神への奉仕なのです。

イエスは、神に仕えることと、人に仕えることを教えられました。皆さんも、是非、ちょっとしたことでいいですから、自分の利益のためでなく、人のために仕えることをしてみてください。

 

 

  2017-06-06 2017年6月6日(火)第1回目 赤ちゃん先生プロジェクトが行われました。

6月6日(火)、今年度第1回目の赤ちゃん先生プロジェクトが、中学生全員を対象に行なわれました。 

『赤ちゃん先生』とは、赤ちゃんと直接触れ合いながら、ママ講師のお母さん方から赤ちゃんのお話を聞くことで、命の大切さを学ぶことを目的としたプロジェクトです。

今日は4班に分かれて、4組の親子から、お母さんの育児の内容や様子、赤ちゃんがどういったときに泣くのか、今どういった成長段階なのか、など学びました。その後に一人ずつ、赤ちゃんを抱っこさせてもらいました。
 

「抱っこしてみたら、意外と重かった!!」という感想が多かったです。
私たちのお母さんも、昔は、日々重たくなる私たちを抱っこして大変だったことでしょう。
 
次回の赤ちゃん先生は、9月になります。
今日お会いした赤ちゃん先生たちが、二ヵ月後に、どれほど大きく成長したか見るのが楽しみですね!

 

  2017-05-18 2017年5月16日(火)放送礼拝 メッセージ「最も大切なもの」

5月16日(火)、放送礼拝が実施されました。

 
アリーナでの全校礼拝とはまた違って、
それぞれの教室でアットホームな雰囲気のなか、礼拝が守られます。


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マルコによる福音書8章34-36節 「最も大切なもの」
学院宗教主事 樋口進

 

あるアンケート調査で、「あなたにとって最も大切なものは何ですか」というのがありました。
皆さんは、どう答えるでしょうか。
その答えで一番多かったのは、「健康」と答えた人です。
わたしも、学校の健康診断でコレステロール値と血糖値が少し高いということで、食べるものとか運動に気をつけています。そうやって、テレビを見ますと、健康に関する番組が非常に多くあることに気付きました。
そして、この食べ物がいいとか、この運動がいいとかいうと、すぐ試したくなります。
やはりこのアンケートにあるように、多くの人は健康に気をつけているのだな、と思いました。
そして、先ほどのアンケートで次に多かった答えは、「毎日を平和に過ごす」というものです。
そして、次に「お金」でした。
健康で、毎日平和に過ごし、多少のお金があれば、言うことなし、ということでしょうか。
「健康であること」、そして「毎日平和に過ごす」こと、そしてお金は、それ自体としては決して間違ってはいないでしょう。
しかし、人間にとって、一番大切なものは、それだけでしょうか。
もっと大切なものはないでしょうか。

先ほどの聖書において、イエスは「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われました。
この命と訳されている語は、ギリシア語ではプシュケーという語です。
これは、「命」とも「魂」とも訳せる語です。
これは、単に動物的に生きるという意味での生命ではありません。
もちろんそれも含みますが、命を与えて下さった神との関係における本来の人間の命です。
霊的な命と言ってもいいでしょう。

そして、聖書において、一番大切なのはこの命です。
聖書の理解によりますと、私たちはこの命を神から与えられたものです。
ですから私たちは、本来、命を与えてくださった神との関係において生きる者です。

健康ということは確かに大切でしょう。
わたし自身もそれを常に願っています。そしてそれなりに気をつけています。
食事に気をつけるとか、適度に運動をするとかです。
かし、命を与えて下さった神との関係を無視した生き方においては、自己中心的な健康の考え方になると思います。すなわち、自分さえ健康であればいいと考えてしまいます。
健康を害して苦しんでいる人の苦しみが見えません。
健康が一番幸福だとすると、病気の人は不幸ということになります。
しかし、たとえ健康を害していても、その魂(プシュケー)が生き生きとしている人もいます。

最近、日野原重明氏と星野富弘氏との対談が本になりました。
『たった一度の人生だから』というタイトルです。
この対談の中で、星野富弘さんは、「いのちというのは、自分だけのものじゃなくて、だれかのために使えてこそ、ほんとうのいのちではないかと思いました」と言っています。

また、「毎日を平和に過ごす」と言うことを最も大切に考えている人がいます。
確かにそれは大切なことですが、これも下手をすれば自己中心的な考えになります。
すなわち、自分が平和に過ごせたらそれでいい、ということです。
自分の家庭、自分の職場、あるいは自分の国が平和であればよい、という考えです。
他の国に戦争があっても、抑圧があっても、そういうことには関心がない、という態度です。
あるいは、お金や財産が一番大切だという考えも、往々にして自己中心的になりがちです。

イエスは、先ほどの36節で、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われました。「全世界をもうける」とは、所有の極限でしょう。人間はあれも欲しい、これも欲しいと思うものです。そしてその最大のものを、全世界で表しているのです。
しかしイエスはここで、人は全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何もならない、と言われます。
人間はあらゆるものを手に入れることができたとしても、命を得ることはできません。
命は決して物によって交換できるものではありません。

エーリッヒ・フロムというユダヤ人の社会学者は、『生きるということ』という本を書きました。
この原書での題は、「持つことかあることか(to have or to be)」というものです。
彼は、この本の中で、現代社会においては、人間は「持つ」というあり方になっている、と言います。
そして、持つという場合、すべてを物に還元してしまい生きた関係を損なってしまっている、と言います。
それに対して、「ある」ということは、何も束縛されず、神から与えられた命、存在そのものを大切にする、と言います。
そして、他者との関係においては、与え、分かち合い、関心を共にする生きた関係となる、と言っています。このフロムの主張は、現代の物質文明を批判し、真の人間のあり方を追求しようとしたものです。

そして、私たちは、もう一歩進めて、真の人間のあり方は、私たちに命を与えて下さった神との関係に生きることだ、ということを考えたいと思います。
35節には、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」とあります。自己中心的な生き方をする者は、結局命を失ってしまう、とイエスは言います。私たちに命を与えて下さった神との関係に生きるということが、本当の命を得ることだということを思い、この命を大切にしていきたいと思います。

 

  2017-05-11 2017年5月9日(火)放送礼拝 メッセージ「万事は益となる」

5月9日(火)、放送礼拝が実施されました。
 
本校では、様々な形式をとった礼拝を、毎日守っています。
放送礼拝はそのうちの一つで、各教室にて放送で讃美歌を歌ったり、メッセージを聞いたりします。

  

  静かに、聖書の言葉に耳を傾けます。     夙川学院オリジナルの聖書讃美歌バッグです。
 

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ローマの信徒への手紙8章28-30節 「万事が益となる」
学院宗教主事 樋口進

人生には、自分の計画通りでないこともあります。
そのようなとき、自分の目指していたことは違うと言って、受け入れたくないと思うかも知れません。
しかし、自分の思っていない事態になってもそれを受け入れるならば、そこから新しい道が開けてくることがあります。
大事なことは、与えられたものを受け入れると言うことです。
人生には、自分の意志でないのに受け入れなければならないことがあります。
それは、自分が生まれてきたことです。
私たちは、自分の意志で生まれてきたのではありません。
芥川龍之介の小説に『かっぱ』というのがありますが、そこでカッパは生まれるときにお腹の中で、お前は生まれたいか、と聞かれると言うことがいわれています。今の世の中は、暮らしにくく、嫌だと思えば、「生まれたくない」と言うことができるというのです。
しかし、人間の現実にはそんなことはありません。
私たちは、自分の意志とは関係なく、この時代に、日本に、それぞれの両親の元に生まれてきたのです。
これは、受け入れるしかないのです。
こんな時代に生まれたくなかったと言っても、どうしようもありません。
しかし、このようにして生まれてきたことを、神によって与えられたものとして、受け入れるのです。
私たちは、自分で決められることももちろんありますし、決めなければならない場合もあります。

しかし、自分で決められないこともあります。あるいは、自分の望んでいない事態になることもあります。
皆さんの中には、夙川学院に入ることを望んでいなかった人もいるかもしれません。
そのようなとき、たとえ自分の望んでいなかったことでも、受け入れるということが大切なことです。
そして、それが神から与えられたものだと受け入れるならば、自分の望んでいないことでも神が良き方向に導いてくださるのです。

先ほど読んだ聖書のローマの信徒への手紙8章28節に、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とありました。
ここでは、神は万事を益としてくださる、と言われています。
ローマの信徒への手紙は、パウロという人が書いた手紙ですが、これはパウロの実際の経験から出た言葉です。
パウロは、初期のキリスト教の伝道者でした。彼は実に多くの地方に伝道し、キリスト教を広く伝えました。
パウロのお陰でキリスト教が世界の宗教になった、と言っても過言ではありません。
彼は、綿密に計画を立てて伝道したのですが、しかし計画通りに行かなかった場合も多くありました。
ある時は、北の方に行く計画をしていたのですが、何かの差し障りが起きてそちらに行くことができずに、逆の方に行かざるを得ないこともありました。そして、最初の計画を諦めて、別の方向も神によって与えられたものと受け入れて、そちらに行くと、そちらで思わない成果が得られたと言うこともありました。この「万事を益としてくださる神」ということは、そのようなパウロの実際の体験から出た言葉なのです。

私たちは、時には、とても辛いこと、苦しいことが与えられることもあります。
そのようなときも、そんなのは厭だ、と言って受け入れたくないかもしれません。
しかし、それを受け入れるならば、神が万事を益としてくださるのです。
パウロは、神は万事を益としてくださる、と言いました。
自分の考えていたことと違う事態になっても、その事態を受け入れ、それを神に与えられたものと受け止めるときに、神は万事を益としてくださるのです。パウロは、そのことを実際に何度も体験しました。
私たちの人生に於いても、私たちの計画通りに行かないこともあると思いますが、そのことも神によって与えられたものだと受けいれるならば、神は万事を益として下さることを覚えたいと思います。

 

  2017-04-25 2017年4月25日(火)イースター礼拝

4月25日(火)に、アリーナにてイースター礼拝とイースター作文朗読が行われました。

イースター礼拝は、今年本校で初めて行われた礼拝です。
イースター」は<復活祭>ともいい、十字架で処刑されたイエスキリストが3日後に復活したことを祝い、記念する、キリスト教の重要な行事の一つです。近年、日本でも注目され始めていますね。

今年は「振り返りとこれからへの思い」というテーマで、全校生徒が作文を書きました。
そして今日、各学年の代表生徒が壇上に上がって、自分の作文を朗読しました。

中学1年生 『中学生になって』
中学2年生 『先輩への思い』
中学3年生 『過去を振り返り、未来に向かって歩む』
高校1年生 『私の高校デビュー』
高校2年生 『自分を見つめ直し、そして成長』
高校3年生 『私の将来の夢』

 

 

 

それぞれの未来への思いがこめられた、素晴らしい作文でした。

期待と希望を胸に、これからの学校生活を送ってくださいね。

 

エゼキエル書37章1-10節  「希望に生きる」
学院長 樋口 進 牧師

今日はイースター礼拝です。イースターは、キリスト教の三大祭りの一つです。
三大祭りの一つは、クリスマスです。
これは皆さんご存じだと思いますが、イエス・キリストの誕生を記念するお祭りです。
もう一つが、このイースターですが、これは、イエス・キリストの復活を記念するお祭りです。
もう一つは、ペンテコステ(聖霊降臨日)と言いますが、これは余り知られていないと思います。

さて、イースターは、年によって日が違うのですが、今年は、4月の16日でした。
これには、特別の計算方法があるのですが、今日は割愛します。
とにかく、イースターは、イエス・キリストの復活を記念する日です。
復活、死んだ人が生き返る、私たちの頭では考えられないことです。
これを科学的に証明する方法はありません。
具体的にどういうことが起こったのか、それは聖書にもはっきりとは書かれていないのです。
書かれているのは、それぞれの弟子たちが、復活のイエスに出会ったというそれぞれの体験が書かれているのです。
それぞれが違う体験をしているのです。
ある人は、道を歩いている時に復活のイエスに出会ったのだが、それが誰か最初分からなかったが、一緒に食事をしている時に、それがイエスだと分かった、しかしその瞬間に消えてしまった、というのです。
しかし、共通して言えるのは、みんな希望が与えられた、と言うことです。
弟子たちにとって、イエスが一番大事であり、一番尊敬していたのです。
そのお方が、突然、十字架にかけられて殺されてしまったのです。
ここで、彼らはみんな、絶望状態に陥ったのです。
しかし、復活のイエスに出会うという体験をすることによって、絶望が希望に変えられたのです。
そして、イエスの教えていたことの意味がはっきりと分かったというのです。
そして、そのイエスの教えを他の人に伝えていく力が与えられたというのです。

さて、今日お読みしたは、旧約聖書のエゼキエル書です。
これは、イエスよりも600年位前の預言者が見た幻の記事です。
この幻も、イエスの弟子たちが体験したのと同じようなことが言われています。
どんな幻かというと、ある谷に多くの骨が散らばっていた、と言うのです。
恐らくここで、かつて戦いがあり、多くの兵士が殺されたのでしょう。
しかし、それから相当時が経ち、もう骨は白骨化していた、と言うのです。
しかし、その枯れた骨に、預言者が神の言葉を語りかけ、神の霊が吹きかけられると、それらは生き返り、多くの兵士となった、と言うのです。
ただこれは、幻であって、実際にこのようなことが起こった、というのではありません。
それでは、この幻が意味していることは何か、と言うことです。
それは、その後に書かれているのですが、「枯れた骨」というのは、当時のイスラエルの人々の絶望状況を表しているのです。
当時のイスラエルは、バビロニアという国に滅ぼされ、多くの人が捕虜として、敵の地に連れて行かれたのです。
そこで人々は、絶望状況に陥ったのです。
しかし、この預言者が、その絶望している人々に神の言葉を語り、神の霊が働いてくれるように祈った所、生きる希望を与えられた、と言うことなのです。
絶望が希望に変えられた、これが復活の体験なのです。
人間は、貧しさには耐えられます。
また、肉体的な苦痛にも、かなりの程度耐えられます。
しかし、自分が一番の頼りにしていた精神的な拠り所を突然失ったならば、絶望に陥るのないでしょうか。
たとえ、食べて寝てと肉体的に生きていても、精神的には全く死んだ状態です。
これが、「枯れた骨」と言われているものです。
人間は呼吸をし、動いているだけでは、動物的に生きていても、真に人間として生きているとは言えません。
目的を持ち、希望を持ち、たとえ苦労しながらでも喜びを味わい、積極的な意味を持っていなければ人間として生きるということにはなりません。
肉体的に生きるだけでなく、精神的に生きなければなりません。
まさに絶望状況にある人に希望を与えた、これが復活の体験だったと思います。

 「アンパンマン」という漫画の作者であるやなせたかしさんは、92歳で亡くなりましたが、彼の自伝的な本に『絶望の隣は希望です』というのがあります。
彼は、次のような詩を作っています。

 

  絶望のとなりに

  だれかが

  そっと腰かけた

  絶望は

  となりのひとに聞いた

  「あなたはいったい

  誰ですか」

  となりのひとは

  ほほえんだ

  「わたしの名前は

  希望です」

これは、やなせさんの実際の体験から作られた詩です。
彼は、漫画家になったのですが、40代、50代の頃は、代表作がなく、いろんな仕事をしながら、生計を立てていたそうです。
そしてしばしば絶望状態に陥ったそうです。
そんなとき、ある漫画家の先輩からこう言われたそうです。
「やなせ君、きみが落ち込む気持ちは分からんでもないが、人生はね、一寸先は光だよ。いいね、途中でやめちゃったら終わりだよ」と。
ここでやなせさんは、先輩の「一寸先は光」と言われた言葉に、非常に励まされ、地道に漫画を書き続け、ついに「アンパンマン」で大ヒットした、ということです。
これはもう、60歳になる頃だったということです。
ここから、絶望のとなりに希望がある、という詩を書いたのです。
イースターの時に弟子たちが体験したことも、先ほどのエゼキエル書の幻においても、絶望が希望にかわることが言われていました。
私達も、絶望に陥ることなく、希望をもって人生を歩みたいと思います。

 

 

  2017-04-20 2017年度 オープンスクール・学校説明会の日程

2017年度 オープンスクール・学校説明会の日程が決定しました。
 

2017年度オープンスクールの日程は以下の通りになっております。

「高等学校」

第一回 8月27日(日)

第二回 9月9日(土)

「中学校」

第一回 6月18日(日)
第二回 7月9日(日)
第三回 8月27日(日)
 

※高等学校・中学校ともに10:00~実施予定です。
 

 
2017年度学校説明会の日程は以下の通りになっております。

「高等学校」

第一回 9月24日(日)
第二回 10月7日(土)
第三回 10月28日(土)
第四回 11月5日(日)
第五回 11月25日(土)
第六回 12月2日(土)
第七回 12月17日(日)

「中学校」

第一回 9月9日(土)
第二回 9月24日(日)
第三回 10月28日(土)
第四回 12月2日(土)
 
※高等学校・中学校ともに10:00~実施予定です。

  
ご不明な点がございましたら、本校までご連絡下さい。(078-940-1131)

 

  2017-04-10 2017年4月10日(月)入学式

4月10日(月)入学式が挙行されました。

 
聖書朗読                       校長式辞

理事長式辞                     新担任紹介


新入生退場

新入生は新しい制服に身を包んで緊張した面持ちで入場されていました。
これからの学校生活を楽しんでいきましょう!!

入学式後特別講演として、駐日ギニア大使館顧問である、オスマン・サンコン氏による講演会が実施されました。
講演中会場に笑いが起きるなど、とてもいい雰囲気のなか、オスマン・サンコン氏の『命の大事さ』や『両親に対する感謝』といった内容の講演をしてくださいました。

 

   2017年4月8日(土)始業式

4月8日(土)夙川学院中学高等学校の始業式が挙行されました。

春休みの間は静かだった学校に、また元気な声が戻ってきました。

始業式の前に、柔道部の表彰がありました。
   
 第39回全国高等学校柔道選手権大会女子団体戦 優勝

柔道部の皆さん、おめでとうございます。

   

各種表彰の後に、今年就任した理事長、校長よりお話がありました。

いよいよ新学期スタートです。皆さんが夢と目標を持ち、日々小さな努力を続けることのできる1年になればと思います。新たな気持ちで、学びを深めていきましょう!

今年度もよろしくお願いいたします。

 

  2017-03-13 2次入試・D日程入試について

本日より高等学校では2次入試、中学校ではD日程入試の出願を募集しております。
詳細はこちらをご覧下さい。
→高等学校:
2次入試について
   中学校:D日程入試について


ご不明な点がございましたら、本校までご連絡下さい。(078-940-1131)

 

  2017-03-11 3月8日(水) 学期末指導・表彰・生徒指導講演会

3月8日(水)に、アリーナにて学期末指導・表彰と生徒指導講演会が行われました。

 

学期末指導・表彰
 
学期末指導では服装についてや追試験・再試験についてのお話しを聞きました。
また、吹奏楽部とESS部の代表者が壇上に上がり、表彰が行われました。吹奏楽部は、第44回兵庫県アンサンブルコンテストにて銀賞を受賞し、ESS部は、
平成28年度神戸新聞社杯プレゼンテーションコンテストにて第3位を受賞しました。

 

生徒指導講演会
 
生徒指導講演会では、携帯電話に伴うトラブルなどの事例とその予防対策についてビデオを使って警察官の方に紹介して頂きました。
携帯電話において軽はずみな気持ちでクリックすることの怖さを再確認できたと思います。今日学んだことをしっかり頭に入れてトラブルに巻き込まれないようにしておきましょう。
  
  

   

 

  2017-02-22 全校礼拝

本日、全校礼拝が実施されました。

 聖書:マルコによる福音書10:13~16  
 讃美歌:451番  「子供のように」

 

 今日読んだ記事は、イエスが子供たちを祝福した、という記事です。13節には次のようにあります。イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。ここで、「人々が子供たちを連れて来た」と記されています。この人々がだれなのか、その幼子がどのような人で、何人なのか、何の目的で連れて来たのか、ということは一切言われていません。イエスの周りには、実に色々な人が集まりました。子供は、当時のユダヤ人の社会では、何等重要視されない、無視された存在でした。それは、子供はまだユダヤ教の律法を守ることが出来ない存在であったからです。しかし、イエスは、その子供を重要視しました。 さて、今日のところで、人々が幼子を連れて来たのは、イエスに触れて頂くためだ、とあります。恐らくこの人々というのは、田舎の素朴な人々で、イエスの評判を聞きつけて、イエスに触れてもらったら何かいい事でもある、と単純に思ったのでしょう。彼らはイエスが病人に触れたら病が癒された、というような評判でも聞いたのでしょう。いわば、御利益的な思いから、わが子をイエスに触ってもらおうとしたのでしょう。 しかし、それを見て、弟子たちは「叱った」とあります。この「叱った」と訳されている語は、もっと強い調子の言葉です。「叱りつけた」位でしょう。 この「子供たち」と訳されている語は、ギリシア語ではパイディオンという語ですが、新生児に使われることもあれば、12歳位の娘にも使われることもあります。従って、この語は、かなり幅のある年令の子供をさしています。従って、ここでイエスの所に連れて来られた子供は、赤ちゃんであったのか、あるいはもう思春期になる位の子であったのかは、分かりません。そして、この語は複数になっているので、一人ではなく、何人か、恐らく数人であったでしょう。突然の子供の登場は、弟子たちには、余計な事であり、そのような子供たちが邪魔であったでしょう。 しかし、イエスの態度は弟子たちとは、対照的です。14節には、
  しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
とあります。ここでイエスは「憤った」と言われています。勿論弟子たちの態度に対してです。弟子たちは、むしろイエスの為を思ってしたことであったかも知れません。即ち、忙しいイエスにそんな子供にわずらわせてはいけない、と配慮したのかも知れません。しかし、それはイエスのみ心とは全く違っていたのです。この「憤った」というのは、非常にきつい語です。激しい怒りを表します。そして、この語がイエスに言われているのは、ここだけです。ここには、子供たちに対するイエスの愛と、子供たちを軽んじる弟子たちに対する非難が表されています。そしてイエスは、「神の国はこのような者の国である」と言います。これは一体どういう意味でしょうか。子供は汚れがなく純粋であるから神の国にふさわしい、ということを言っているのでしょうか。しかし、子供も結構いじわるをしたり、悪いことを考えたりします。必ずしも罪がない、純粋だとは言えません。子供自体が評価されているのではありません。そうではなく、子供は全く無力な存在である、ということです。これは高く評価されているというよりは、負の評価です。当時のユダヤ人の一般的な判断によると、子供は律法については無知であり、それゆえに律法に照らして神の前に自分を主張出来ない存在です。従って、子供は、自分に誇るべき何物もないのです。社会的にも、何の力もなく、何の影響力もないのです。もし、親や大人の庇護がなければ、子供は非常に惨めな存在です。それゆえに、いつの時代にも、子供が受難を受けることがあります。そして現代においてもそういう現象がしばしば見られます。子供は無力であり、大人の暴力に抵抗することも出来ません。また、法律などを知らないために、自分を主張することも出来ません。また、日本では、最近幼児虐待ということが社会問題になっています。最も頼るべき実の親に虐待されたら、子供は一体だれに頼ればいいのでしょうか。子供というのは、そのように本質的には全く無力な存在なのです。イエスは、その自ら何の誇る所もない、弱い存在である子供を受け入れ、愛し、祝福したのです。 ここでイエスが子供を祝福したのは、子供の側にそれにふさわしいものがあるからではありません。それは神の徹底的な恵みの賜物にほかなりません。神の一方的な恵みです。ここでイエスは、数人いたであろう子供を一人一人吟味して、それに基づいて祝福をしたりしなかったり、ということはしていません。全く無条件にどんな子供も受け入れ、等しく祝福しているのです。勿論ここで、子供たちは、初対面のイエスに対する信仰などはもっていなかったでしょう。子供たちの側に何か祝福に足るものをもっていたからではなく、全く無条件にイエスは彼らを祝福したのです。これは当時のユダヤ教からは、考えられないことでした。当時のユダヤ教は、律法主義、功績主義でした。その人に何らかの功績なり、資格なりが必要でした。従って、律法を忠実に守り、自分に資格があると思う人は、自分を誇り、資格のない人を見下げたのです。子供は当然、大人のように律法を忠実に守ることが出来なかったから、低く見られていたのです。イエスは、そのように当時の社会において低く見られた人にあえて近付き、交わりをもたれたのです。それは取税人であり、病人であり、女性であり、子供であった。しかし、イエスはこのような無力な人を受け入れ、愛されたのである。 15節には
  はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決  してそこに入ることはできない。
とあります。子供は全く無力な存在です。従って、常に親に頼ります。このことと、自分に誇るべき物がない者は、神に頼らざるを得ない、ということと比べているのです。私達はどうでしょうか。何か誇るべき物を持っているでしょうか。私達も実は、本当は無力なものではないでしょうか。本当は、何も誇るべきものは、ないのではないでしょうか。ただ神に頼るしかない存在ではないでしょうか。そしてそういう姿を謙虚に認めるならば、私達はかえって神の国が近いのです。私達も幼子のように神の国を受け入れる者でありたいと思います。

 

  2017-02-15 卒業送別礼拝

本日、卒業送別礼拝が実施されました。
 

 

聖書:エフェソの信徒への手紙5章6-8節   
讃美歌:493番・465番
「希望の光」

今日は、中学高校の卒業送別礼拝です。夙川学院では、卒業送別礼拝においてローソクに火を灯します。なぜ、こんなことをするのでしょうか。ローソクの火は、光を象徴します。聖書においては、光は希望や救いを表します。クリスマスにおいても、ローソクに火を灯しましたが、これは暗い世の中にキリストは、光としてこの世に来られ私たちに希望や救いをもたらして下さったということ意味します。皆さんは、真っ暗ということを経験したことがあるでしょうか。真っ暗の中にいますと、本当に底知れない恐怖に陥ります。皆さんは、停電を経験したことがありますか。わたしの小さい頃は、よく停電がありました。夜停電になると、あたりが真っ暗になり、周りに何があるか一切分かりません。ちょっとしたものにつまずいたりして、とても不安と恐怖に陥りました。そして、しばらくして電気がつくと、ほっとしました。旧約聖書の一番最初の所で、神は何もなかった所に、まず最初に光を造った、ということが書かれています。これは、神はわたしたちに救いと希望を与えたということを言おうとしているのです。卒業生は、今から、新しい進路に向かいます。不安があるのではないでしょうか。ローソクの火は、そのようなときに希望を持って歩んでください、というメッセージなのです。不安を持ったとき、聖書を読んでください。きっと、聖書の言葉は、皆さんに希望の光を与えてくれるでしょう。それから、光には、もう一つ意味があります。先ほどの聖書に、「光の子として歩みなさい」という言葉がありました。これは、正しい歩みをする、ということです。人に恥じない正しい歩みです。暗闇だと、何をしているのか分かりません。不正なことは、闇として表現されます。闇に支配されると不正が横行します。先ほどの聖書に、「むなしい言葉に惑わされてはなりません」とありました。闇に支配されると、空しい言葉に惑わされて、間違った方向に歩んでしまいます。そのような所に行かないで正しい道を示してくれるのが光です。光は正々堂々とした歩みです。皆さんも、これからの歩みにおいて、正々堂々と正しい歩みをしてください。その正しい歩みも、きっと聖書を読めば教えてくれるでしょう。卒業する方々は、今後の歩みに不安や恐れがあるかも知れませんが、ローソクの光を思い出し、希望を持って、正しい道を歩んでください。在校生の皆さんも、先輩にならって、希望を持って、勉学生活を続けて下さい。

 
中学3年生、高校3年生が卒業するにあたり、毎年送別礼拝を実施しています。
1つの親火から生徒一人一人のロウソクに届いていきました。
この灯火のように卒業生も明るく、また輝いていってほしいと願っています。

 

  2017-02-11 2月8日(水) 全校礼拝

2月8日(水)全校礼拝が実施されました。

 

 

聖書:マタイによる福音書6章1-4節
讃美歌:465番
「隠れたことを見られる神」

6章2節には、だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられ     ようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。とあります。当時のファリサイ派の人々は、大きな施しをする時、ラッパを吹き鳴らしていた、というのです。これはいささかオオバーかも知れません。いかにも今施しをしました、ということを人に見せるためです。そして人から、あの人はあんな沢山施しをしている、偉い人だ、とほめられるためでした。それに対してイエスは、3節において、
    施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
と言われました。これも非常にオーバーな表現ですが、善行は人に隠れてすべきだ、ということです。しかしそれは、隠れたことを見られる神にのみ見られており、神によって報いを受ける、というのです。  私は、学生の時代、多少苦学をしていました。本を買うお金がないので、アルバイトをしていました。しかし、それを知ったある人が、匿名で私への本代としてお金を送って下さいました。私は、それを月一回、受け取りました。ただし、送ってくれた人は、匿名であったためにだれかは分かりませんでした。それで、私はアルバイトをせずに本を買うことができました。当時のお金でかなりの額だったように思います。私は非常に助かり、もうアルバイトをせずに本を買うことができました。そのうち、その人が分かったらお礼を言いたいと思っていたのですが、未だにその匿名の人がだれかは分からないのです。その人は、きっとこのイエスの「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」という言葉を忠実に守られたのではないかと思います。今の世の中、これとは逆のことが多いのではないでしょうか。コマーシャルの時代で、自分の徳をもテレビで宣伝している人もいます。それも、何倍にも増幅して宣伝しているのです。神にではなく、人にどう評価してもらうか、ということが横行しています。そこで、人にわからなければ善い行いをしないどころか、逆に不正なことをしています。そのような事件が頻発しているのではないでしょうか。最近は、企業でも官庁でも不正な事件が横行しています。世の中、実に人の目をいかにごまかして利益を得るか、ということに満ちているように思えます。しかし、人の目をごまかせたとしても、隠れたことを見られる神の目は決してごまかせないのです。人は表面的なことを見て評価しますが、しかし神はその表面から隠れた所を見られるのです。今日のテキストにおいて、最後は「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」という言葉で締めくくられています。神に対する畏れというものがほとんどありません。それゆえに、私達の心を痛める事件が次から次へと起こります。かつて、飲物や食べ物に毒物を混入させるという事件が頻発しました。犯人は何のためにそのようなことをしたのでしょうか。これも「隠れたことを見られる神」という信仰が全くない所から起こっているのではないでしょうか。しかし、人間の目には分からなくても、神の目にはすべてが分かっているのです。私達は、この畏れをもつ必要があります。私達は、隠れたことを見られる神への信仰を常にもち、この神が報いてくださるようにと日々の生活を歩みたいと思います。

 

  2017-02-03 2月1日(水) 全校礼拝

2月1日(水)全校礼拝が実施されました。

  

聖書:ローマ人への手紙12章9-21節
讃美歌:451番  
「よい人間関係」

私たちは、よい人間関係を結びたいと思います。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。その時に大切なのは、自分中心ではなく、相手のことを思うと言うことです。ローマの信徒への手紙を書いたパウロという人も、常によい人間関係を築くために努力したと思います。その総括のようなことが、今日の所に書かれています。今日読んだことをすべて行うことは難しいかもしれませんが、この中の一つでも二つでも行うことができれば、人間関係も少しよくなると思います。このローマの信徒への手紙は、パウロがローマの教会に集まっている人々に書いた手紙ですが、教会に集まっている人もいろいろあって、人間関係にいろいろな問題も起こったようです。全部についてお話しする時間がないので、そのうちのいくつかを取り上げてお話しします。そこで、パウロが勧めた生き方が今日読んだものです。まず最初に、9-10節には、
  愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をも  って互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
とあります。私たちがよい人間関係を結ぶとき、基本となるのは愛だと思います。そこでパウロは、まず最初に「愛」を勧めます。この愛は、聖書においても最も中心のものです。パウロは、この世で生活するに当たってのいろいろな勧めをなしますが、その根本に愛がなければ、一切は無益だ、ということで愛から語り始めていると思います。 さて、9節からは、沢山の勧めがなされています。
それら一つひとつはどれも、私たちがよい人間関係を結ぶためにすべて大切なものばかりです。しかし、一つひとつを取り上げて話していけば、とても一回の話では足りません。このうちの一つでも二つでも行うことができれば、人間関係はよくなると思います。そこで、今日は2、3のものだけを取り上げることにします。15節には、
  喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
とあります。泣く者と共に泣くということは、比較的易しいかも知れません。不幸にあった人に同情することは比較的できるのではないでしょうか。しかし、喜ぶ者と共に喜ぶ、というのは、そう容易ではありません。人間は、自己中心的であり、他人の幸福をそう素直に喜べないのです。人間には嫉妬心があるからです。これができるのは、本当の愛に生かされた人ではないでしょうか。例え他人の幸福を素直に喜べない人でも、同じ家族の者の幸福は喜ぶのではないでしょうか。親は、子供の幸福を無条件で喜びます。子供の幸福に嫉妬する親というのはあまりないと思います。ですから、友達も家族のように大切だと思うことができれば、共に喜ぶこともできるでしょう。 次に18節には、できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさいとあります。人と争わず平和に暮らすということも大切なことです。人と平和に暮らすには、ある程度自分を押さえなければなりません。お互いに自我を押し通すところからは、平和は生まれません。これにはやはり、愛と忍耐が必要でしょう。 次に19節には、
  愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたし  のすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
とあります。人間は、「喜ぶ者と共に喜ぶ」ということが中々出来ませんが、それどころか、人への憎しみを持ちやすいものです。人の過ちを中々赦すことが出来ず、報復をします。人間の歴史は、報復の歴史だ、といってもいい位、報復が繰り返されています。そしてしばしば、この報復ということが美化され、また美化とまではいかなくても、当然の権利である、と思われています。日本の昔の話にも、「仇討ち」の話がよくありますが、忠臣蔵などに代表されるように、仇討ちということが美化されていました。これは何も日本だけでなく、世界中に似たような話が沢山あります。ということは、人間とはいかに赦せないか、報復せずにおれない存在か、ということを示しているように思えます。現在においても、テロ事件が起こると被害に遭った方は、報復します。そうすると、報復された者は、その報復としてまたテロ事件を起こします。このように報復の連鎖となって、留まる所を知りません。人間は、中々人を赦せないものですが、もし赦すことが出来れば、それは神の愛の働きのような気がします。 ここでパウロが勧めている生き方を少しでも実行することができれば、よい人間関係を築くことができると思います。