全校礼拝 「思いやり」 フィリピの信徒への手紙2章1-4節 | 夙川学院中学校・高等学校

2018-11-16 全校礼拝 「思いやり」 フィリピの信徒への手紙2章1-4節

2018年11月16日(金)の全校礼拝にて、宗教主事の樋口学院長が、
フィリピの信徒への手紙2章1節~4節 「思いやり」と題して、お話をしてくださいました。

今日は「思いやり」と言うことについて考えてみましょう。この思いやりというのは、聖書の精神でもあります。先ほど読んでいただいたフィリピの信徒への手紙2章3-4節に

  「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、
  へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
  めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」

とありました。「思いやり」というのを『広辞苑』で調べてみると、「自分の身に比べて、人の身について思うこと」とあります。別の言葉で言うと、「その人の立場に立って思う」ということです。

イエスの有名な言葉に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。」というのがあります(マタイ7:12)。これは最も大切な教えだということで「黄金律」と言われています。「その人の立場に立って思う」ということはとても大切なことですが、それが中々出来ないというのもまた人間の悲しい現実です。これが出来れば、世の中は幸せになると思います。今の日本は、このような「思いやり」の心に欠けているのではないでしょうか。そのために心を痛めるような悲しい事件が、次から次へと起こっています。

人間はしばしば言葉に傷つきます。人から言われたイヤな言葉に落ち込むこともよくあります。それがひどい場合には、自殺にも追い込まれます。

旧約聖書の箴言12章18節に、

  「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。
  知恵ある人の舌は癒す。」

という言葉があります。

人に対する一言の言葉がひどく傷つけることもあります。また逆に一言の言葉が人を癒すこともあります。人の立場に立って、「思いやり」のある生き方をしたいものです。

旧約聖書のレビ記19章9-10節に次のような言葉があります。

  「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。
  収穫後の
落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。
  ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために
  残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」

これは、古代イスラエルにあった実際の法律です。ここには、特に弱い立場の人に対する深い思いやりの精神というものがあります。すなわち、自分の畑に農作物が出来て、それを収穫する時に畑の隅々まで全部収穫してはならない、というものです。必ず、四隅はわざと収穫せずに残しておき、貧しい人たちや寄留者が自由に取って食べてもよい、というものです。また、ぶどうなどの果実も摘み尽くしてはならず、また地面に落ちたものは拾ってはならない、というのです。そしてそれらはやはり、貧しい人が自由に取って食べてもよいというのです。

ここの貧しい人というのは、親のない孤児や、夫が死んだ未亡人や自分の土地がなく、収穫物に与れない人たちのことです。そして寄留者というのは、外国から出稼ぎに来ていて、泊まる宿もないいわばホームレスの人です。古代イスラエルに於いては、そのような弱い立場の人を深く思いやらなければならない、という法がありました。

フランスのミレーという画家の作品に「落ち穂拾い」というのがあります。ミレーの生活したフランスのバルビゾンでは、この旧約聖書の精神が生きていたと言われています。私達の社会においても、もっと弱い立場の人たちに思いやりが必要だと思います。

老人や障害を持つ人に対する思いやりもそうです。老人や障害を持つ人たちも、やはり社会的には弱い立場の人たちです。しかし、誰でもやがて老人になる訳だし、障害を持つ可能性がある訳です。ですから、その人の立場に立って思いやるということは、自分のことを思うということでもある訳です。私達も、弱い立場の人たちに、もっと思いやりをもちたいと思います。

 

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